横浜今昔のページ

横浜今昔物語

たった百軒程度の寒村だった横浜村に開港と言う大嵐が訪れました
その大嵐に翻弄されつつ現代の大都市横浜が発展して来た様子を
観て行きたいと思います。多くの日本人、そして駐留外国人の夢の結晶を
感じて頂ければ幸いです…ブログに掲載した記事を再編集してご紹介します


開港記念会館今昔


開港記念会館は開港当時は町会所として、建てられました。今の県庁舎横の日本大通りから元町寄り は外国人居留地、そしてこの町会所を含む桜木町方面一帯は日本人町に分かれていました。その日本人町の 会所だった訳です…


この町会所の大時計はJames Favre-Brandtが自ら指揮して据え付けたスイス製のものだったそうです。

開港記念会館今昔2


再び町会所です。この町会所(現開港記念会館)は日本人町の町内会事務所でしたので、ここ本町1丁目通りは ご覧のように、日本人の商店などが展開しています。今はもちろん日本人町の面影はありません… 古写真の向かって左の白い建物が町会所、そして現在の開港記念会館の煉瓦が見えています…

不動坂今昔1


不動坂から望む本牧の海は、ミシシッピ湾に匹敵する景勝の地でした。根岸競馬場で競馬を 楽しんだ外国人や日本人の観光名所だったようです。今は本牧の海も埋め立てられて ほとんどその頃の華やかな雰囲気はありません…

不動坂今昔2


不動坂は、上で紹介したように、旭台の高級住宅地から根岸町への何の変哲もない坂ですが、 その昔、坂には着飾った日本人や外国人が行きかい、坂の上には、こうした茶屋もありました…

当時と現在を遠景などから推測しますと、ここのグレーの外壁のお宅が茶店のあった辺りだと 思われます…

不動坂今昔3


不動坂の名前の由来はこの坂を降り切ったところにある「白滝不動」に由来します。この白滝不動 には、根岸の台地から、豊富な水が湧き出る滝があります。今は台地はすっかり開発されて、滝の水量も 僅かになったようです…はっきり分かりませんが、昔はこの坂の下の根岸町辺りも滝頭村と よばれていたようですからもしかしましたら滝頭はこの滝に由来するのではないかと思います…

向かって左側の古写真は明治時代に整備されている白滝不動の階段です。真ん中が男坂そして右側に 女坂が造られています…そして今でも、そのままの佇まいです。階段を覆う木々が、歴史を感じさせます…

不動坂今昔4


この白滝不動のいわゆる門前町とも言うべき街並みはあったようです。ここは、不動坂下白滝不動の町屋です… この根岸村は、観光の外国人や日本人の遊興やリラックスする茶屋などがあったのでしょう…本牧の海が 埋め立てられる前は、何度も言いますが、素晴らしい景勝地だったそうですから…

両方の写真の 正面の森に上でお話しした白滝不動の急な階段があります。そして、その階段下から、正面に向かい左側に 緩やかな勾配が始まります。それが不動坂です…

中村今昔


中村と言う地名は今の中村川のほとりの村、横浜村、石川村、そして中村、蒔田村と続きます。吉田新田が埋め立てられる前は、 静かな内海のほとりの風光明媚、白砂青松の村だったのでしょう…

北方ライフル射撃場今昔


横浜に居留した外国人は、ここ北方村の一角にライフル射撃場を造りました。スイスライフルクラブ、横浜ライフルクラブなどが あり、外国人のみならず、日本人の西郷 隆盛、大山 巌なども会員になりました。James Favre-Brandt や、フランソワ・ペルゴも大きく関わっていました…現在の、大和町商店街の通りです。 射撃場の的は今の山手駅辺りだったのでしょう…

元町今昔


元町は今や女性をひきつける素敵な町ですが、元々は横浜村の住民達…横浜村は外国人の居留地に なってしまい、安寧に暮して居た村民は掘割を隔てたこの地に強制移住させられてしまいました。 自分達の元村に次々と外国人の商館やホテルが建つ様子をどんな気持ちで観ていたのでしょうか… 今の元町の発展が、その頃の横浜村の人々の心がエネルギーになったのかも知れません…

横浜郵便局今昔


明治22年に造られた郵便局です。煉瓦造りの立派な建物ですが、その後、関東大震災で倒壊しましたが、 同じ敷地に今も港郵便局が建っています…古写真の左隅に見える町会所(現開港記念会館)も 建物の位置は同じですが、今や情報文化センターの建物の陰になっています…

英国公使館今昔


このおかしな建物は英国公使館です。英国の新聞に「何と陳腐な建物」と揶揄されたそうですが、 そう言われて見ますと確かに…そして現在も英国公使館跡の「横浜開港資料館」として、存在しています。 正面が開港資料館、決して陳腐ではない 素敵な建物です…

税関今昔


ここは、大桟橋のたもとに建つ横浜税関です。今の税関は100mほど桜木町方面に移動しています。 以前ここには港湾労働会館が建っていましたが、今は「象の鼻記念公園」の一部になっています…

山手公園今昔1


ここは、山手公園です。日本で初めての洋式公園と言われています。
また、ここは、日本のテニス発祥の地として有名ですよ…
あの「洋風あずまや」が当時と果たして同じ位置にあったものかは不明ですが、雰囲気は残していますね…

山手公園今昔2


この山手公園は1870年に開園されましたが、テニスの他、君が代作曲者フェントン率いる 薩摩バンドなどが、定期的に演奏会を行ったそうです…あの頃の演奏を是非是非聴いて見たいです…

掘割川今昔1


中村川から根岸湾までの水利(当時は水運が一般的でした)のために掘割川が掘削されました。今では中村川と 掘割川掘削のためには、南区宝生寺の山林の「弥八が谷戸」を切り割らねばなりませんでした。 掘割川の分岐点はビルや家屋の陰になって全く見る事が出来ません…

掘割川今昔2


弥八が谷戸が切り崩されて掘割川が通りました。その工事で出た大量の土砂は、吉田新田の 最後の沼、「一つ目沼」埋め立てに使われました。ここが今の寿町などの埋め地7カ町です。
天神橋から写しましたが手前の崖は長い間に削られて今はもっと後退しています…

地蔵坂今昔


地蔵坂は山手から市街地に降りる坂のひとつですが、この地蔵坂は中村に近いところにあります。 地蔵坂の名前の由来は良く分かりませんが、「濡れ地蔵」と言う名のお地蔵様があるそうです。やはり ここも、坂の上から市街地はすっかり望めなくなっています…


三渓園今昔1

三渓園は生糸貿易で財をなした横浜の実業家「原 三渓」(本名・富太郎)の元邸宅跡です。彼は京都や 鎌倉などから、歴史的に価値のある建物を移築しました。そして明治39年(1906年)に一般に公開しました。

左側の古写真は歩いている女の子の服装から想像しますとおそらくは大正時代のようですね… そして、驚いたのは、この平和そのものの三渓園も第二次世界大戦の時は、手痛く空襲に襲われたそうです。 散策しながら何故三渓園が空襲されたのか、空襲した者の心理になると、もしかしましたら、本牧の海を 埋め立てた工場(当時あったのかどうかは分かりませんが)爆撃のついでだったのかも知れません…

三渓園今昔2


昔も今も三渓園は変わりません。心和む場所です…この蓮池は、今は別の蓮池に移動されて、 普通の庭園の池になって居ります。小型の舟が一艘浮かんでいて、ともしますと、鵜が無理やり、演出 を手伝わされたりしています…

そして沢山の亀が日向ぼっこをしていますが、全部、ミシシッピ 赤耳亀(いわゆるミドリカメ)…この奥の本牧の海は埋め立てられる前は、東洋のミシシッピー湾と 言われた風光明媚な場所だったので、何らかの因縁はあるのかな、ないのかな…

三渓園今昔3

三渓園には、正門と南門と言う出入り口の門があります。この南門を出ますと、上海横浜友好園 …中国の湖心亭と言う東屋のある池に出られます。その上海横浜友好園のところまで、その昔は、海岸 でした…こうして、三渓園遊びの一環として、本牧海岸での磯遊びもなされました。

一俗説によりますと、生糸商の豪商「原三渓」がここ三渓園に邸宅を構えた訳のひとつに、この海岸 から生糸を密貿易するのに適していたのでは?などとも言われますし、この付近の地名に生糸で有名な 「八王子」などと言われる場所もあるとか…

三渓園今昔4


ここは三渓園内の【初音茶屋】です。前にも述べましたが、何故かこの戦争とは無縁のような 三渓園が爆撃の被害を受けたそうです。戦前に移築された、数多くの建造物が破壊されたようですが、 ここ、初音茶屋は残りました…寒い時期には、茶屋の真ん中に掘られた暖炉の鉄瓶のお湯からお茶が 振舞われていました…

大江橋今昔


桜木町駅の前を走る大通りが関内方面の大岡川を渡るのが大江橋です。その 桜木町駅は、実は新橋⇔横浜間に鉄道が通った当時は「横浜駅」だったのです…今では すっかりと車道になってしまいました。昔のようにのんびりと川面を眺めている人はもう いませんね…

古写真の遠景に見える大きな建物が旧横浜駅です…今ではビルの陰で すっかり見えなくなっていますが、確かにあの位置に横浜駅(現桜木町)があります…

関東大震災今昔1


1923年(大正12年)9月1日に関東地方を巨大な地震が襲いました。ここ横浜も壊滅的な被害を受け 数々の人命や建物などを失いました。もちろん、開港以来、日本人や外国人が営々と築いて来た文化 文明、歴史的建造物が失われました。

ここは、日本正金銀行です。石組みの建物は難を逃れて 現在は神奈川県立博物館として健在です。噂によりますと、James Favre-Brandtの膨大な日記をここの金庫 に納めて出版の翻訳準備中でしたが、灰燼に帰したとの事…惜しいですね…

関東大震災今昔2

盛んに火柱を上げているのは、神奈川県庁舎です…その県庁舎と日本大通りを隔てた手前の角は 英国領事館(現横浜開港資料館)ですが跡形もなく更地のようになっています…

そして、 現在の県庁舎の前の大きなビルは港郵便局の建物です…遠景の横浜港の様子は今も昔も殆ど 変わりがないように思えます…

破壊は再生の母?この未曾有の大災害を乗り越えて新しい 横浜が再生したのも事実です。関東大震災の瓦礫を海岸に埋め立てて出来たのが「山下公園」です…

磯子菖蒲園今昔


この磯子菖蒲園は菖蒲の名所として、日本人はもとより、あまた外国人も訪れました。
しかし、実際は磯子の何処にあったのか、最近まで分かりませんでしたが、ある磯子の回顧録の 一節に、「間坂…まさか」交差点から磯子プリンスホテル(最近取壊されました)へ向かう坂の途中 とありました。
それを頼りに訪ねましたが、今ではただ、地形から判断するしかありません…
…ここにかの有名な菖蒲園があったという事を果たして住人のどなたかは、ご存知なんでしょうか…?

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