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固執的読書感のページ

私は本が大好きですが、ほとんど時代小説です。そんな訳で「固執的」と
しました。作家も司馬遼太郎・藤沢周平・池波正太郎・山本一力などの作品が多いですね。
これから一体何冊の本が読めるのかは分かりませんが、感じたままの読書感想分をご覧頂ければ幸いです


牡丹酒

山本一力


山本一力の作品に出会ったのは僅か半年ほど前でした。確か、「峠越え」だったと思いますが、 いっぺんにのめり込みましたっけ…山本一力氏本人も住む、江戸の下町「深川」界隈で日々生活をする 市井の人々のバイタリティー、命よりも見栄を大切にする男達、袖振り合うような縁(えにし)も大切にする 人々の温かさと厳しさ、それらが見事に描かれています。山本一力氏の小説を読んでいますと、現代より、 むしろ江戸時代の方が、住み易かったのではないかと思ってしまいます。

さて、この牡丹酒ですが、ある山師(材木供給の為、全国の山の木を見立てる)が、土佐で見出して 惚れこんだ土佐の地酒と鰹の塩辛を江戸に持ち帰ります。その酒と塩辛の素晴らしさを知った人々が この素晴らしい酒を江戸に広めようと、土佐へ旅立ちます。旅立つのは、山師の息子、定斎(夏負け防止薬)売り「蔵秀」 大店の娘でありながら、女絵師の「雅乃」、炭団売りの「辰次郎」、飾り行灯師「宋佑」の裏稼業4人衆 です。4人衆は土佐への旅を厄介事を片付けながら向かいますが、その楽しい事、それは読んでのお楽しみ と言う事で…

特に女絵師「雅乃」の天真爛漫さには、本当に心惹かれました…土佐に行く前、富岡八幡宮の易者から旅の 行方を大吉と判ぜられた時の雅乃の様子の一節を…因みに雅乃は19歳、江戸時代の19歳の女性と言いますと 振袖や髷やカンザシなどの姿が想像されますが、女性とは言え、職人なので、

おかっぱに股挽き姿です…

「うわあ、やった やった」 腰掛から立ち上がった 雅乃は、両手を高くかざし、参道で飛び跳ねた。五尺六寸の上背のある、おかっぱ頭の娘が、参道でピョンピョン 飛び跳ねている。じっと立っているだけで人目を引く雅乃が、両手をかざして跳ねているのだ。 「春になると、何処の町でも、こういう不憫な娘が出るもんです」「器量もすこぶるいい子なのに なんのバチが当たったんですかねえ」。手代風の2人が交わした言葉を聞いた雅乃は2人にそっと近づき 「あたし、これから土佐に行くんです」と、ささやき声で伝えてから雅乃はあっかんべえをした…

蔵秀・宋佑・辰次郎・雅乃、それぞれの持ち味満載の旅、私もそんな旅に加わりたい!!…


峠 (上)(中)(下)

司馬遼太郎


このホームページでファブルブランドの事を特集していますが、その原点とも言える作品です… 幕末、雪深い越後長岡から藩の持て余し者「河井継之助」が江戸へ出府します。挨拶におもむいた 次席家老、山本勘右衛門は、思わずつぶやく…「越後のバカがひとり減る」…江戸では古賀謹一郎の「久敬舎」 に入塾するが、全くマイペースの河井、詩作などは行う気がない。若い塾生、鈴木佐吉少年に… 「私の代わりにこの詩を作ってくりゃえ」「作ってくれれば、あれだ、焼き芋十六文がとこ買ってやる」 そんな調子である。

安政6年(1859年)ロシアのムラビィヨフ伯爵率いる艦隊が江戸と神奈川沖に現れ、 河井にも御用召として横浜警備を言い付かる。しかし、河井は品川の土蔵相模(娼家)に留まってしまう。 やがて、この事件も落着してしまうが、河井は横浜の事情に興味を持つと、横浜の運上所(税関)勤めの 福地源一郎を介して、スイス人商人「ファブルブランド」と出会う。そして河井はファブルブランドから ヨーロッパ商工業の水準の高さを知らされ、日本の封建制はいずれ滅びるのではないかと言うファブルブランドの 言葉に衝撃を受ける。

そしてその後、備中松山の山田方谷のもとへ旅に出る。そして方谷から、屯田などの 思想を学び、やがて長岡へ帰り、長岡藩の藩政改革、兵制改革に励み改革を成し遂げてしまう…開明論者 であり、封建制度の崩壊を見通しながらも河井は官軍と戦うと言う選択を採るという行動は、長岡藩士として 生きなければならない強烈な自己規律によって武士道を生きたからであろうと思われます。

大久保利通、 西郷隆盛、勝海舟など幕末の英傑の中にあり、あまり一般的に知られない河井継之助と言う英雄… 維新史上最も壮烈な北越戦争に散ったその強烈な半生を描く秀逸な作品です…私の祖先も長岡藩士として 河井と共に戦死していまから、河井の生き方が決して他人事とは思えないのです…そして、この河井と 小説の中とは言え、友好を深めて、ガットリング砲などの武器を売却したファブルブランドの事など にも思い描く事ができます…

そして、そのファブルブランドが河井と会ったのは、外国人居留区175番地とこの小説にはありますが、
  • James Favre-Brandtと日本の年表
  • でご覧になれるように安政6年(1859年) は、横浜がやっと開港したばかり、James Favre-Brandtはおろかフランソワペルゴすら来日していません…しかし 河井継之助の長岡を永世中立国にすると言う発想が、この若きスイス人と会わせる事によって生まれた と言う司馬遼太郎の小説技法にはただただ感心してしまいます…ん?生意気な?…すまん!

    銀しゃり

    山本一力


    江戸深川に「三ツ木鮨」を構えた鮨職人新吉・親方から受け継いだ「柿鮨(こけらずし)」の味と 伝統を守り、職人の誇りをかけて、実直に満足の行く仕事をします。それが新吉の信条でありました。

    ところで、新吉の店の隣で蕎麦屋を開いた孝三、彼は、屋台の蕎麦の味に惚れ込んだ旗本勘定方祐筆・小西秋之助 が、孝三出店の際には20両の金を貸し、商売を見守りますが、この孝三、仕事の上手く行かない事に 対して酒に逃げ、挙句は小西の借金まで踏み倒して逃げてしまう始末…小西は、孝三の人間性に がっかりし、新吉に無料で与えた「竹柿」(具体的にどのような物なのかは未だ分かりません)を 有料で売った新吉に対して、さらにガッカリとする始末です。しかし新吉が柿を有料で売った訳、 それは、己の仕事に命を燃やす理由がありました。心意気があったのです…

    そこに生まれた、新吉と 小西との男同士の信頼感、長屋で暮らす仲間達の笑いと涙、そして、小西を悩ます「棄損令」(武家の 借金を棒引きにする)を絡めて、人間を生き生きと表現しています。

    いい加減な仕事やら、プロに あるまじき仕事振りで、人々の信頼を失う事の多い現代でも、この「銀しゃり」は充分に 生きていくべきなんでしょうね…

    長岡城奪還

    稲川明雄


    慶応四年(1868年)7月1日(旧暦)、西軍(政府軍)の攻勢により、長岡城が落ちました。これまでの戦の内容に 経過については、「峠」(下巻)に詳しいので省きますが、河井継之助の非戦は政府軍に一蹴され、 結果的には、長岡藩は北越戦争の風雲に巻き込まれます…物語(と言ってもノンフィクション)は慶応4年 7月14日(新暦8月31日)から始まっています…栃尾山中、荷頃村米沢藩陣地に長岡藩士の夫の安否を 探しに来た女性二人の記載です…米沢藩兵は急斜面をかまわず登ってくる2人に驚き、3〜4発の鉄砲を撃って 威かしたが、その筒先に女性が2人顔を出したので、驚愕しました…長岡藩士岡村友次衛門の妻と娘です。 岡村友次衛門は7月1日に戦死していたが、応対した者は分からないと答え、この2人に長岡藩本陣に宿を 取ってやった上で、戦死の報を伝えたとありますが、その後、この妻と娘がどうなったのかは伝えられて 居ませんが戦とは言え、何とも身内の安否を気遣う妻や娘の心が伝わって来ます。

    そして、7月25日(新暦9月11日)魔蛇が住むと言われる「八町沖」と言う広大な沼を渡って、600名〜700名 の長岡藩士が、「渡沼」作戦を開始します。この沼を渡って敵が現れる事は「あり得ない」と政府軍に 思われている程の沼だったようです…稲葉又兵衛銃士隊長以下36名付属中間4名も渡っていますが、この 銃士隊の中に、私の祖先「弓削定太郎」も居たと思われます…そして、長岡城下に占拠する西軍(政府軍に )打撃を与えて、長岡城を奪還するのです…しかし、この7月25日の戦いで、河井継之助は下肢に銃創を受け これが原因で、8月16日(新暦10月1日)奥会津にて戦死します…そして、弓削定太郎も、この本には名前だけ 一行の登場ですが、7月25日西神田の戦いで戦死しています。


    長岡の実地調査をして見たくて、中々実行に移せませんが、実行するときは、きっと私はこの一冊の本 を携えて、いるものと思われます…

    旅立ち

    遠い崖

    -アーネスト・サトウ日記抄

    1

    萩原延壽


    この小説…と言いますか、幕末のイギリス人外交官、アーネスト・サトウの日記を元にした、 ドキュメンタリーのような素晴らしい文章に触れたのは、朝日新聞紙上でしたが、一日に多量の文字を 読むことが好きな私に取りましては、とても物足りない量の連載でもありました。それで、万を持し まして、いずれ本として登場しましたら、心行くまで読みましょうと、言う事でこの度発刊され 心行くまで読んでいる次第です。

    第1巻「旅立ち」はアーネスト・メーソン・サトウ(Emest Mason Satow)が、幕末の 日本に渡る経緯と経歴などを、萩原延壽氏(2001年没)が調べ上げました…私の全く不見識なのですが サトウは日本の「佐藤」などに通ずる姓…例えば、外国人が日本姓を名乗る事の一種なのかと考えて いましたがそうではなくて、イギリス固有の姓名「satow」である事を知りました…日本人に最多の佐藤 姓と「Satow」、これだけの一致でアーネストの外交にプラスにはなったのではないかと言う事は言えるかも 知れません。

    この一巻には、生麦事件の発生から、薩英戦争に至るまでの経緯、日本の将軍家の 対応、外交手段などが、サトウの日記を元に、横浜市史などの広い引用で、こと細かく語られて居ります 。

    サトウが日本横浜の土を踏んだのは、19歳、1862年(文久2年)のことでした…その時の一文を …

    9月8日 (陰暦8月15日)サトウを乗せたランスフィールド号は横浜港に到着した…上陸したサトウは、さっそく 挨拶のためにニール代理公使をたずねた後、ひとまずホテルに宿を取った…

    今後も2〜14巻まで 長い道のりですが、読書感想を続けたいと思って居ります…

    薩英戦争

    遠い崖

    -アーネスト・サトウ日記抄

    2

    萩原延壽


    文久3年6月22日(1863年8月6日)横浜を出航したイギリス極東艦隊は鹿児島遠征に向かいました。 生麦事件の制裁ではありますが、アーガス号の通訳生サトウは「示威」と捉えていたようです。しかし 艦隊提督キューパーは、「示威」に留まらず、和船及び琉球船を焼き、かつ鹿児島市街を焼く事になりました。 後にその事(軍事行動)の責めにより英国公使オールコックは本国に送還されますが、結果的には、歴史に 刻まれた通り、薩摩藩がヨーロッパの軍事力に目を見開く結果となったのです。

    一方、下関海峡を通行する外国船を砲撃した長州藩ですが、やはり、四カ国連合艦隊による 下関遠征にもサトウは従軍しますが、その息詰る戦場の様子を伝えて居ります。特に、イギリス留学を 途中にして急遽帰国した長州藩士、井上聞多(馨)と伊藤俊輔(博文)との出会いと交友が描かれます…後の 日本を背負う事になる井上と伊藤です。この辺のやり取りは誠に興味が尽きません。

    ところで、最終章「乱雲」では、オールコックが帰国する直前に起きて横浜の外国人社会を震撼させた殺害事件 について述べられています。イギリス第20連隊士官ボールドウィン少佐とバード中尉が、1864年11月21日 鎌倉八幡宮境内で日本人浪士、清水清次と間宮一に殺害されました。その殺害犯2人の処刑は横浜で 行われました。清水の処刑の様子を、ちょっと残酷ではありますが、この処刑を被害者の外国人が いかに重要視していたか…日本人が薩英戦争、下関(馬関)戦争を経ていかに攘夷の空しさに目を 見開いて行ったのかの一端が伺い知れましたので引用します…

    12人の日本兵からなる護衛隊が 清水の前を行進し、2人の馬に乗った士官とやはり馬に乗ったヨーロッパ人の一群がしんがりをつとめて 引き回しが行われた。そして翌9時にはペンロウズ大佐指揮下に王立海兵隊と第20連隊のか軽騎兵が、 また、ウッド中尉指揮下に砲兵隊半個中隊がそれぞれ、刑場まで行進して方陣を作った。日本軍は道路上に 整列した。彼(清水)は少し酒食をとった後、むしろのところまで歩き、その上にひざまづいた。彼の前には 首が落ち込むようになっている穴があった。彼は目隠しをしないようにと願って許され、死刑執行人に 話しかけたのち、長い吟唱を唄うというよりは、むしろわめいた。だが、誰もその意味は分からなかった らしい。ついで何時でも刀を振り下ろす用意のある死刑執行人を振り向き「ちょっと待って欲しい」と 言いながら、彼は首をしっかりと穴の上方において「さあよし」と言った。首が落とされると、砲兵隊の 大砲が発射され、首は町の入り口にさらすため取り出された…


    先日、西区戸部の戸部監獄跡を調査した事がありました。
    その時偶然に近くの「願成寺」でこの清水清次と間宮一の
    お墓を見つけました。

    その時はこの2人の事に対する智識はなかったのですが、
    この本で目からうろこが落ちました…

    深川黄表紙掛取り帖

    山本一力


    またまた、逢えました。女絵師「雅乃…まさの」、定斎(夏負け除けの薬)売り「蔵秀…ぞうしゅう」、絵草子作家を目指す 「辰次郎…たつじろう」、飾り行灯師「宋佑…そうすけ」。大店が桁違いに仕入れてしまった大豆を、4人の 大がかりなアイデアで始末する「端午のとうふ」他、4編の短編になっていますが、全てひとつの流れの 中での出来事…長編を読んでいる事と同じ感覚で読むことができました。 特に豪商 紀伊国屋文左衛門や、老中のある大物幕僚など、一般庶民から見れば、 俄か成金や将軍に気に入られて成り上がって行く幕僚など、手は届かないけれど、とんでもない 卑しむべき人間と言われている人々、現代のバブルで成り上がった人々とリンクします。 しかし、山本一力は、この人々の中にも救いを見出しています。その味付けが堪りませんね。 そして、反面、仁義もルールもマナーも無く、金儲けのみに走る人々にしっかりと仕置きする 蔵秀や雅乃たちの活躍が小気味良い余韻を残しています…

    自らも、バブルの中で多額の借金と共に生きて来た作者、山本一力の暖かい眼差しを 感じる秀作です…

    慶喜登場

    遠い崖

    -アーネスト・サトウ日記抄

    4

    萩原延壽


    幕府は第二次長州戦争に大敗北し、徳川家茂の急死、その様な危機的状況の中、第15代将軍となった慶喜ですが
    その慶喜に対し、中立を唱える英国公使パークスとフランス公使ロッシュが駆け引きを行います。
    【慶喜登場】の副題通り、慶喜と両国公使との遣り取りが克明に描かれて居ります。それは誠に圧巻とも言える 描写です…慶喜の魅力もまた、パークス、ロッシュ共に口を揃えての賛辞となって記されています…

    われわれ、ヨーロッパ人の観念から言って、かれがわたし(パークスに同行したミットフォードとサトウ)が
    日本滞在中に出会ったもっとも端麗な顔立ちの日本人であったと思う。かれは整った容姿、明るく且つ
    鋭く輝く目、健康な黄褐色の肌の持ち主であった。引き締まった口元をしていたが微笑むときの表情は
    優しく、いうにいわれぬ魅力をたたえていた。体つきは強健で、活動的な人物のそれであった…

    ロッシュは幕府に軍事的協力を取り付ける腹積もりで、強行にこの若き将軍を説得して、この交渉は
    成功しますし、パークスもロッシュに論破されたような形になりますが、その事が将来にどう影響が あったのか、それはこれからの展開や、既に歴史が語っています。
    既に薩摩や長州、宇和島の藩士達を通して、将軍の力か天皇の力かを計っていたサトウ…どちらかと言うと 天皇の力に重きがあるのではないかと気づきはじめているサトウにとって、この、将軍の謁見に対し、 また、慶喜の登場と言うものは、「危機感」すら覚えたのです…

    大川わたり

    山本一力


    腕の良い大工「銀次」は木場の猪之吉(達磨の猪之吉…怒りが最高潮になると赤く膨れるので) から、「20両けえしおわるまでは、大川を渡るんじゃねぇ。一歩でも渡ったら、始末する」 博徒の親分との命懸けの約束をする。銀次は永代橋の前で動けなくなる。博打にはまり、仲間の 家庭まで潰した彼は、懊悩しながらも、彼の心情、粋を買う武士、堀正之助に心身を磨かれてやがて 老舗呉服商「千代屋」の手代として新たな人生を歩む。実直に手代達の信頼を得ていく銀次…反面 そのような銀次を快く思わない者も現れて来て、命掛けの約束、大川を渡るような事件になる…博徒の 親分猪之吉の理不尽に対する徹底した態度も気持ちが良く、銀次の「男の粋」も素晴らしい。 読み終わってしばらくは清涼な風が心の中を吹き通るような読後感が気持ち良いです…

    だいこん

    山本一力


    最近、食品の偽装やら不正に手を染める連中に言いたい!…この「だいこん」と言う変わった名前 を付けた一膳飯屋を営む「つばき」の心意気を見習えと…
    …腕の良い大工ではあるが、酒好き、博打好きの父、安治…博打で作った借金の為に貧しい生活を強いられる 母「みのぶ」そして2人の妹「さくら」「かえで」を支える「つばき」です…この「つばき」、飯炊きの技と
    抜きん出た商才を持ち、かつ、周囲の暖かく情の深い助けを借りながら困難を乗り越えながら、
    店と共に成長して行くのです…食品業界に手を貸す人間は、一度読んで置いた方が良いのではないでしょうか…

    銭売り賽蔵

    山本一力


    あこぎな儲け方をせず、誠実に仕事をする「銭売り」の物語ですが、今日はその物語の内容は 別にして、江戸時代に深川や日本橋辺りにあって、今はもう風化してしまった商売の色々が、銭売りと 言う仕事の中から見えて来るのがとても面白く感じましたので、その紹介をしてみます…

    まず、この本のタイトルでもある「銭売り」ですが、当時一般庶民の間で流通した貨幣は、ご存知、 金貨、銀貨、銅銭、鉄銭ですが、庶民が日常使うのが銅銭や鉄銭です…通常の店で買い物をするのに 高価な銀貨や金貨を使っても、店は嫌な顔をしますが、お釣りを銅銭で大量に払う事を思えば、嫌な 顔どころか、金貨銀貨は扱わないよと、門前払いが良いところでした。そこで、賽蔵のような、銭売り の仕事が成り立つ訳です…今で言うと小口の両替屋です。そのような貨幣を鋳造するのが、幕府の管理に 置かれた「銭座」「金座」「銀座」(ここは有名な銀座として今も名前だけ残ってますね)の仕事で、そこで 鋳造された貨幣を流通させる役目が「両替屋」「銭売り」となる訳です。当然、日本橋辺りの大口の 「両替商」は賽蔵のような小口の「銭売り」なぞには、鼻も引っ掛けないのです。
    「佃島の漁師」…徳川家康が江戸を開府した際に、摂津の佃村から住人を引き連れて来て、江戸湾の 島に住まわせて、白魚を城に献上させました。それ以来、佃島の漁師だけが、白魚漁を許されていて かなりの特権意識の強かったようです…

    「水売り」…昔、深川などの埋立地では井戸を掘っても塩辛い水しか湧き出さないので、真水は 「水売り」から買いました。「水売り」は、庶民が毎日使う水を、雨の日も風の日も運んだと聞きます。 水売りの仕入れる真水は、江戸の水道橋から汲み、水舟で水売りの元締めから仕入れます。従って その手間暇を考えると、水はかなり高価だったようですが、これは埋立地だからこそで、神田上水などの 水道(水銀と言います)を使える場所の水はかなり安かったようです…その他、「火消し」「棒手振り(行商)」 「一膳飯屋」などなど、江戸には今はもう跡形もないような商売人が沢山居て、生き生きと暮していたことが、 山本一力の小説から読み取れます…

    アメリカ彦蔵

    吉村 昭


    ジョセフ・ヒコという人の事を私は恥ずかしながら、この歴史小説を読むまでは詳しく知りませんでした。
    嘉永3年、13歳の彦太郎(後の彦蔵)は船乗りとして初航海で難破して漂流して、アメリカの船に救助されます。
    しかし、当時日本は鎖国政策であり、例え漂流民としてでも、帰国など出来得る訳はなく、止む無くアメリカに 渡ります。そして、アメリカで多くの知己を得た彦蔵は、遂に通訳として、
    開国の動乱期の日本に帰ります。
    この辺の事情やらは、同じ漂流民だった「ジョン万次郎」の半生を綴った津本陽の「花とハナミズキ」と 大いにリンクして興味深く読みました…
    幕末当時の混乱した日本で通訳として活動した点も大変に似ていますが

    アメリカ彦蔵とジョン万次郎の知名度(単に私が知らなかっただけなんですが)の違いは、この小説を読めば一目瞭然です… ジョセフと言うのはアメリカで洗礼を受けたクリスチャン名でありますが、日本人として日本に帰る為には、 日本の鎖国とキリスト教禁教令もあるので、洗礼を受けてアメリカ市民としてなら日本に渡る可能性があるのではという 判断だったのですが、さて、その判断が吉と出たのか凶とでたものか、これは読んでからのお楽しみ…

    ジョセフ・ヒコは13歳の時に漂流民となって以来、その残りの人生がずっと、日本とアメリカを漂流し続けた…
    そんな感想を受けて大変に感動しました…吉村 昭の淡々としていて、読みはじめから人をググッと引き付ける手法…
    いつもながら素晴らしい…日本の新聞産みの親とも言えるエピソードにも興味深々でした…

    朱の丸御用船

    吉村 昭


    またまた、吉村昭ものがつづきますが、吉村作品のほとんどを読み尽くした積りでも、アメリカ彦蔵を 読んだ後はもう急性中毒気味に吉村作品を漁り始める私です…
    さて物語りは江戸時代末期の紀州の波切村…
    漁業の他、海路の難所を控えた土地柄、沢山の生活物資を積んだ回船が時々難破して流れつきます。
    それら物資を奪う「瀬取り」は、周りから隔絶された村の事、皆で黙れば怖くない上、黙認される場合がほとんどでした。
    ある日、幕府の御用船が難破し、今まで大丈夫だったのだから大丈夫とばかりに、村中で「瀬取り」をしてしまいます。
    そして、その事は完全に隠匿されて、村の平和な生活が続くかに見えましたが…
    ある日、一通の手紙が村に届きます…そして、その後、想像を絶する災厄が襲いかかります…
    吉村作品のすごいところは、小説の始まりから、いきなり心をググッと捉えてしまうところです…

    野火

    大岡昇平


    この小説は20歳代に一度読んだ記憶がありますが、その時の感じ方と、60歳代になった現在の感じ方が全く 違っているのに、驚きました。20歳代の頃は単なる悲惨な一傷病敗残兵の逃亡劇に写りました。戦争と言うもの 全体の悲惨さを代表した、実体験に基づいた描写であるだけを実感しましたが、その事の厳然たる事実は 何年後に読もうと全く同じ感慨を抱くのは確かです…

    敗色の濃いフィリッピン、レイテ島、肺結核で原隊からも 野戦病院からも閉め出された、一兵士「田村」の旅が始まります。ジャングルの中を夜に進む孤独な行動で彼は やがて、ある廃村の教会の十字架を目にします。その十字架の基に救いを求めた田村は村へ降りて行きますが、 その時は、既に自分自身の死生は越えていたのかも知れませんが、銃を手放さなかったと言う事が、まだ、「生」 への執着も感じます…村人を撃ち殺した事で生への執着が途切れたのか、田村は銃を捨て去りますが、再び同じ 敗残の兵隊達に出会う事により、死んだ兵士の銃を手にします…捨て切れない「生」への執着に揺れる田村の 心が伝わります…しかし、敗残の兵隊達に受け入れられて、集合場所パロンポンへ向かうが、究極の飢餓の中、 「人間試食」を目にした田村の神経は途切れてしまう…こんなセリフを残して…

    「もし、人間がその飢えの果てに 互いに喰い合うのが必然であるならば、この世は神の怒りの跡に過ぎない」そして「もし、この時(人間試食を 目にした時)私が吐き怒る事が出来るとすれば私は天使である。私は神の怒りを代行せねばならない」… 自分の血を吸った山蛭(やまびる)を食する異常事態の中、田村の精神の錯乱と錯覚が見事に表現されている。 ここまでの狂気は、20歳代に感じた記憶がないのは、同じ小説を読んだ今、不思議な感覚でした…


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