James Favre-Brandtのお話し2



James Favre-Brandtって一体何者?
横浜開港の 5年後1964年に、スイスからスイス使節団員として来浜しました。
そして横浜の、 いえ、日本の文明開化に多大な貢献をしたにも関わらず
その貢献をほとんど黙して語らなかったスイスの偉大なる時計商人です。

そんな「James Favre-Brandt」 の生涯とその貢献、
そして、日本を愛し、日本人の妻との間に生まれた子ども達の孫、曾孫たち、
今でも世界中で 活躍している事をレポートしたいと思います。
今まで私の過去のブログの記事を再掲して来ましたが
このページからは、James Favre-Brandtに関して新たに分かった事、
息子娘達の事など色々と取り上げて見たいと思います。

今まで、ブログでの調査結果をお話しして来ましたがその反省点をひとつ…
調べる場所を横浜市中央図書館のヨコハマ資料室と横浜開港資料館に限りましたが
これからはもっと間口を広げて見たいと思います。
例えば、国会図書館とかスイス領事館資料室 等々を…

事実、左側のJames Favre-Brandt若き頃の写真も所在ははっきりしていましたが、
印刷が荒くて、とても分かり辛かったのです。
でも、K大学のT教授がある図書館から
この比較的はっきりとJames Favre-Brandtの
身体的特徴が判る写真を見つけて下さいました。
私にとりましては100歩も前進した感は否めませんでした…

(明治初期の東京時計の功労者たちより参照)


大いなる間違え


私のブログで右の写真を観た事がある 方がきっといらっしゃると思います…
この写真は1863年(文久3年)に、エイメ・アンベールを団長とする スイス修好通商使節団が結成された際に、スイスのベルンで撮影された記念写真です…

この写真に勝手に名前を書き込んだのは、この私です…ゴメンナサイ!!

と、言いますのは、その後の調査で、この名前の該当者が大いに間違えている事が判明しましたので 改めて分かり易いよう前の名前を残して訂正します…
団長エイメ・アンベールは合ってました。イワン・カイザーが「カスパー・ブレンワルド」

そして、一番左端に腰をかけている、エドワード・バディエが「ジェームス・ファブル・ブラント」 だったのです…その他の人についてはイワン・カイザーとヨハン・ブリンゴルフ、エドワード・バディエは 確実にこの中にいますが軽々の判断は避けて置きます…

ここでのJames Favre-Brandt(ファブル・ブラント)は、上の写真のように、懐中時計の鎖に手を置く 決めポーズを採って居りますし、もう一方右手には、望遠鏡を手にしています。この事から考察しますと きっと、日本に時計や精密機器を売り込む意思は満々だったように思えます…

〜2010年7月2日投稿〜



スイス修好通商使節団一行として来日する

1863年(文久3年)4月に江戸へ来日したスイス特派使節団は、遅々とした (幕府が重い腰を上げようとしなかった)修好条約締結で一年間日本に居ましたが1864年2月6日にようやく締結に至りました。
任務を終えたアンベール公使はじめ2名は早々に故国スイスへ帰りましたが、 横浜にはジェームス・ファブル・ブラント(以下ジェームスと言います)はじめ、ブレンワルド (現在まで続いているシーベル・へグナー社の創始者)、バビエと共に日本へ残りました。



そして、1864年に外国人居留地52番地(54番地あるいは84番地説もあります) に商館を設立して、武器・諸機械・時計・宝飾品等の貿易を開始したのでした。
しかしこの商館は、1866年11月26日の 「豚屋火事」(豚肉販売関係者からのクレームにより「慶応の大火」と称されるようになりました)により消失してしまいました。、
そこで翌1867年(2月竣工)に司馬遼太郎の歴史小説「峠」で、河井継之助との出会いを演出したファブル・ブラント商会を新築しました。

これがその社屋の様子です。当時の建物に典型な「擬洋風」の建物です。
横浜スタジアム(横浜公園)に近い、外国人居留地175番地(現山下町175番地)です。
河井継之助はこの商館が竣工された時期、長岡で郡奉行として軍政改革をしていますので、 武器をジェームスから購入した事は動かせられないものの、小説にあるような河井とジェームスとの 交誼は、定かではありません。     

ジャパン・ディレクトリより参照


その後、日本はいわゆる文明開化の時代を迎えて、ファブル・ブラント商会は、 大阪川口10番地に商館を新設しました。
ここ大阪川口10番支店は、 当初、兄Charles Favre-Brandtに託され、彼が帰国した後は、 James Favre-Brandtの次男、フランソワに託されたそうです。

James Favre-Brandtの死後、一ヶ月に襲った関東大震災(大正12年9月1日)で横浜の商館が、 倒壊してしまった後はしばらくの間、ファブルブラント商会はここ大阪で営業を続けていたようです。             

ジャパン・ディレクトリより参照



〜2010年7月11日編集再掲〜



エドワード・シュ(ス)ネル孝1…


司馬遼太郎の歴史小説「峠」では、長岡藩士(後の家老)、河井継之助が 江戸の「久敬舎」に再入塾した際に、横浜の福地源一郎の紹介で、ジェームス・ファブルブラントに 会う場面が設定してあります…

しかしながら、河井継之助が「久敬舎」に入塾したのは、1859年 (安政6年)ですから、ジェームスは未だ、日本には来ていません。物見高い、そしてあらゆるところに 興味を示した河井のことですから、開港間もない横浜を訪れた事は確かだろうと思いますから、 横浜で外国人に会った事も充分あり得ます。
それではその頃、河井と会い、そして、将来河井が大量の武器購入に繋がった外国人の可能性は2人居ります。 それは、スイス人フランソワ・ペルゴと、オランダ人(またはプロシア人とも)エドワード・シュネルです。
しかし、フランソワ・ペルゴは1861年には横浜に来ていますから多少河井の記録とは、ずれています。 が、エドワード・シュネルは良く分かりません。
ペルゴはエドワード・シュネルと協同経営の 商社を設立していましたが、シュネルは利益の高い武器に走り、ペルゴは時計一筋でしたので結局協 経営は破局して居ります。その後、ペルゴはジェームス・ファブルブラント達のスイス使節団受け入れに 尽力しますので、司馬遼太郎氏はその関連で、ジェームス・ファブルブラントと横浜で会わせたのでは ないでしょうか。
いったいに、このシュネルと言う人は、冒険家とか 武器商(死の商人)などと、後世の評は色々とありますが、実はほとんど素性が分かっていないのです。

ただし、河井とは確実に知り合っているようです…河井は死の前日このような言葉を残しています。

「会津城も長くは持つまい。(中略)しかし、遠からず奥羽の諸藩も全て敗亡するであろう。 わしは、かねてからエドワード・スネルに三千両を預け、話しも通じてあるから、世継ぎの鋭橘(えいきち)君 を奉じて外遊せよ。仙台にスネルの船が停泊しているから、これに搭乗してフランスに行くが良い(後略)」

エドワード・スネル…こんなショボイ写真しかありません

〜2010年7月20日投稿〜



エドワード・シュ(ス)ネル孝2…


引き続き、エドワード・シュネルについて続けます…エドワード・スネルと ヘンリー・スネルは「スネル兄弟」として、幕末日本で暗躍します。 弟ヘンリーは特に、会津藩に肩入れをして、「平松 武兵衛(ひらまつぶへい)」なる日本名を 持った位で、会津敗戦後は、会津藩士や家族をサンフランシスコ郊外コロマに入植させたようです…

一方、エドワードは、新たに開港された新潟で、 山木商会を仲立ちとして、奥羽列藩同盟に武器を売っていたらしいのです。
エドワード・スネルと河井継之助との交流は確かにあった、と前回述べましたが、今度はエドワードの 側からの、面白い逸話を…

長岡藩士「鬼頭正路」の回想から〜(戊辰戦争時のこと) 「俺は藩の命令を受けて、会津の水原陣屋に行って、弾薬を調達しようとしたが、こっちも弾薬が尽きて 困っていると言い、さらに続けて、新潟にスネルと言う者がいるが、貴藩の河井と交流があるそうな。 願わくば、我が藩の為に便宜をはかってもらえるようお願いして貰えないかと、俺は逆に嘆願されてしまった。 だが、先方(会津)にも金はない。困った話しである。だが、このままではにっちもさっちも行かない。 俺は新潟に出向いて、スネルに河井の使者であると言ったのさ。独断でね。そうしたら、スネルは大声で 「河井様の使者ですか!」といきなり叫んで此方の方が大慌て。俺は一銭の金も持ち合わせていないと 正直に言ったのだが、スネルは構わず、即座に武器の手配をしてくれた。こうして大砲硝薬41丁と 後操銃三千丁と弾丸を手に入れることが出来た」その後、鬼頭は長岡に戻り、河井に独断の謝罪とことの 顛末を話し、鬼頭が言う「スネルは私と面識がないにも関わらず数千両の軍器を付して疑わず、その 度量は我が国人の及ぶところではありません」と河井へ述べた。それに対する河井の返答が面白い

「彼の長所、全くここにあり、しかれども、その狡猾、我が国人の及ぶところにあらず、足下 彼を過信することなかれ」

当時幕末の混乱に乗じて、スネルやグラバー等の商人が狡猾に 武器を売りつけたことが記録に残っていますが、河井はいち早くその慧眼で外国商人を見ていた事が わかるような気がする一件です…

写真はジェームス・ファブルブラントが明治19年に販売したヘンリーライフルです

〜2010年7月21日投稿〜



ジェームス・ファブル・ブラントとイギリス製時計…


ファブルブラント商会創業初期、つまり幕末から明治初期の数年間は 彼の長兄エドワード・ファブル・ペーレ(Edouard FAVRE-PERRET)の関係していたイギリスの時計製品 でした。エドワード・ファブル・ペーレと言う人物は、1876年アメリカのフィラデルフィア世界博覧会において スイス側審査員をした際、ウォルサム時計会社が自動機械を使用して大量生産をはじめて、成果を 上げている事実を知り、「時計製造のアメリカ体制」をスイス時計産業に取り入れることを勧めました…
スイス時計産業業者たちはこの勧告を 受け入れて、アメリカ製時計用自動機械を輸入しました。この事実から、エドワード・ファブル・ペーレが スイス時計産業界の指導者の一人であった事が分かります。

彼がロックル市で時計工場を経営していた事実は別として、イギリスの時計会社との太いパイプが あったことは確かでしょう…幕末から明治初期の懐中時計の需要量は、ジェームス・ファブル・ブラント いわく、年間200個も輸入しておけば、充分間に合ったそうですから、当然ファブルブラント商会の扱った イギリス製の懐中時計は輸入量も期間も短くてほとんど、残っておらず、 東京谷中の「大名時計博物館」にあるそうです…

先日、猛暑の中、この唯一残っている懐中時計を観に 「大名時計博物館」を訪れまきごうしたら、夏の期間は閉館でした…

時計仕様は次の通りです…18型銀ナナコ側片ガラス 流金の丸天府鎖引機械。ローマ数字を持つ表時盤 の12時の下に「FAVRE BRANDT LONDON 4217」の文字が3行に刻まれる。また裏蓋の年代を示す記号によると 明治3年頃の製品と推定されます…



写真の時計はファブルブラント商会の扱った 懐中時計ではありますが「大名時計博物館」のイギリス製懐中時計とは違うようです…ブラウザの影響なのか 分かりませんが、この画像を見る事ができない場合があるようです…すみません、今日(10月11日)ブログアップしました 「東京散歩」の画像を見て頂けたら幸いです…

〜2010年9月4日投稿〜



横浜郵便局…


この横浜郵便局がここ日本大通り(本町1丁目)に完成したのが、明治22年です。 そして四代目となります。それまでの変遷を簡単に述べますと、一代目は弁天通りの民家を使用して ここが我が国の郵便局の起源にもなりました。
そして二代目明治6年、本町5丁目に洋式の郵便局が 建てられたのですが、その時にはまだ、時計塔は設けられていません。茅葺の木造洋館二階建てと 言いますから、郵便業務には手狭だったのでしょうか、三代目が僅か二代目から一年後の明治7年に完成しています。 こちらは、本町1丁目に造られて、当時としては斬新な西洋建築の庁舎だったようです。しかし、西洋 建築とは言え、木造ペンキ塗り仕上げの庁舎だった為、13年も経つと老朽化が進み、明治20年には取壊され て明治22年には、同じ敷地に四代目が竣工されたのです。

四代目郵便局は、瓦葺2階建てで屋上に銅板葺平屋型の 塔が設けられて正面中央に、ローマ数字一面文字板の時計が設置されました。その機械はおそらく、 ファブル・ブラント商会が輸入したものと思われます。「おそらく」と表現したのは、当時の駅逓寮(郵政省)の 御用時計商は東京の京屋時計店で京屋時計店は、ファブル・ブラント商会の総代理店だったからです。

そして、明治22年以来、二代(現在の建物は五代目または六代目ですから)に渡って30余年、 筋向いの町会所(現開港記念会館)時計塔(これもジェームス・ファブル・ブラント自らが設置しました) と間近に横浜港の海を控え、官庁街本町通りの大空に浮かび正確な時間を刻んでいたことでしょう…
(関東大震災での倒壊)明治20年頃の煉瓦建築は中に鉄骨を通さなかったので、地震にはかなり弱かった のでしょう。その時、郵便局の外壁は大きく幾つにも亀裂して、時計塔もろとも、向かい合っていた 生糸検査場(現横浜情報文化センター)前の道路に倒壊し四分五裂となり、足の踏み場もなかったとの 事です…

写真向かって右は構造上四代目横浜郵便局と思われます。そして 左の写真は関東大震災の状況を生糸検査場から撮影したものです…郵便局の倒壊状況は残念ながら本の 一部しか見えませんが、この写真の下に倒壊した郵便局があります…拙HP横浜今昔物語より再掲

〜2010年9月11日投稿〜



ジェームス・ファブル・ブラントと河井継之助…


話しがまとまらず、次々に飛んでしまいすみません。先日、河井継之助の事蹟の現場を観に 長岡を訪れました。まず訪れた「河井継之助記念館」で、大変に興味深いことを見つけました。 この河井継之助記念館は、旧河井継之助の屋敷跡に建てられて 居りまして、丁度私が訪れた時はガイドさんの説明が始まっていました。大体の事は頭に入ってはいましたが、また、改めて ガイドさんから案内されますと、新たな河井像が浮かんでは消える感じがしました。そして、ある展示物の中に、このような 記載がありました。
河井は、来たるべき戦乱に備えて(あるいは武装中立)藩政と兵制をたった4年で行いますが、その改革の 中、横浜のファブル・ブラント商会で主にフランスの兵制を学びに行っていたというものです。
司馬遼太郎氏の「峠」では 江戸の久敬舎に遊学の際に、ジェームス・ファブル・ブラントと会い商館に寄宿したこともあると書かれていましたので、 そうすると、年代的に合わないと、このHPの中で書きました。しかし、兵制改革の際に横浜へ行ったと言う事であれば、 河井がファブル・ブラント商会に入り浸ったのもうなずける事なのです。今のように新幹線で2〜3時間で行く事が出来ると すれば、その様な疑問も湧かないのですが、藩政改革や兵制改革の忙しい中、何週間、何ヶ月もかけて、長岡と横浜を往復 する時間的余裕があったのかどうか…
当時、掛川藩士だった、福島某氏(彼も武器調達係のようです)が後に話すには、 ファブルブラント商会は、西洋兵制を学ぶ日本人が多く集ったようで、福島某氏がある時、ファブルブラント商会に居た 武士と名乗り合い、その武士は「自分は越後の河井と言いここの食客をしている」言ったが、それを聞いたジェームス・ ファブル・ブラントは「食客などとんでもない、私の強力な用心棒(と、言ったかどうか…強い味方と言う意味ですね)だ」と訂正したと言います。 その様な逸話も記念館には掲示されていましたが、河井とジェームスが小説「峠」のような交誼があったのかどうなんでしょうか、 一度は否定しましたが、ジェームスと河井の交誼がにわかに現実味を帯びて来ました…

この写真は河井継之助記念館の継之助の銅像です。何かの写真がモデルになったのでしょうか、不思議な 事に右手に望遠鏡、左手は刀に添えられています。何が不思議って、ジェームス・ファブル・ブラントを渡日前ベルンで 撮影した写真も、右手には望遠鏡、左手はしっかりと懐中時計に添えられています。
それぞれの生き方の主張のようにも思えました…河井継之助の事蹟を訪ねた長岡の小旅行の報告は 「長岡紀行」を ご覧下さい。まだ途中ですが…

〜2010年9月29日投稿〜



岩亀楼の時計塔…


岩亀楼(がんきろう)は、横浜の遊郭です。当初は、今の横浜公園の真ん中で威勢を誇って いましたが、
慶応の大火(豚屋火事)で焼け落ちてしまいました。この初代「岩亀楼」については、
このファブル・ブラント シリーズの1で紹介してありましたのでここでジェームス・ファブル・ブラント自身が、
亡くなる1〜2ヶ月前に記したと言われる
「横浜の風景と事情」(The Japan Review)で語っております…

【ガンキローまたはヤンキローと呼ばれた茶屋は、後になくなった(注、豚屋火事で消失)が、 現在のY・C・&・A・C(注、今の横浜公園・・横浜スタジアムもある)の敷地がその跡で、 クリケットグラウンドのほぼ中央に位置していた。
(中略)その頃、横浜では縷々、外人水兵と日本人との流血騒ぎが起こったのでそれらの不祥事を根絶させたい と言うことから建てられたのである。 1850年のある晴天の日、領事はじめ全ての外人に、扇子、赤い木綿布(手拭のことであろう)、 日本語とラテン語で[ガンキロー]と銘を入れた茶碗が贈られて外人の遊興所にあてられた。 扇子には岩亀楼の鳥瞰図が描かれていた。妙なことだが、この招待に立腹する者はなく、 却って大勢集まり夜を徹して祝宴を張ったと言う。(中略)

外人たちはタバコを吸い、飲食し、笑い(外人には珍しいことだが)、
20人ほどのゲイシャの囃子を聴きながら踊る女達のゆがんだ表情を眺めていた。
一方おびただしく着飾ったゲイシャは、
卓子の傍で、「オバサン」(遣手婆・・やりてばばあ)の指図のもと、 静かに立ち働いていた。】・・・
上の浮世絵は岩亀楼で遊興する外人達の様子です・・・
ファブル・ブラント(外人)の目を通して、 当時の遊廓の様子を垣間見られる一文です。
もっともこの岩亀楼が営業を始めた頃にジェームス・ファブル・ブラントは 未だ、来日していませんが…

さて、その岩亀楼ですが、焼け落ちた後は転々とし、今の羽衣町、そして高島町
(当時の高島町は平沼新田が埋め立てられて 神奈川宿からも、横浜からも遠い隔絶したような場所だったのです)へ移されました。
そして、その規模たるや大したもので した。
明治5年富士見橋際海岸側に和洋折衷の洋式を取り入れて時計台を屋上高く載せた
三層楼の新宅で営業していました。
そしてその「時計塔」の形式は建築にマッチしたおとなしいもので、文字盤直径2メートル近くあり、
機械はファブル・ブラント 商会で輸入したイギリス製のものがもちいられました。
しかし、この岩亀楼、海岸に建っていた事が災いして、建物の傷みが早く、明治14年には営業を辞めています。
そして、廃屋になり、その後時計塔もろとも取壊されてしまいました。

…がしかし、この時計は、数奇な運命を辿ったようで、 昭和40年頃には福島県市内の薮内時計店の時計塔として復活していたそうです…
今はこの時計、薮内家のコレクションとし て、あるらしいです。薮内時計店の初代店主が、ファブル・ブラント商会の大卸しであった京屋時計店で修行したという事も この、岩亀楼の大時計が今は福島市にあるという事と無関係ではないのかも知れませんね…


〜2010年10月5日投稿〜



河北時計店の時計塔…


明治年間「ハマの名物」と横浜市民に親しまれたものに、弁天通り3丁目にあった「河北時計店」の時計塔がありました。
この河北時計店の建設者は河北直蔵で、直蔵は大阪の出身で明治10年に横浜へ来て、相生町1丁目に洋品雑貨の オークション店を開きました。扱う品物は、居留地諸商館で輸入した、見込み外れの滞貨品や帰国する 外国人の不用品などさしづめ、欧米各国製器物取引市場のようなものだったようです。従って我が国の風俗に 西洋文化を浸透させるのに役立ったと思われます。また、後にワーゲン商会(明治22年以前はエフ・ペロプ商会) と取引きを結び。スイス製「騎馬印」懐中時計の輸入販売を始め明治27年以降にはそれらの小売もかね、 京浜時計業界屈指の時計商に躍進しました。
さて、この時計塔が建設された時期は、明治27年の春で、端正な4階建煉瓦館でその屋上には和洋折衷様式の巨大な 時計塔が建設されました。
この時計塔の機械は、ファブル・ブラント商会で輸入したイギリス製であったことが、かつて時計塔に登って目撃した 横浜の時計商「若松治之助」により確認されました。この時計の形態はローマ数字の直径約2メートル、屋根は 銅板葺、外装は白漆喰仕上げ、上下に装飾をかねる手摺をめぐらした古雅な櫓時計型、時打装置を備え、正確な時を 伝える鐘の音は高くて美しかったと言います…としますと、前に述べました「横浜郵便局の大時計」、「町会所」(現 開港記念会館)そして、それらからさほど遠くない、この河北時計店の時計塔…いずれもファブル・ブラント商会が 輸入し設置したものが、高らかに時計の鐘の音を競い合っていた事でしょう。

この河北時計店も、大正12年の関東大震災で消失しました。震災の揺れでの倒壊はなかったのですが、周囲からの 火災により消失してしまったようです…


〜2010年10月24日投稿〜



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