「James Favre-Brandtって一体何者?」
横浜開港の
5年後1964年に、スイスからスイス使節団員として来浜しました。
そして横浜の、
いえ、日本の文明開化に多大な貢献をしたにも関わらず
その貢献をほとんど黙して語らなかったスイスの偉大なる時計商人です。
そんな「James Favre-Brandt」
の生涯とその貢献、
そして、日本を愛し、日本人の妻との間に生まれた子ども達の孫、曾孫たち、
今でも世界中で
活躍している事をレポートしたいと思います。
今まで私の過去のブログの記事を再掲して来ましたが
このページからは、James Favre-Brandtに関して新たに分かった事、
息子娘達の事など色々と取り上げて見たいと思います。
今まで、ブログでの調査結果をお話しして来ましたがその反省点をひとつ…
調べる場所を横浜市中央図書館のヨコハマ資料室と横浜開港資料館に限りましたが
これからはもっと間口を広げて見たいと思います。
例えば、国会図書館とかスイス領事館資料室
等々を…
事実、左側のJames Favre-Brandt若き頃の写真も所在ははっきりしていましたが、
印刷が荒くて、とても分かり辛かったのです。
でも、K大学のT教授がある図書館から
この比較的はっきりとJames Favre-Brandtの
身体的特徴が判る写真を見つけて下さいました。
私にとりましては100歩も前進した感は否めませんでした…
(明治初期の東京時計の功労者たちより参照)
スイス修好通商使節団一行として来日する
1863年(文久3年)4月に江戸へ来日したスイス特派使節団は、遅々とした
(幕府が重い腰を上げようとしなかった)修好条約締結で一年間日本に居ましたが1864年2月6日にようやく締結に至りました。
任務を終えたアンベール公使はじめ2名は早々に故国スイスへ帰りましたが、
横浜にはジェームス・ファブル・ブラント(以下ジェームスと言います)はじめ、ブレンワルド
(現在まで続いているシーベル・へグナー社の創始者)、バビエと共に日本へ残りました。
ジャパン・ディレクトリより参照
その後、日本はいわゆる文明開化の時代を迎えて、ファブル・ブラント商会は、
大阪川口10番地に商館を新設しました。
ここ大阪川口10番支店は、
当初、兄Charles Favre-Brandtに託され、彼が帰国した後は、
James Favre-Brandtの次男、フランソワに託されたそうです。
James Favre-Brandtの死後、一ヶ月に襲った関東大震災(大正12年9月1日)で横浜の商館が、
倒壊してしまった後はしばらくの間、ファブルブラント商会はここ大阪で営業を続けていたようです。
ジャパン・ディレクトリより参照
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