横浜の風物と事情2
(ファブル・ブラント著「横浜の風物と事情」より・・・エピソード2
)・・・
「
競馬は春秋二回開催されて、レースは全居留地を沸かすお祭り行事となった。
居留民の中にトム・トーマス氏(イギリス人貿易商・・・外国人商業会議所会頭・根岸競馬場を運営管理する日本レースクラブ理事・・・関東大震災で死亡)と言う競馬ファンがおった。(中略)当時、競馬には日本産と支那(中国)産の馬を使用していた。トーマス氏は支那馬にまたがり、在留民中最も高齢のエド・シャネル氏(このお方には大いに注目・・・エドワード・シュネル・・・幕末期スネル兄弟として悪名?をはせた弟の方だと確信しています)は日本馬に乗って「廻りコース」の競技を行ったが、試合はトーマス氏の見事な快勝に終った。支那馬は日本馬より優れているとの折り紙が付けられた」・・・
支那馬と日本馬とが優劣を付けられた記録です。因みに「サラブレッド」などの馬種はまだ、日本には移入されていなかったのでしょうね・・・
上の画像は、現在「根岸森林公園」として、憩いの場所ですが、その昔には根岸競馬場でした。ほお被りをした日本人が興味深そうに競馬の様子を眺めています。
横浜の風物と事情3
ファブル・ブラントの「横浜の風物と事情」から、しばらく引用しています・・・
実際に開港された頃の横浜を語るのに、それを見聞きして来た人の話し程、うなずける文献は少ないのではないかと思うからです・・・
自らも外人墓地9区に、妻松野久子と共に葬られた「外人墓地」・・・今は観光化して、多くの人がカメラを片手に訪れていますけれど、当時の感覚と現在とはちょっと違うように思えました・・・
堀川の向側の閑静と言うよりむしろ陰気な谷間に外国人墓地があった(中略)・・・そこに故国の近親と遠く離れて眠っている多くの人々は年齢20歳から26歳までの若者であることが、刻まれた墓銘によってうかがえる。しかし、この中に一人、老人が加わっている。
横浜市内で暗殺されたデッカー大将である(中略)
この他にも不慮の死を遂げた人々の墓を見出す事ができる。
白昼横浜の大通りで殺されたロシア人の墓がある(中略)
ここにまた、英国商人の邸宅の前で真夜中に刺殺されたフランス領事の下僕(中略)
横浜市街で斬られたヴイス大尉(中略)
江戸の英国公使館を警備中に討たれた二人の水兵(中略)
レノックス・リチャードソン(生麦事件で殺された)の墓も見られる・・・(中略)
また、横浜郊外(井土ヶ谷)で殺されてその加害者も分からぬフランス軍人カミュ中尉・・・(中略)
鎌倉で斬られたボールドウィン少佐とバード中尉の質素な墓もある・・・(中略)
我々外人が、拳銃を持たないで外出してはならぬと命令されていたことは敢えて驚くには当たらない。外人たちは食卓へ臨む時さえ、武器を手放さなかったし、枕元に装填したピストルを忍ばす用心を払わないでは、寝に就こうとしない時代があった事を、私は思い出す」・・・
平和な日本及び横浜の市街では、当時かなり殺伐としたものだった事がこの一文で分かるような気がします・・・
横浜の風物と事情4・・・岩亀楼のこと
引き続きファブル・ブラントの「横浜の風物と事情」より・・・
「ガンキローなたはヤンキローと呼ばれた茶屋は、後になくなった(注、豚屋火事で消失)が、現在のY・C・&・A・C(注、今の横浜公園・・横浜スタジアムもある)の敷地がその跡で、クリケットグラウンドのほぼ中央に位置していた。
(中略)その頃、横浜では縷々、外人水兵と日本人との流血騒ぎが起こったのでそれらの不祥事を根絶させたいと言うことから建てられたのである。
1850年のある晴天の日、領事はじめ全ての外人に、扇子、赤い木綿布(手拭のことであろう)、日本語とラテン語で[ガンキロー]と銘を入れた茶碗が贈られて外人の遊興所にあてられた。扇子には岩亀楼の鳥瞰図が描かれていた。妙なことだが、この招待に立腹する者はなく、却って大勢集まり夜を徹して祝宴を張ったと言う。(中略)
外人たちはタバコを吸い、飲食し、笑い(外人には珍しいことだが)、20人ほどのゲイシャの囃子を聴きながら踊る女達のゆがんだ表情を眺めていた。一方おびただしく着飾ったゲイシャは、卓子の傍で、「オバサン」(遣手婆・・やりてばばあ)の指図のもと、静かに立ち働いていた。」・・・
上の浮世絵は岩亀楼で遊興する外人達の様子です・・・ファブル・ブラント(外人)の目を通して、当時の遊廓の様子を垣間見られる一文です。
岩亀楼を含む40軒程の遊廓は1866年11月26日の「豚屋火事」で消失しました・・・当時横浜公園の遊廓街は壕に囲まれた島のようになっていて、その島には橋がひとつしかなく、しかもそのたった一つの橋付近からの出火でしたから、大勢のゲイシャ達を渡し舟で救い出そうと外人や日本人も努力したようですが、「
彼女等は気の毒にも焼死してしまった」と記載されています。
擬洋風とナマコ壁
開港150周年「100日前講演会」で聞いたブリッチェンスの横浜独特の擬洋風の建物ですが、この中の木骨ナマコ壁と、木骨石造の両方の擬洋風の建物・・・横浜居留地175番地に関東大震災まで存在したファブル・ブラント商会の建物はまさにこの擬洋風を凝縮したような建物なのが、改めて認識できました・・・
2階部分は日本古来の蔵作りのナマコ壁ですが、窓の様子から判断しますと、日本の蔵における壁の厚みは感じません。本当に外観だけのナマコ壁だと思われます。そしておそらく1階部分は木骨石造だと思います・・・
ただし室内に入った訳ではありませんので、本当に木骨なのか、正真正銘の石造りなのかは分かりませんが・・・
ただ屋根には日本風の建物の雰囲気がありこれぞ「擬洋風」の典型のように思えます。
末の姉妹、ソフィーとアデルの事
ジェームス・ファブル・ブラントの直筆です・・・典型的なフランス語の草書(筆記)体です。今ではこんな筆記体は学校での英語教育で教えてくれないのかも知れませんが、私はちょっと教わりましたので、少し分かるんです。
彼の妻、「久」(Shisa)が早世してしまったので、姪の「くま」を後添えにしましたが、彼女もまた25歳で早世してしまいました。そのくまが残した、ソフィーとアデルと言う姉妹の写真の台紙なんです・・・長谷川伸と言う作家が、「・・・元居留地で労役をやっていた私が、毎日のようにこの西欧人(ファブル・ブランド)を見たのはその晩年であった云々」と述べています。是非とも解読して見たいとは思いますが、まず、筆記体の解読からですね・・・・後日、スイス在住のPhilippe NEESERさんがこれを約して下さいましたが、「ソフィーとアデルの写真を、スイスに帰られた兄様(CharlesFavre-Brandt)に送る」と言う意味でした。
写真の左側は妹のアデル・Favre-Brandt、そして姉のソフィー・ Favre-Brandtです・・・後にアデルは、スコットランド人の医師、二ール・ゴードン・マンローと結婚しますが、不幸な離婚を強いられて父親の故国スイスで1943年に亡くなります。そしてそのアデルを見送って、お骨を日本に持ち帰ったのがソフィーだと言われています・・・2人の姉妹の事は後日掲載したいと思って居ります・・・
James Favre-Brandtの子孫たちの事が少しづつ解明中
幕末に開港したばかりの横浜へ、スイスの通商使節団と共に渡って来たJames Favre-Brandtは使節団が目的を果たして解散した後も横浜へ残り、時計、武器などを扱う商人として「 Favre-Brandt(ファブル・ブラント)商会」を設立、戊辰戦争の折には、長岡藩、薩摩藩へ武器を供給し、日本の西洋時計普及に力を注ぎましたが、彼自身はほとんど自分の功を語らず、あまりその活動が知られていないのが現状です・・・
James Favre-Brandtは横浜に居住して、大正12年に軽井沢で死亡しています・・・
折りしも関東大震災で自らの商館が倒壊する一ヶ月前の事、商館倒壊を目にしなかったのが、せめてもの幸いだったのかも知れません。
ところで、「河井継之助とファブル・ブランドと長岡戦争と」「ファブル・ブラント1〜10」と少しづつアップして来ました。誰が読んでくれるのか、きっと誰も見てくれないのだろうな、とは思っていました。別に誰に読んで貰わなくても日記の一端としてだからどうでも良いのですが、それでも、読んで下さる方はいたようで、沢山の「宝物」を頂いて居ります・・・何よりの嬉しい事です・・・
その宝物のひとつです。このページのタイトル画像でもあります。James Favre-Brandtの画像は現在同じ頃の椅子に座ったものは良く目にしますが、この写真は珍しいと思います・・・
そしてこの写真、4人息子の長男Francois(フランソワ) Favre-Brandtの写真もそうなんですが、長男と思っていたものが、実は次男だったようです。その経緯は後で触れる事もあると思います。
まず、去年夏頃にこのFrancois Favre-Brandtの子孫の方からお便りを頂き本当に驚いてしまいました・・・しかも、その事をブログアップしましたら、関西の有名な時計コレクターそして研究家の方から是非ともJames Favre-Brandtの子孫とお会いしたいとコンタクトがありました。
そして、最近スイスから、James Favre-Brandtの兄、Cherles(チャールス) Favre-Brandtの子孫の友だちからお便りを頂き、第二次大戦以降散り散りになってしまったJames Favre-Brandtの子孫同士が是非会いたい、会わせたいとのお話しとCherles Favre-Brandtのその後の家系図などが送られて来まして、私の身辺はもう宝の山状態です。
フランソワ・ペルゴの事どもについて…
司馬遼太郎氏の歴史小説「峠」では、主人公、長岡藩の奇才、河井継之助が横浜でスイス商人ファブル・ブラント(James Favre-Brandt)と逢いそして、永世中立の思想を学ぶことになっております。しかしながら、河井がもしも横浜のファブル・ブラントと逢ったと仮定しましても、河井が横浜遊学が出来た、したとすると、それは未だファブル・ブラントが横浜に来ていない時期ですし、困ったなぁと思っていたところ、かの時計コレクター&研究家の大川伸功氏より、
フランソワ・ペルゴのお話しを聞きましてひらめきました・・・
フランソワ・ペルゴはJames Favre-Brandtに先立つこと3年前の1861年に横浜に来ており、James Favre-Brandtを含むスイス通商使節団(1863年来日)を迎え入れる準備をしたとの事です。河井が遊学していたのが、1859年〜1861年位ですから、河井とフランソワ・ペルゴが逢える可能性はあった訳です。しかもフランソワ・ペルゴは1864年、かの死の商人(後世の評価ですが)エドワード・シュネル(スネル兄弟の弟)と共同経営していますから、後に河井がJames Favre-Brandtまたはスネルから武器を購入することと関連性さえ伺えます。もっとも、フランソワ・ペルゴは時計だけに専念し、武器を扱うエドワード・シュネルとは対立し共同経営は終わっていますけれど・・・James Favre-Brandtともスイス通商使節団及びライフルクラブを通じて充分な親交はありました・・・
フランソワ・ペルゴは1877年に43歳の若さで死去、葬儀委員長としてJames Favre-Brandtが仕切ったと聞きます。
フランソワ・ペルゴの時計に対する情熱は現在も「ジラール・ペルゴ」の高級腕時計などに綿々と受け継がれています
ソフィーとアデルのこと2
James Favre-Brandtの長女ソフィー、次女アデルの事が気になって調べていますが、新しい事実が分かりました。悲しい話しなんですが、別に私が脚色した訳ではありません。アデルはスコットランド出身のN(二ール)・G(ゴードン)・マンローと言う外科医と1914年に結婚しています。このマンローと言う人は横浜のジェネラルホスピタルの医師をする傍ら、三ツ沢貝塚の発掘などを行い後に北海道に渡り、アイヌ研究で有名になった人ですが、それはさて置き、結婚に利害を持ち込むかなりのエゴイストと映ります。
アデルは実にマンローの3番目の妻だった訳であり、そのエゴイスト振りに父親であるJames Favre-Brandtもかなり結婚に反対したようですが、結局は山手147番地に豪華な新居を建てています。その後23年間の結婚生活は必ずしも幸せなものではなかったようです。
横浜から軽井沢サナトリウムの医師に転出したマンロー夫妻ですが、マンロー自身サナトリウムの看護婦長木村チヨと恋愛関係に陥り、その結果、アデルを非情にもヒステリー(夫の背信行為に対してヒステリー症状を起こしても不思議ではありません)としてウイーンの精神分析学者フロイトの元へ追いやってしまいます。アデルもかなり悩んだようですが、結局アデル名義のサナトリウム隣接の3000坪の土地をサナトリウム経営母体に譲り渡してウイーンに旅立って行きました。
そこまでは、前にお話ししたかも知れませんが、アデルはウイーンでフロイトの治療を受けながら、スイスの実家(James Favre-Brandtの生家)と行き来していたようです。ウイーンでは治療の他、音楽の勉強をして、その傷心を癒していたようですが、結局癌の為、2歳年上のソフィー一人に看取られて1943年に57歳で亡くなりました。アデルの遺骨は姉ソフィーに抱かれて戦後間もなく横浜に帰って来たそうです・・・これは、James Favre-Brandt家と親交の厚かった大山巌の息子の夫人が語った事だそうです・・・横浜の外人墓地に眠るアデルの墓碑銘です・・・・
ADELE MUNRO
NEE FAVRE-BRANDT
18-3-1886 25-10-1943
さて、姉のソフィーですがマンローとアデルが結婚した頃にソフィー・パウル夫人として登場しますが、ソフィーは結婚していなかったと言う説もあり結婚について詳しくは分かりません。
父親James Favre-Brandtが亡くなった一ヶ月後に襲った関東大震災後、ソフィーは母違いの14歳年上のフランソワと共にしばらくは大阪川口10番地の大阪支店で営業をしていたそうです。と、言う事はフランソワと同じ営業を手伝っていたのかも知れません。そして、ここからが不思議な話しが始まります・・・関東大震災が落ち着いた後、横浜に戻り、スイス時計輸入元として営業を再開したとあります・・・ Favre-Brandt商会は関東大震災で消滅したと言うのが定説ですが、これからも課題は残ります。ソフィーはその後横浜に在住したと言う事です。
もうひとつの謎、1943年(妹アデルが亡くなった年)にソフィーはスパイ容疑(日本語を話す外国人として、また朝鮮人を庇ったとして)で終戦まで、身柄を拘束されたと言う事をPhilippe NEESERさんがお話しして下さいましたが、身柄を拘束されたとされる1943年には上述のように、スイスかウイーンで妹を見送っていた訳ですからその辺のギャップをどう埋めましょうか・・・
たった100年〜60年前の事でもやはり謎はどんどん生まれるようですが、それを紐解いて行くのも楽しみのひとつです・
さて、最近、この記事をHenri Favre−Brandtの娘様が読まれたそうですが、内容に正しくないことが含まれるので
是非訂正したいと仰っていられるようです…本当にありがたいことですから、是非にもお伺いしたいです。
そしてそれはまた皆さんに公開しますね…
大川伸功氏のこと
私が自分のブログで、幕末から明治、大正時代の日本に時計、測量機器、武器を輸入して文明開化に大いに貢献したスイス人James Favre-Brandtの事を紹介して来ましたところ、
彼の子孫の方、彼の兄の子孫の方、そして商館時計の蒐集及び研究家の方からご連絡を受けました・・・
と、言う事は前にお話ししましたが、今日はその商館時計の蒐集及び研究家の「大川伸功(おおかわのぶよし)」氏から、膨大な資料をお送り頂きました。
大川伸功氏は時計蒐集とその時計にまつわる時代背景を研究する方で、特に商館時計の研究をライフワークにされています。ものすごい智識量には本当に圧倒されてしまいますよ・・・
平成10年から「世界の腕時計」と言う専門誌にこのシリーズとして連載を続けておられます。
「大川伸功」氏のキーワードで検索できますから興味のある方はどうぞ・・・
ブリキのおもちゃ館長の北原氏が、「鑑定団」に出演していますが、もし、腕時計、懐中時計、商館時計の鑑定コーナーでもあれば鑑定団に参加されても当然と思っています・・・
ジェームスの次男「フランソワ」について
James Favre-Brandtの長男のジェームスにつきましては、前に書きました・・・
次男のFrancois(フランソワ) Favre-Brandtにつきまして、今回はちょっと・・・
Francois Favre-Brandtは、1870年(明治3年)にジェームスと、久(Shisa)との間に次男として横浜で出生しております。スイス留学後、大阪川口10番ファブル・ブラント商会を委ねられました・・・
スイスに留学ですが、このFrancois Favre-Brandtはじめ、後に述べます、3男エドワルド、4男ヘンリー共々、日本人の母、久の血を受けて、東洋人的な顔立ちだったそうです。
かの永世中立国スイスにおきましてもやはり、当時は多分珍しい面立ちの東洋人の事、少しは抑圧を受けたようです・・・
Francois Favre-Brandtは、その後日本に戻り、前述のように父親の仕事を手伝って居ります。
先日、外人墓地にご一緒した方は、このFrancois Favre-Brandtの子孫の方でした・・・
フランソワは1950年に亡くなって居り、横浜外人墓地に眠っております・・・
エドワルド・Favre-Brandt… Favre-Brandt家、魔の1907年
スイス在住の NEESERさんから、スイス連邦政府古文書係に保管されていたと言う、Francois Favre-BrandtとHenri(ヘンリー) Favre-Brandtの画像が送られて参りました。
実は、Francois Favre-Brandtの曾孫さんから、複数のJames Favre-Brandtの息子らしい写真を頂いていました。しかし、どれが、ヘンリーか、エドワルドか、ジェームスU世かが曾孫さんご自身も分からなかったのですが、
ヘンリーを特定された写真を拝見した途端に、ただ一枚、どなたの写真か分からないものが、おそらくエドワードのものではないかと、想像されました・・・
この写真は、セピア色を通り越して、淡く消えかかっていますが、もしこれが、エドワルドのものですと、ファブル・ブラント22でお示しした、あのお墓の消えかかった墓碑銘とあいまって、
1907年のクリスマスイブに亡くなった菊(Kikou)の後を追うように亡くなったエドワルドの人生そのもののように思えます・・・
この写真は長男ジェームス(ジェームスUにつきましては写真の確定がまだ出来ていません)の可能性もあります・・・
ところで、1907年と言う年は、 Favre-Brandt家にとりまして、誠に不幸続きと言えます・・・
長男ジェムス(U世)が38歳で風邪をこじらせて死亡、そしてこの年のクリスマスイブには菊(Kikou−Louise)が17歳で死亡、前述のように病弱のエドワードがそれを聞きショックにより35歳で死亡して居ります・・・両親の、悲しみはいかばかりか、想像も出来ません・・・
この1907年(明治40年)の悲劇の事をご教示下さったのは、1875年生まれジェームスの四男Henri Favre−Brandt(ヘンリー)の娘さんからでした。
その、娘さんも現在100歳になんなんとしており、私のこの記事の添削をするべく頑張って居られるそうですが、
闘病しながらです…私の記事の添削を楽しみにしていますからどうぞ病に打ち勝って頑張るよう、お待ちして居ります…
Favre-Brandt家、魔の1907年つづき
ファブル・ブラント23で述べましたが、長男ジェームスは風邪をこじらせて、わずか38歳の若さで1907年に、この世を去りました。
そして病弱だった3男エドワルドもまた、1907年、12月24日クリスマスイブに17歳で急逝した菊(Kikou)の後を追うように35歳でこの世を去りました・・・
この時の親の悲しみはいかばかりかと、思いを馳せますが、横浜外人墓地には、この3人の墓石が本当に寄り添うように、そして同じ石材で同じ形で建てられていました・・・
こんな、ところに、親、James Favre-Brandtと妻、久の思いや悲しみが伝わって参ります・・・墓碑銘より抜粋します・・・
Edouard (エドワルド) 20DECEMBRE1872(1872年12月20日生まれ) 24DECEMBRE1907(1907年12月24日死亡)
Kikou Louise(菊 ルイス) 12OCTOBRE1890(1890年10月12日生まれ) 24DECEMBRE1907(1907年12月24日死亡)・・・まさに、「菊」の死のショックでエドワルドが亡くなったと言う、そのものの悲しみがこの墓碑銘から読み取れます。1907年のクリスマスイブ、山手の外国人達は、前夜祭で盛り上がっていたのでしょうけれど、 Favre-Brandt家では同時に2人の息子娘を失った訳です・・・
James(ジェームス) 10JANVIER1869(1869年1月10日生まれ)13JUIN1907(1907年6月13日大阪にて死亡)とあります。
さて、以前にエドワルドのお墓が無いと言いましたが、大訂正です・・・
ここにありました・・・
それでは以前、どうもエドワルドのお墓かも知れないとした、文字が風化して消えかかっているこのお墓は、一体誰のものなんでしょうか?・・・
最初の妻「久」を若くして失ったJames Favre-Brandtは、久の姪である「クマ」を後妻にしていますが、この「クマ」のお墓が、子孫の方が一所懸命探しても見つかっていないのです・・・
それでは「クマ」のお墓かな?・・・
風化して消えかかっている文字を辿って、指先で点字を読むようにしてやっと、こんな文字が浮かび上がりました。「JULES」・・・
そしてスイス人Philippe NEESERさんにこの墓碑銘の画像を送って観て頂きましたらやはりFAVRE−BRANDTと「JULES」・・・
どうやら、このお墓の同じ区画にある双子の兄弟(死産と言われますが、後ほどお話しします)の前後に
「JULES」(ジュレス)と言う名の子供がいたらしいのですが、それがどうやら、このお墓の主のようです。
この子も幼い頃亡くなったようですが、この「JULES」さんの生年月日や死亡年月日はさすがに風化の
度合いが進み過ぎて完全に読み取れませんでした。
ジェームス・ファブル・ブラントの長男「ジェームス」について
第一次世界大戦という事件は、私の中では、教科書で学んだことだけ、日本は、連合軍として、中国青島のドイツ軍を攻めたということでの意味合いしかありませんでした・・・
しかし最近、ファブル・ブラントの事を調べていて、横浜の外人墓地に至った時に初めて、私の中で大きく、「意味」というものが生じました・・・
これはJames Favre-Brandtの長男、ジェームスのお墓です。ジェームスの長男がジェームスってそれは、ファブル・ブラント家のお約束のようです。せめてジェームスT世とかV世などが分かると門外漢の私には分かり易いのですけれど・・・
このジェームスU世は1869年にJames Favre-Brandt最初の妻「久(Shisa)」の間に生まれましたが、何と38歳の若さで風邪をこじらせてこの世を去ったようです。
そして、フランス人の妻は、ジェームスU世の長男、これまたジェームスV世を連れて、フランスに帰ったそうです・・・
そして、ジェームスV世は、フランス軍に従軍して、第一次世界大戦で戦死したとのことです・・・
このお墓の前に立った時、私にとっては、歴史教科書だけの存在であった、
第一次世界大戦が大きな意味を持った瞬間でもありました・・・
ホームへ戻る1i>
私のブログ
ま〜さむんのページ1i>
花鳥風月のページ
読書感想のページ
横浜今昔物語
Copy right (C)Shintaro, All rights reserved,画像及び記事内容の使用及び転用はお断りします |