最近訪問した塔婆・ご提供画像(2004/03/05〜2004/08/03 )

過去の訪問塔婆履歴

2004/06/04
(08/03更新)
美濃長滝寺三重塔跡1
  同         2
2004/6/5:「X」氏撮影画像。長滝寺堂塔跡の整備が行われ、案内板も設置されたようです。
写真撮影したときは整備の最終段階であったようで、この時には案内板はまだ無記入だったようですが、おそらく案内板も掲示され整備は完了したものと思われます。
2004/07/01 近江普光寺心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
「古代近江の遺跡」:広浜神社境内に心礎を残す。2.5×2,1mの大きさで、径80cm×15cmの円孔を穿ち、その外側に幅5cmの周縁を彫る2段穿孔の舎利孔を持つ。心礎は原位置を保つかどうかは不明。白鳳期の瓦を出土。 <なお実測値もほぼ上記の通りです。>
「日本の木造塔跡」:2,2×2,1m、外穴径100×1,5cm、内穴88×10cm。
全くの平野部に心礎のみ残存する。大型の心礎ですが、その他のことは不明のようです。なお心礎には1条の排水溝らしきものがありますが、意味のないもので、後世の加工と見るべきものと思われます。
近江竹生島三重塔1
  同        2
以上全景は「X」氏提供
近江竹生島伽藍
近江竹生島三重塔3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10

平成12年2000/4月落慶。約350年ぶりに再興という。総高15.5m、一辺3.2m、総ヒノキ造。ほぼ純和様の本格塔婆建築です。橋本市郎氏設計、総工費3億円。
塔本尊は金剛界大日如来坐像。四天柱には32体の天部の諸像、四面壁には真言八祖を描く。
三重塔は文明19年(1484)の建立と伝えられが、江戸初期に焼失する。
「浅井郡志」の中にこの三重塔図面が残っているという(未見)。
竹生島縁起では、神亀元年(724)聖武天皇の勅願で、行基の開基とする。
行基は、本尊弁才天像を彫刻し、本堂に安置、翌年観音堂を建立し、千手観音像を安置したと伝える。 創建時には竹生島寺と称し、東大寺に属する。平安期には叡山末となる。
永正5年(1508)竹生島大神宮寺と号する。(現在は大和長谷寺末)
慶長7年(1602)豊臣秀頼が豊国廟より本堂(現神社本殿)観音堂、唐門などを移築。
江戸期には妙覚院など4塔頭が管理に与る。
明治の神仏分離:明治2年大津県は、宝厳寺住職峯覚以に縁起・古記録類の提出を命ず。
明治4年同県は縁起の記述あるいは「延喜式」の式内小社・都久夫須麻神社の記載を根拠に弁財天社の都久夫須麻神社への改称(宝厳寺は廃寺)を命令す。宝厳寺は、弁才天社仏堂としての存続と都久夫須麻神社の新設を嘆願す。しかし大津県の強硬姿勢は変らず、神仏分離(廃寺と改称)の実行を強要す。
やむなく宝厳寺は、弁才天像を観音堂(のちに塔頭妙覚院座敷)に遷座、本堂を都久夫須麻神社本殿とし、常行院覚潮が還俗・神勤する処置を採り、一応の決着を見る。その後明治中期まで、蓮華会の執行権の帰属、弁財天像・観音堂敷地の移管を巡り、宝厳寺と俄か神社は対立するが、実体のない神社側には移管はされ ず。昭和17年、現在の本堂が復古調で再建され、大弁財天像は本尊として遷座し、本来の姿に復帰する。(著名な弁財天女社の内、神仏分離により江ノ島弁財天は完全に変質したが、竹生島 および宮島弁財天は大きな影響を受けながらも、寺院としての伝統を守る。)
 竹生島現本堂
唐門(国宝):豊国廟の正門であった極楽門を移築とされる。
 近江竹生島唐門1   同    唐門2   同    唐門3   同    唐門4
観音堂(重文・桁行5間・梁間4間、入母屋造・桧皮葺き):西国三十三所三十番札所、本尊千手観音。唐門などと同時に移建とされる。
 竹生島観音堂組物
舟廊下(重文):日本丸(朝鮮出兵時の秀吉ご座船)の廃材を利用して作られたと伝える。
 竹生島船廊下
旧本堂(国宝・現都久夫須麻神社本殿桁行3間・梁間3間・入母屋造・檜皮葺き、周囲に庇を廻らす、1間の向拝付き):伏見桃山城束力使殿を移建したと伝える。
 竹生島旧本堂
竹生島祭礼図竹生島祭礼図(部分)竹生島絵図(部分)
なお宝物館に「大塔扉、焼失三重塔扉、室町時代」として展示が あったようです。
なおこの扉については、以前は宝物館に展示されていたようですが、近年は展示されていないようです。(宝物館入口での問い合わせ回答は「扉など聞いたこともない」とのことでした。)

近江長浜八幡宮 長浜八幡宮は明治維新後、ほぼ完全に神仏分離が実行されたようです。古絵図にみるような三重塔などの痕跡はもとより仏教的なものははぼ一掃されたようで、見るべきものは無いようです。
延久元年(1069)源義家が後三条天皇の勅を奉じて石清水八幡宮より勧請。元亀・天正の兵乱に焼失。天正9年(1581)豊臣秀吉などによって再興。別当は新放生寺と号したが、 明治維新の神仏分離により、周囲にあった多くの社僧は廃絶し、仏教関係の什宝は、東の舎那院に移す。
社殿は、明治18年雷火のため焼失、現社殿は明治22年に再建。なお北門前観音堂安置木像聖観音立像が伝来するようです。放生池も現存するようです。
 長浜八幡宮古絵図
舎那院(真言宗豊山派)は弘仁2年(814)弘法大師の開基といい、秀吉により再興、明治維新前は八幡宮の学頭坊であった。本堂(愛染堂)は八幡宮本地堂 を移建という。また昭和14年八幡宮整備により、護摩堂(桁行3間、梁間3間、寄棟造檜皮葺。室町期)も移建されたという。
 舎那院本堂(旧本地堂)   舎那院護摩堂:旧長浜八幡宮護摩堂
近江八島廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
東浅井郡八島 。「幻の塔を求めて西東」:心礎は二重円孔式、200×140×45cm、径80×2cmと30×10cmの円孔、表面荒れ、1/3が欠損、白鳳 。
「古代近江の遺跡」:心礎現存。
心礎は寺のあったとされる八島地区ではなく、その南の内保八幡宮本殿横に石碑?として立てて飾られている。但しこの心礎の出自あるいは八幡宮への移動の経緯などの情報はありませんので、八島廃寺心礎とする根拠は分かりません。
またこの心礎はかなり特異なものと思われ、欠損が無ければ、2m四方の大きさですが、厚さは僅か45cmで、礎石というより「石板」に近いと思われます。古代の心礎としての機能を果たせたのかどうか不審 ですが、上面は不自然に荒れているので、あるいは石碑にした時などに、上面を削いだとも思われます。また裏面も不自然に平らで、形状も不自然に四角で、実際は 現状よりひと回り大きく、厚さももっと厚かったものを加工し現状の形状になったとも思われます。
さらに円穴もかなり特異で、柱穴と推定される円穴の底は平ではなくて、中央が高くなり、その高くなった底に、半球状の円孔が穿たれている。現状では円穴の中央底と礎石上面がほぼ同じ高さであり、やはり円穴はもっと深かったとも思われます。現状の形態では、心礎としては極めて不可解な造作と思われます。以上の意味で本当に心礎であるのかどうかについては若干の疑いもあります。
はっきりとした「由来」でも入手できれば、話しは別ですが。
近江花摘寺心礎・露盤
  同  廃寺推定心礎1
  同          2
  同          3
  同     露盤1
  同        2
  同        3
  同        4
  同     礎石1
  同        2
下物(おろしも)の天満宮付近が寺域とされる。
天満宮境内には心礎と思われる大石(手水鉢に転用)、石造塔露盤、十数個の礎石と思われる石(柱座を持つ礎石も混在)が残されている。
推定心礎:230×179×70cmの大きさでほぼ上面は平らと思われる。ただし残念なことに、上面は手水鉢として大きく刳り貫かれ、円穴などは全く覗うすべもなく、心礎であることを証明することは出来ません。しかし周囲は全くの平野部でこのような大石 を手水石として入手は困難で、廃寺心礎の転用の可能性が高く、またその大きさは心礎として過不足はありません。
石造露盤:一辺174cm、縁の厚さ23cm、中央の心柱貫通穴は径66で厚さ41cm。花崗岩製。
 花摘寺廃寺露盤概要図: おおよその概要です。上辺の枡形の採寸を忘れましたので、円穴は上辺が小さくなっている可能性があります。また枡形の半分は欠損しているように見受けられましたが、これもはっきりとは確認していません。
花摘寺は聖徳太子開基とされ、付近の田畑などから出土する瓦から白鳳の創建とされる。昭和56年度の寺域内北東部の調査で寺院の廃絶時に形成されたと思われる瓦だまりからの出土品で、平安時代に寺院が廃絶したと思われる。なおその他の礎石は鳥居右に集められている。鳥居左には仏堂を残すも、その由来は不明。
近江笠寺廃寺 草津市南笠。「古代近江の遺跡」:妙楽寺境内に心礎と思われる礎石を残す。一辺1.5m高さ75cmで、中央に径75cnの浅い円孔を彫る。他に円形造出をもつ礎石1個も残す。出土瓦から白鳳ー平安中期まで存続したとされる。心礎・古瓦は通常非公開のようです。
近江妙楽寺遠望:今回心礎は実見せず。
2004/06/13 大和平隆寺 平群寺跡。詳しくは「大和平隆寺」の項を参照ください。明治20年頃心礎発掘・破壊。
大和西安寺塔跡1
  同       2
  同   金堂跡
金堂跡・礎石破砕地
詳しくは「大和西安寺跡」の項を参照ください。
心礎は明治15、6年頃まで存在し、明治末年ころ破壊された可能性が高いと思われます。
大和放光寺 片岡王寺跡。現地では寺跡を偲ばせるものは全く消滅していると思われます。
大和尼寺廃寺 詳しくは「大和尼寺廃寺」のページを参照ください。
大和般若寺跡
飛鳥日向寺塔跡1
  同       2
  同  推定礎石
詳しくは「大和日向寺」の項を参照ください。明治8年頃心礎は掘り出され、破壊されたようです。
飛鳥吉備池廃寺塔土壇1
  同           2
  同           3
  同      廃寺跡
  同     金堂土壇
  
百済大寺跡と推定されているようです。発掘調査により寺院は南面し、西に塔・東に金堂を配し、周りに回廊 を廻らせ、北方に推定僧坊跡などを配置していたことが判明。中門は金堂の前(中軸線の東寄り)で検出され、左右対象でない伽藍配置が確認された。(2000年冬発掘調査)
塔基壇:一辺約30m、版築工法で高さ約2.3mを測る。心礎抜き取り穴は6×8mで、基壇の一辺および心礎(4M四方くらいと推定される)は大官大寺、尼寺廃寺、東大寺などの塔の規模に匹敵する日本で最大級の規模であるといわれる。
なお塔跡・金堂跡土壇は元の畑地に戻り、巨大な土壇のみ見ることが出来ます。土壇の大きさと土壇間の距離で超1級の規模の寺院であったことが実感できます。
塔土壇1,2,3・金堂土壇は西から撮影、廃寺跡は北西から撮影、左金堂。右塔跡。
2004/06/19 武蔵乗蓮寺宝塔1
  同       2
  同       3
  同       4
画像は久保田氏歴史の足跡ご提供<2004/6/17撮影>
昭和57年落慶。構造はコンクリート、斗栱・垂木・正面扉は木造。木部丹塗り。軸部径約2.5m、総高約7.4m。屋根銅板葺き。東禅寺塔と同型同寸という。翠雲堂の設計施工。 福寿観音の扁額が掲げられているようです。
乗蓮寺は応永年中(1394〜1428)浄土宗了賢無的和尚が下板橋、山中村に草庵を結んだことに起源がある。弧雲山慶学院と号す。室町末期に仲宿に移転。天正19年(1591)徳川家康より10石の朱印地を受ける。
戦後相次ぐ道路拡張で境内は破壊され、昭和46年より赤塚城二ノ丸跡(現在地)に移転した。現山号は赤塚山。東京大仏 (昭和52年)などもあり、その他一種の流行仏としての性格もあると思われます。乗蓮寺山容  乗蓮寺本堂  乗蓮寺境内  乗蓮寺大仏
2004/05/03 八坂法観寺五重塔1
  同        2
再訪
山城本法寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
再訪
2004/03/29
「X」氏ご提供画像
武蔵寺内廃寺塔跡1
  同        2
塔基壇西半分は破壊とされるが、写真によるとかなり明瞭に土壇が残されているようです。
金堂跡土壇は微かなマウンドが残り、講堂跡土壇は明瞭に残る。
<以上「X」氏撮影画像・情報>
寺内廃寺は8世紀半ばに創建され、10世紀半ばまで存続したとされる。「花寺」と墨書された土器が出土した。
1991年〜1992年の発掘調査(ゴルフ場造成に伴う)で、寺地区画溝を北辺で570m、西辺200m、東辺170mに渡り確認。寺院地面積は約129,000uとされる。
平成4年の発掘調査で平安期の概ね良好に遺存する基壇建物跡4棟などを発掘、
この4棟は金堂・講堂・中門・東塔跡と推定された。
なおこの基壇建物は、ゴルフ場の残存緑地として現状で保存され、かつ町の史跡として指定されているが、民間の管理地なので、フェンスで囲み、施錠され、自由には見学できない状態のようです。
平成8年の発掘調査で寺内廃寺跡に続くと推定される、道路跡およびその側溝を確認。
伽藍配置は南北に中門、金堂、講堂が並び金堂東に塔を配置する。
推定講堂基壇規模は、推定で幅21m、奥行18mを測り、残存礎石の位置から、講堂は桁行3間、梁行4間の南北に庇の付く建物とされる。
推定金堂基壇規模は、推定で幅15m、奥行13.5mを測り、残存礎石の位置から、桁行5間、金堂は梁行4間の四面庇付の建物とされる。
推定中門:礎石は確認されなかったが、桁行3間、梁行2間の八脚門が推定された。
金堂東側の基壇建物跡は塔と推定された。
後世の林道開削で基壇の西半分が破壊されている。
基壇は、現況で30〜40cmの高さをもち、およそ12m四方の規模と推定される。礎石は残存せず、基壇の中央に径2.8mほどの心礎の掘込みが確認された。基壇の軸が他の基壇と比べ西側に約15度振れている。
また伽藍中心部の東は「東院」などの付属施設があったとされる。
なお「報告書オープンブックス」というページに「江南町埋蔵文化財発掘調査報告書 第13集
「寺内遺跡範囲確認調査関連報告書 2002」(PDF)が掲載されています。しかも利用条件は「無条件」とされています。
  寺内廃寺概要図:上記より転載(部分)
2004/05/08
「X」氏ご提供画像
近江浄明寺塔跡1
 同   説明板
木之本町大音:「X」氏撮影の現地案内板(大音区賤ヶ岳観光協会)によると、「小字<塔の尾>にあり、浄明寺(廃寺)の西塔跡と伝える。 現在も地下に基礎の石が残っている。三重塔であった。」
三重塔とする根拠は不明。地下には礎石もしくは地覆石などの類が残っているようです。情報は以上の他は全く未掌握。
近江法道寺心礎 東浅井郡湖北町津里:「幻の塔を求めて西東」:
一重円孔式、180×140×45cm、径22×14cm、白鳳、裏返しになっている。
「X」氏情報:津里集落中心の観音堂入り口付近にある。赤茶の巨石が裏返しになっている。年輩の方のお話によると、溝に橋として懸けられていた。子供のころ遊びで下から礎石を覗したことがあり、穴が開いていたようであったとのこと。現状隙間から覗いても、表面の様子は全く分からないとのことです。
近江浅井寺心礎 東浅井郡湖北町今西:集落東にある。「幻の塔を求めて西東」:
一重円孔式、110×110×60cm、径20×5cm、白鳳。円孔は傾斜している。
寺域は比伎多理神社を中心にした2町四方と推定され、境内に心礎・礎石が散在する。古瓦が採取され、奈良後期の寺院とされる。朝日山と号したとされ、今堂前の地名を残す。
「佛教考古學論攷 四 佛塔編」:近江浅井廃寺心礎
2004/04/25 常陸鳳台院五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
平成10年落慶。本格木造塔(カナダ産檜造)と思われます。曹洞宗寺院の故か、唐様を基調とする。一辺2.7m、高さ19.5m。屋根:銅板葺き。軸部は完全に唐様。初重は基壇上に直接立ち、縁は用いない。中備:初重中央間は蟇股、脇間彩色間斗束、ニ・三重中央間のみ彩色間斗束、四・五重は中備なし。初重窓:花頭窓。但しどういう訳か垂木はニ軒平行垂木を用いる。設計:白石設計事務所、施行:藤枝建設。仏法興隆門葉繁栄檀信帰崇を願うものとして建立される。
常陸神崎寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
平成11年落慶。形の整った白木の和様の伝統的木造建築と思われる。近江石山寺多宝塔がモデルと云う。屋根銅板葺き。高さ約16m。
真言宗豊山派。創建は不明。中興は元亀3年(1572)とされる。
常陸久昌寺宝塔 詳しくは「常陸久昌寺」のページを参照ください。
常陸法鷲院五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
平成元年落慶。設計施工は岩上政雄棟梁および高木栄歳棟梁。復古調の大型本格木造塔です。(但し構造はSCR木造塔。)おそらく醍醐寺塔がモデルと思われます。高さ108尺33m。総工費13億円。先々住・先住住職の熱意および檀信徒の寄進で完工する。塔本尊は厄除弘法大師と云う。
創建は大同2年(807)、応永元年(1394)大和長谷寺宥応上人の再興と云う、旧奥州談林。真言宗豊山派。
常陸村松虚空蔵堂多宝塔 詳しくは「村松虚空蔵堂」のページを参照ください。
常陸村松虚空蔵堂三重塔 詳しくは「村松虚空蔵堂」のページを参照ください。
水戸護国寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
昭和 53年建立。鉄筋コンクリート製丹塗り。斗栱は三手先に造る。初重に裳階を付ける。高さは20m内外。
略歴:初代住職は井上日召のようです。井上日召は、渡満帰国を繰り返し、やがて故郷群馬に引き篭もり、一種の神秘主義者になったようです。昭和3年頃より、大洗近くのドンドン山(通称)に小堂を建て、題目に明け暮れ、さらに加持祈祷も行い、 その神秘主義は近隣の評判になっていたとされる。
昭和4年地元の水浜電鉄会社が、宣伝と地元発展を目的(あるいは日本精神の研修道場)として近くの東光台に護国堂を建立。この護国堂に井上日召が迎えられ る。これが護国寺の起源の様です。昭和7年以降、井上日召は血盟団盟主として所謂血盟団事件に関与し、日本が暗黒の道を歩む一つのきっかけとなったことは周知のとおりです。
昭和53年護国寺再建の一環として現三重塔が建立されたと云う。建立には法華経信仰もあるのでしょうが、「昭和維新」と称した諸事件関係者の鎮魂の意味なども込められているようです。井上日召の銅像、昭和維新烈士の墓、あるいはちらりとお見かけした現住の風貌など 、ここには今でも戦前の精神風土が漂っているようです。
2004/04/24 下野大内廃寺遠望1
  同        2
  同     心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同     塔礎石1
  同         2
  同     塔土壇
  同 金堂土壇・礎石
  同    金堂礎石
集落・水田中に廃寺跡があり、明瞭に2つの土壇を残す。周囲はおそらく古くから開墾されたものと思われるが、今日まで叢林として残されてきたのは、当地の先人の見識と思われます。塔跡には心礎及び礎石と思われるおの3個が確認できます。金堂跡には数個の露出礎石が確認できます、
金堂(東)の規模は14.5×12.7で土壇高さ1.1m、塔跡(西)の規模7.3m四方で土壇の高さ1m。なお廃寺北方600mに芳賀郡郡衙跡と推定される堂法田遺跡がある。心礎の大きさ等は東国の塔跡のページを参照ください。
遠望写真は南から撮影(向かって左が塔土壇)、塔土壇は東(やや南)から撮影。
下野西明寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
  同     楼門1
  同        2
  同        3

天文5年(1537)高館城主益子家宗の建立とされる。基本的には和様を基調とするが、次のように部分的に唐様を用いる。初重・二重は和様尾垂木、三層は唐様垂木、軒廻りは初重繁垂木、二・三層扇垂木、隅木は初重のみ和様、他は唐様。初重中央間には蟇股を置く。軒の出は深い。屋根は銅板シコロ葺き。相輪の材質は青銅で九輪の水煙が雲形の連続文様で、伏鉢に「天文七歳二月吉日」の銘がある。一辺3.14m、総高17.6m。
楼門(重文・明応元年(1492)建立・基本的に唐様の建築を思われます。)背面蟇股は大変珍しい形ととされる。
本堂は元禄15年(1702)の再興であるが、本堂内厨子(重文・応永元年(1294)建立)は室町期の建築様式を伝えるとされる。
天平9年(737)行基の創建と伝え、延暦年中空海が再興(独鈷山と号す)、鎌倉期最明寺入道(北条時頼)が再び再興(西明寺と号す)したと云う。
常陸小山寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同      本堂
寛正6年(1465)建立。総高21.5M。相輪宝珠に「中郡庄小山寺山長福寺大旦那多賀谷前下総守朝経・・・・」の刻銘(棟梁は宗阿弥家吉)があると云う。若干唐様を交えるが、端正な和様のこの時代の雰囲気を見事に表している建築と思われます。多分中世の和様建築の規範とすべきものと思われる。東国での最古の塔建築とされる。屋根杮葺き。一辺4.16m、高さ19.7m。
冨谷観音。天平7年(735)行基の創建と伝え、その後慈覚大師が伽藍を建立したとされる、鎌倉期初頭に小山寺と号する。南北朝期には結城、多賀谷、大野の諸氏に支えられたと伝える。
常陸楽法寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同    仁王門1
  同        2
  同     本堂1
  同        2

雨引山と号す(雨引観音)真言言宗豊山派。
建長6年(1254)鎌倉将軍宗尊親王が三重塔を建立寄進。その後大破。
第14世堯長が再興を目指すも、二重までで未完・逝去。
嘉永6年(1853)第15世堯宗が多宝塔として再興。一辺6.4m。屋根銅板葺き。
雨引山絵図(天保12年1841)・・多宝塔建立前で三重塔が描かれています。
用明天皇2年(588)梁の法輪独守居士によって開山される。本尊は延命観世音菩薩(平安中期、重文)とする。弘仁12年 (821)夏の大旱魃で、嵯峨天皇は写経を当山に奉納し、降雨を祈願す、そのため国中に大雨があったという伝説による。(雨引山の由縁)
本堂(桃山期)、仁王門(江戸期)、東照山王杜殿(江戸初期)などの建物を有する。
仁王門は江戸関東風装飾を持つ。また本堂も江戸関東風装飾の典型を示す。
雨引山より見る筑波山

常陸新治廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同   東塔土壇
  同   西塔土壇
  同   金堂土壇1
  同         2
  同   金堂礎石1
  同         2
  同         3
  同         4
  同   講堂土壇

南に伸びる小高い丘陵地の西端部に位置し、正面(南)には筑波山の独立峰を望む絶景の地にある。周囲の開墾にも関わらず、今なお金堂・東西塔・講堂跡の土壇と若干の礎石を残し、これも先人の慧眼の賜物であろうと思われる、1939年からの調査で金堂の左右に東西塔を置き、後方に講堂を配する伽藍であることが確認された。また金堂正面の中門があり、中門から廻廊は上記堂塔を廻る形であったようです。東塔跡には土壇と心礎を残す。西塔跡土壇は半壊状態で残る。礎石の露出は不明確。金堂跡土壇な大分形は壊れているが、明確に土壇を残し、礎石が多露出している。出土瓦から8世紀初頭の創建とされる。心礎の大きさ等は東国の塔跡のページを参照ください。
なお講堂北方では食堂・僧坊・経蔵などと推定される遺構もあるようです。

2004/04/23 下野日光山 詳しくは「日光山・本宮(四本竜寺)・輪王寺・中禅寺(中宮祠)」のページを参照下さい。
日光山五重塔、四本竜寺三重塔、日光山相輪橖(トウ)、日光山鉄宝塔、日光山中禅寺など。
下野国分寺塔跡
 同    塔跡土壇
 同     散乱瓦
 同   心礎・四天柱礎
 同    塔跡略図
 同   七重塔模型1
 同          2
現状塔跡は明瞭に土壇の高まりを残す。塔跡からは心礎・四天柱礎1個(北東)、脇柱礎4個が発掘されたと思われますが、残念ながら、これらは埋め戻されて(推定)見ることはできません。
心礎・四天柱礎写真:北東から撮影したもの
塔跡略図:しもつけ風土記の丘資料館
七重塔模型:しもつけ風土記の丘資料館
下野高勝寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同   胴羽目板
  同       10
  同       11
  同       12
  同       13
  同       14
寛延4年(1751)の建立。胴羽目板の彫刻が眼につき、各種の彩色・塗装がなされる江戸期関東風塔婆の典型です。しかし容姿はバランスの執れた優れたものと思います。総高19m(あるいは21m)。
昭和50年代に修理。九輪の伏鉢銘:「大工下野国駒場村大山平六時千寛延四辛未季三月大吉祥日」とあるようです。初重・二重はニ重平行垂木、三重は扇垂木。屋根:銅板瓦葺 。
当寺は岩舟地蔵尊といい、岩舟山山上にある。縁起:伯耆大山寺弘誓坊明願は生身の地蔵菩薩を拝みたいと願じていた。宝亀元年(770)夢の中に、御仏の声を聞く。「生身の地蔵菩薩を拝せんと思わば、これより東、下野国岩船山に登るべし、必ず生身の地蔵尊を拝すべし」。明願は下野への旅に出立し、岩舟で地蔵尊の化身伊賀坊に邂逅する。そこで遂に生身の地蔵尊を拝む。明願は帰国の後、宝亀8年(777)再度岩舟を訪れ 、岩舟山腹にある地蔵尊を本尊として高勝寺を創建した。
元応2年頃、新田義貞が病気平癒の祈願をし、供田10石を寄進したと伝える。縁起で推測できるように天台宗を奉じる。
なお関東各地に当地蔵尊の分身が祀られているようです。またこの山は「加工の容易」な岩舟石の産地であり、江戸期初頭から関東一円にその岩石が供給され たようです。現在ではほぼ採掘しつくされ、採掘は少量のようです。
胴羽目板:正面向かって左脇間から、向かって右脇間へと8面分の写真です。
画像13・14:案内板の写真を転載・・・相対的に写真の撮り難い塔で、かつ逆光で良い写真は撮れませんでした。
下野鑁阿寺多宝塔

詳しくは「鑁阿寺多宝塔」のページを参照ください。

2004/02/29
「X」氏撮影ご提供
尾張曽根(作石)心礎1
  同         2
  同         3
瀬戸市曽野町作石 :詳しい情報はありませんが、作石の寺塔の礎石 もしくは曽根礎石と通称されるようです。ある郷土誌?では心礎との紹介があるようです。写真によると畑の畦に放置されていて、四角に加工され、外形はかなり珍しい形の心礎と思われます。心礎は一段円穴式で、201×167cmのほぼ四角形に加工され、中央に径57.5cm(「X」氏計測)の穴を掘る。白鳳時代 のものとされるようです。これも珍しく○△廃寺の名称はないようです。
1991年
「X」氏撮影ご提供
大和本地光寺西塔1
  同        2
  同        3
1991年撮影。その後近年この西塔心礎は田圃統合による土入れで、土中に埋まり、現在は見ることは出来なくなっています。
2004/03/07
「X」氏撮影ご提供
遠江国分寺塔模型 JR磐田駅展示遠江国分寺塔復元模型。磐田青年会議所?寄贈静岡市宮崎金太郎氏となっているようです。
2004/03/05 摂津芥川廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同     跡遠望
  同     廻廊図
「日本の木造塔跡」:心礎はほぼ三角形で1.8×1.2mの大きさを測り、径60×9cmの円穴を彫る。さらにその円穴に一部重なり、別の径約60cmの浅い円の彫り込み もある。この二重円穴は大和地光寺東塔心礎と同一であり、おそらく彫り損いのため、彫り直したものであろうとする。心礎は現在は素盞鳴尊神社(神都社・素盞鳴の名称から推察して近世は牛頭天王もしくは祇園社であったと思われる。)の鳥居横の手水鉢となっています。芥川廃寺は当神社を北辺として、その南方に展開されていたようで、廻廊跡が一部検出されたようです。寺院は白鳳期の創建で平安中期まで存続したとされる。東方の摂津島上郡衛と並立し、郡衛附寺跡として史跡指定。
跡遠望:南より北を望む。右社叢が素盞鳴尊神社。
摂津勝尾寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同      遠望
昭和6年建立。一辺約4.3m、高さ約13m。伝統工法による木造建築。屋根銅板葺。装飾はかなり派手で、蟇股には十二支の彫刻をいれ、両脇間は連子窓ではなくて、花頭窓とする。上重は扇垂木。良く手入れがなされるようで、現在も新築のような外観を保つ。本尊大日如来。
ただし、寺院の在り方としては、
40年くらい前・高校生の頃訪ねた時の印象と違って、幻滅する堕落ぶりでした。二階堂の法然上人もお嘆きのことと思いました。
西国33所第23番札所。高野山真言宗。開創は神亀4年(727)で、善仲・善算 (藤原敦房息)と伝える。弥勒寺と号す。天平神護元年(765)光仁天皇の皇子開成が入山。平安期には現寺名に変更。
摂津金寺廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
新免廃寺。「日本の木造塔跡」: 心礎は1.7×1.2m×76cmで、径65×11cmの円穴を彫り、中央に径10×6cmの半球状の孔を穿つ。排水溝らしきものが1本あるとも見えるが、定かではない。
心礎は看景寺(寛文3年1663金寺千軒より現在地へ移転)の庭に放置されている。心礎は文化10年に東方すぐの豊中稲荷から移されたと伝承される。この稲荷一帯が金連の氏寺金寺跡と云われる。戦国末期の荒木村重の戦乱で焼き払われるまで金寺千軒と 云われ繁栄したと伝えられる。金寺の伽藍配置は不明のようですが、出土瓦から白鳳期の創建とされる。
摂津芦屋廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4

塔心礎:1.93×1.1×約0.5mのほぼ五角形の自然石で、上面に径30×16cmの孔を穿つ。孔横に島津十字(径 20cm)の印刻がある。この印刻は後世のものなのかあるいは当初の方位を示す刻印なのかは判然とはしない。昭和11年西山町旧栃木嘉郎氏邸南東に埋没していた心礎の調査が行われ た。その後、経緯は不明ですが、心礎は寺跡の南方・月若町猿丸吉左ヱ門氏邸にあったようです。さらに、これまた経緯は不明ですが、現在では芦屋市立美術博物館前庭に放置されています。
伽藍地は芦屋市西山町とされ、市街地化している故に、小規模の合計66次に及ぶ発掘が平成11年度までに実施された。平成11年(66次)発掘で、金堂跡の推定南辺の地形段差と基壇が検出された。具体的には、下成基壇の一部残存と思われる花崗岩の基底列石が発掘され、白鳳期と思われる軒丸瓦、建築用「塼」の出土が多く得られたようです。また基壇は3回に渡り、整地造替が行われたことがはっきりしたようです。創建時礎石および再・再再建の礎石と思われる石も出土したとされる。(ただし金堂跡との推定は以上の成果および地形を含めた状況証拠からの推定です。)一方では心礎は 推定金堂跡東の旧栃木邸で出土したとされ、だとすると、おそらく法起寺式であろう との輪郭も描けるようです。
「寺社御改委細帳」、元禄5年(1692):塩通山法恩寺、開創は行基、在原業平が伽藍修復、嘉吉2年(1442)の兵火で焼失、その跡に薬師堂を 建立。なお薬師堂は西ノ坊と称したようです。
「行基年譜」;天平2年(730)菟原郡に船息院・同尼寺を建立。
「摂津志」・「摂陽郡談」・「芦屋の里」・「塩通山故事」・「務古の浦風」など の文書にもいわば「伝承の継承」なのでしょうが、行基との関連の記載があるようです。
「摂津名所図絵」:芦屋川東岸に「薬師」として挿絵がある。
近代には瓦の出土などと、昭和42・43年には薬師堂跡と推定される礎石・石列、中世の石垣列などが発掘される。

摂津妙見寺 情報収集が不十分ですが、二層塔があったと思われます。1995年の阪神淡路大震災で倒壊し、居今は跡形もないようです。 木造塔ではなく、鉄(カネ)の塔?であった?。

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