最近訪問した塔婆・ご提供画像(2003/12/27〜2004/02/22 )

過去の訪問塔婆履歴

2004/02/22 山城石清水八幡宮 詳しくは「山城石清水八幡宮」のページを参照ください。
「N」氏ご提供画像 陸奥文字摺観音多宝塔
(安洞院)
文化9年(1812)建立。銅板葺き。高さ15m、一辺約3.2m。江戸風な過剰な装飾を持つようです。正面に唐破風 基本的に禅宗様を用いるようです。
棟梁は地元山口村藤原右源次と伝えられる。「N」氏情報によると”気仙沼・三陸一帯には「気仙大工」という出稼ぎ大工集団があり、近世から今に至るまで、江戸の災害の度に、駆けつけたようで、故郷では自宅・菩提寺の普請にあたり、今に江戸の建築技法を伝える技法を持つ建築が残されている”とのことです。この”多宝塔も気仙大工の造作”であるとすると、頷けます。
なお、文知摺とは信夫文字摺のことのようで、この地方「信夫」の里で、岩の表面に絹を置き、その上から忍草(しのぶぐさ)を摺りつけて岩の凹凸をを利用して染色する技法を云うようです。当寺にはそれに因んだ伝説が伝えられているようです。現在堂塔は安洞院の管理にあるようです。1972年撮影。
武蔵平間寺八角五重塔1
  同           2
昭和58年竣工。鉄筋コンクリート製ですが、一応外観は正規の塔建築として設計されているようです。総高31.5m。中興塔と称するようです。金剛界五智如来、真言八祖、梵字曼陀羅、恵果阿闍梨、弘法大師、覚鑁上人各尊像を安置と云う。 真言宗智山派大本山。川崎大師。
要するに、関東智山派の典型のようで、東京付近の人口集中とともに、隆盛になったようです。
写真は1995/1/2撮影。
陸奥国分寺多宝塔 1987年撮影。
陸奥竜宝寺多宝塔 1994年撮影。
出雲国分寺 1985年撮影。
陸奥輪王寺三重塔
(近年撮影)
昭和56年(1981)建立。鉄筋コンクリート製。 開山五百回大遠忌を記念して建立。総高22.6m。
金剛宝山と号する。曹洞宗。嘉吉元年(1441)蘭庭明玉禅尼(伊達九代政宗室)の所願により、持宗が梁川に創建する。その後輪王寺は、伊達氏の居城変遷とともに六遷し、現在地には慶長7年(1602)に遷る。明治九年、野火に類焼し、仁王門のみを残して、灰燼に帰す。
出羽立石寺三重小塔 撮影時期不詳。
陸奥国分寺心礎 昭和45年(1970)頃撮影。
陸奥横手廃寺 1982年撮影。福島県相馬郡鹿島町。写真は「N]氏ご提供で、塔心礎ということです。
しかしながら、この写真が塔心礎であるかどうかは、情報不足で、判断を保留します。当廃寺についての情報は、土壇及び礎石を残し、軒丸瓦・平瓦の出土があり、平安初期の寺院跡であろうという情報しか 入手していません。礎石の残存または出土状況あるいは大きさ等の情報も未入手です。また写真を拝見する限り、礎石である可能性は高いとは思われますが、石自体を見てこれが心礎であるという決め手は無い様に思われます。
山城神護寺多宝塔 2003/11/25撮影画像。
山城禅林寺多宝塔 撮影時期不詳ですが、上記と同じ頃と思われます。
2004/02/08
「X」氏ご提供画像
三河寿泉寺三重塔1
  同        2
  同        3
平成15年落慶。外見で判断する限り、木造本瓦葺きの、基本的に和様を用いる正規の塔建築 と思われます。全体的なプロポーションは江戸後期様の印象です。本尊は薬師三尊。寺暦については全く未掌握。
遠江宗安寺三重塔1
  同        2
  同        3
平成11年建立。写真で判断する限り、木造銅板葺きの、正規の塔建築と思われます。その他の詳細は不詳。
高さを追求したのか、平面積に比べて、各重とも身が高く、ややバランスが悪い印象です。
万松山と号す。曹洞宗。創建は不詳ですが、永禄元年(1558)創建ともいわれる。
2004/02/07 大和金峯山寺 詳しくは「大和金峯山寺塔跡」のページを参照ください。
金峯山寺南朝妙法殿1
  同         2
  同         3
再訪。昭和32年建立塔。八角三重塔。一応木造塔ですが、正式な塔建築ではありません。
南朝四帝と南北朝期以後の忠臣の霊を祀るために、全国の信徒や有縁の協賛のもと建立されたという。塔のある場所は後醍醐天皇の行宮であり、近世の金峯山寺本坊であったとされる実城寺(金輪王寺)跡とされる。塔本尊は木造釈迦如来座像(平安前期と推定・重文)で、普賢・文殊菩薩もあわせて安置するようです。実城寺は明治8年売却され、焼かれて焼釘代となったという。
大和東南院多宝塔 詳しくは「紀伊野上八幡・東南院多宝塔」のページを参照ください。
大和如意輪寺多宝塔1
  同         2
  同         3
積雪の為、再訪を断念、遠望写真のみ。
大和安楽寺塔婆1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
  同       7
再訪。現地説明板では、屋根母屋に「三重之宝塔ハ正嘉二年(1258)十月十日二重下シテ一重ト改」とあるとされ、正嘉二年に塔堂と改築されたようです。これに従えば鎌倉中期は下らない建築で、確かに純和様の古風な組物を残すようです。付近には古安寺、上ノ門、中ノ門、下門、塔ノ奥、廊ノ坊、上ノ坊、下ノ坊、蓮池などの地名を残すという。内部は四天柱内いっぱいに仏壇を置いた痕跡があるとされる。現在は仮設仏壇に大日如来像(室町)安置するという。
「葛城寺縁起」元禄9年(1696)では「稲屋村阿弥陀山葛城寺(亦名、妙安寺)貞心院は聖徳太子の創建で後に葛木臣に賜うた」初期には、聯全堂、阿弥陀堂、宝塔の三宇、山門、鐘楼、弁財天洞、及び五院坊などがあった。江戸中期の大火、永年にわたる損壊・腐朽により、ほとんどの堂宇を失う。延宝年中九輪が落ち、上二層が崩落、初重を塔堂とする。縁起に従えば延宝年間(1673-80)に上2層を失ったとされる。
「大和名所記 和州旧跡幽考」第12巻、林 宗甫、江戸中期:「葛城寺
村老申す、寺村その跡なり。葛城寺又は妙安寺ともいう。聖徳太子御建立の後、蘇我葛木の臣に賜りけると平氏伝に見えたり。」
安楽寺は高野山光台院末、本尊十一面観世音菩薩立像とされ、小宇を残す。また塔北西には関係は明らかではありませんが、廃寺同様の坊舎を残す。
なお以前の写真では崩壊寸前の様子ですが、近年解体修理が行われたようです。修理で相当新材に取替または補充されたようですが、傷みの跡を明瞭に残す古材も健在です。
2004/01/11 大和水別神社心礎A1
  同         2
  同         3
  同         4

  同  推定心礎B1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6

大和大岩大日堂遠望

「幻の塔を求めて西東」:吉野郡大淀町、大岩水別神社神社。120×90×45(見える高さ)cm、径66×2.5cmの円柱座を造り出し、径27×3cmおよび径17×18cmの二重円孔を穿つ。
この心礎は大岩水別神社拝殿(右)に手水石として転用されています。まず形状から塔心礎と思われます。心礎A。
なお現地には破壊されていますが、以下のように心礎と思われる石はもう1個存在します。
「おおよど歴史てくてく散歩」(大淀町教育委員会発行)の「25大岩・大日堂・木造大日如来坐像(町文)」の項によると、大日堂内に金剛界大日如来坐像(像高5尺2寸4分158.5cm、平安後期、クスの一木造)がある。なお地区内神社には舎利子がある礎石が2基あり、大寺院が存在したと思われる。との記載がある。
大日堂右の神社への参道を登ると「ゝ」形に参道が折り返しますが(折り返し地点のすぐ上が鳥居)、その折り返し直前の参道右(谷側)に破壊された別の心礎とも推定される石が放置されている。加工面が谷側に向いているため、注意しないとそれとは分かりません。
現状の大きさは(実測)約80×55×60cmで、径40×2.5cmの造出があり、その中央に内径15.5×19cmの円孔を穿つ。
周辺が破壊され元の大きさが不明で、そのため(心礎だとすれば円形造出が小さすぎる)円形造出の周辺に別の柱座もしくは排水溝などの有無が確認できず、心礎かどうかは不明とするしかないと思われます。心礎Aの二重円孔の小孔は舎利孔と推定出来ますが、この石が心礎だとしても、この円孔は枘穴なのか、それとも何か鎮檀具入れのようなものなのか良く分かりません。推定心礎B。
この石の破壊は近年のことと思われます。それは破断面が新しく、また明らかにドリルで穿孔した楔
痕が明瞭に見て取れます。(推定心礎B6の写真参照。)蓋し残酷なことと思います。
大岩水別神社神社は明治維新まで八大龍王と称したが、神仏分離で、水分神社と改称する。神体は六体の八大龍王(女神男神各三体で二体欠けている)で、鎌倉初期の彫刻のようです。古来、吉野水分神社とともに郡内水分三社とされてきたようです。
付近の人のお話では神社の礎石は大日堂の礎石といい、大寺院があったとの伝承はないようです。また神社の立地は大寺院の建立されるような地形ではなく、周辺を別にすれば、僅かに大日堂のある地点に平坦地があるだけです。
なお大岩の集落は低い山上に展開しますが、周囲はゴルフ場として開発されています。日本の底の浅い近代化の典型のような景観を呈しています。所詮資本の論理であれば、札束で、日本の景観を壊しても恥とせず、そこで平気で遊ぶ輩がいるというお決まりの景観です。なおこの開発で古墳が保存もされず、多く破壊されたようです。出土瓦はカシワラ?歴史博物館??が全部持って帰ったとの地区の人の話もありましたが、これは破壊された古墳の出土品との混同とも思われます。あるいは今神社に心礎を残す古代寺院が日の目を見ず破壊されたこともあったのかも分かりません。
大日堂遠望写真:中央が大日堂で背後の丘上が水別神社の鎮座地です。
大和本地光寺東塔心礎1
  同           2
  同           3
  同           4
大和本地光寺西塔跡
「日本の木造塔跡」:東塔心礎は脇田神社(天満宮)の境内に在る。東塔心礎は2.9×2.5mで、上面に2.6/2.4×1.15mの長方形の造出を造り、その中央に径75/73×4/3cmの穴を彫り、更に径58×9/8cmの穴を彫る。(二段式)。また内側の穴の中心をやや外れて、径3.9の孔を穿つ。なお内側の穴と同一径で深さ4cmの穴が「繰り込み」として、穴の被さって彫られている。これは彫り損ないか再興塔のものであろうと推測されるが、おそらく彫り損ないであろうとする。
西塔心礎は、かっては見ることが出来たようですが、現在は田の改造で土が入れられ、見ることは出来ません。近隣の人の話を総合すると、4〜5年前?程、心礎は田の中に あった。天満宮と西の車道の間には3枚の田があったが、天満宮寄りの2枚の田を1枚にした時に土を入れ、心礎は土の下0,5〜1mの下になり、今は見ることができない。との話でした。なんとも言いようの無い所業のように思います。 西塔跡写真上方の杜が天満宮(東塔跡)です。
 「日本の木造塔跡」では西塔心礎は脇田神社西の田の中に在る。
西塔心礎は1.45×0.9mで、径72/70×2cmの穴と径57×10/8cmの穴を彫る。とある。 西塔跡写真はかって心礎が露出していたと思われる田です。
大和加守廃寺心礎1
  同        2
  同        3
「幻の塔を求めて西東」:心礎は110×95×47cmで、径37×5cmの孔を穿つ。白鳳期。
加守寺(あるいは掃守寺、竜峯寺)は「薬師寺縁起」いう大津皇子の鎮魂のために建立されたとされる。加守廃寺は二上山の尾根を挟んで北遺跡と南遺跡(加守神社の周辺)とがあるようです。北史跡では塔及びそれを囲む廻廊が検出されたという。南遺跡では発掘された長六角堂跡が検出され、大津皇子の供養堂説との説があるようです。いぜれにせよ現在地上には何も見るべき遺構は無いと思われます。
付近の教善寺本堂前に在り、庭石として転用されている心礎が加守廃寺心礎とされるようです。
河内衣縫廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
河内国府遺跡の石碑の台座とされているが、全体を観察するのには大きな支障はない。
「日本の木造塔跡」:心礎は3×2.1mで、径100×60cmの円穴を彫り、穴中央に径18×3.6cmの蓋受孔と径16×9cmの舎利孔を穿つ。
発掘調査で、法起寺式伽藍配置であることが判明しているようです。また飛鳥寺や豊浦寺と同時期の瓦が出土し、創建は白鳳前期とされる。
河内西淋寺心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
再訪。伽藍跡の現状は住宅密集地で、現西淋寺の小堂宇を残す。現山門の中左手に「巨大」な心礎(元位置ではない)のみを残す。 「日本の木造塔跡」:心礎は3×3×1.5mで、上面は平に加工され、径76×40cmの穴を彫り、穴には4個(あるいは5個とも云う)の添柱穴を付属する。舎利孔は四角の添柱穴の側面にあり、横穴式とされる。舎利孔は13×11×深さ18cm。
曽我稲目の配下の河内の文氏が建立した日本で最初期の寺院の一つとされ、発掘調査の結果、法起寺式伽藍配置が確認されているようです。
河内名所圖會:記事:「塔礎(とうのいしずえ):本堂の東にあり。真柱の古礎に刹の字を鐫す。そのめぐりに16礎あり。」とありこの頃には心礎とその他の礎石も現存し、元位置にあったようです。
河内土師寺心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
再訪。南面する道明寺天満宮の正面道路沿い西に保存されている。元塔婆位置から若干西に移動されているようです。伽藍跡は住宅になっていて 目に見える遺構は他にはありません。
「日本の木造塔跡」:心礎は2.2×1.9mで、上面の径110cmの柱座を造り出し、その中央に径90×12cmの円穴を彫り、さらに太い排水溝が1本彫られている。側柱礎として8個が並べられている。土師寺々伝では推古2年(594)土師連八島が建立したと伝え、四天王寺式伽藍配置が確認されている。 その後土師寺は荒廃したが、土師氏の後裔である菅原道真は道明寺として伽藍を再興し、さらに後には道真を祀る天満宮も創建されたようです。現在も元域の北方に は神仏分離により天満宮と道明寺(西方)に分離し伽藍が維持され、信仰を集めているようです。
河内拝志廃寺心礎1
  同        2
「幻の塔を求めて西東」:伴林氏(ともばやしのうじ) 神社にある。心礎石と云う石は現在神社西側にある林氏神社石柱の台石に なってる。心礎は136×133.4cm。 表面は平に削平した可能性はありますが、穴などの加工の形跡は見られない。石柱 が嵌めこまれているところに、あるいは、穴などの加工がある加工性はありますが、石柱の嵌められている位置は台石の中心をかなり外れていて、少なくとも見える範囲では孔などの形跡はない と思われます。以上の意味で何を根拠に心礎というのかははっきりしないですが、神社側の説明では塔心礎に石柱が建っているとのことでした。
神社西側の地は字「寺の山」といい、林氏の建立になる寺跡という。白鳳期の創建とされるようです。
河内葛井寺心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
葛井寺参詣曼荼羅」(室町期・葛井寺蔵):東西両塔があり、創建寺も双塔伽藍と推定される。
「河内名所圖會」:葛井寺伽藍図(部分図)、記事:「・・・ここに明応2年・・、兵火に罹りて、楼門・中門・三重大塔・鎮守・・・等焼亡し・・・」とあり、かっては三重塔が存在したようです。
図中に基壇跡が2ヶ所みえますが、楼門を入り右にある基壇が東塔跡と思われます。この当時はまだ石積基壇が残っていたのかもわかりません。
東塔心礎と云う石が現存する。「幻の塔を求めて西東」:心礎は190×160×80cmで、表面は平らで加工はなし、双塔式、地下式心礎であったとする。
表面は平に加工され、中央におよそ径87cm幅1cm高さ1cmくらいの輪上の細い出枘の痕跡と浅い円形の柱穴の形跡が残る。
なお近年まで石塔などの台石になっていたようで、四角形の石塔の台跡がまだ残っています。
百済王族の子孫葛井給子が飛鳥期に創建し、聖武天皇勅願により七堂伽藍を建立、千手千眼観音(天平・国宝)を安置、行基菩薩の開眼と伝える。
四  脚 門(重文)は豊臣秀頼の建立 。西国33箇所第五番札所。
河内片山廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同      礎石
  同    礎石B1
  同    礎石B2
  同    礎石B3
  同    塔基壇
「日本の木造塔跡」:片山神社南の片山薬師堂の前に心礎、四天柱礎2、脇柱礎3個を残す。
心礎は2.3×1.5m×80cmで、径75×10cmの穴を彫る。出土瓦から白鳳期の創建とされる。
昭和57年の発掘調査で一辺11.7mの塔基壇を発掘、基壇は壇上積基壇で一部は瓦積に補修されていたとされる。また南及び西縁には階段も残っていたようです。 (塔基壇写真)
心礎以外に礎石が寄せ集められていますが、心礎以外の区別はつきません。
なお心礎以外の礎石の中に円孔を穿つ礎石があります。<写真の礎石B1〜3>その概要(実測)は120×100×45(見える高さ)cmで、中央に径22×11cmの円孔を穿つ 。これが何の礎石かは不明ですが、ごく小さい終末期の心礎とも思える形状をしています。
大和郡山城心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
  同       7
  同       8
  同       9
「石造物郡山城址転用材調査概要」南村俊編、郡山城史跡・柳澤文庫保存会、1975:
大和郡山城石垣に半裁された心礎(同じ心礎が半裁され2ヶ所に分散)が転用されている。
心礎は径1.75m、高60cmで、柱座(径1m、 高0.7cm)を持ち、中心に径36cm、深30cmの円錐形の舎利孔が穿たれている、とされる。
在り場所は郡山城地図のと おりですが、郡山高校前から柳澤神社にはいる入口に竹林門跡の櫓石組があり、一つは竹林門跡から柳澤文庫に続く通路に入り、本丸の東面石垣の南端近くの上部にあ ります。もう一つは竹林門跡の櫓の西の石組の西面の下部に組み込まれています。
いずれも心礎に近づくことは出来ません。
郡山城心礎:「石造物郡山城址転用材調査概要」より転載。
夏場には心礎の在る石組はかなり蔓草が茂り、そのために見えない可能性があります。
例えば2003/7/16撮影画像では郡山城本丸東面石垣の状態で探すのは容易ではありません。柳澤文庫の説明では冬場には毎年石垣の草の刈り込みを実施するとのことでした。
同「転用材調査概要」によると、伝羅生門礎石、灯篭、石造仏塔、石仏などのほか、礎石として確実なものは花崗岩製で36基、凝灰岩製10基であり、柱座の検出不可のもの、石塔類との区別の不可のものを入れると、さらに多数の礎石が転用されているという。
以下の写真はその1部で、礎石と明確にわかるものもありますが、良く観察しないと分からないものも多いようです。2003/7/16撮影:
転用礎石1  転用礎石2  転用礎石3  転用礎石4  転用礎石5  転用礎石6
2004/01/17 山城栢杜推定三重塔跡 詳しくは栢杜推定三重塔跡のページを参照ください。
2003/12/30
「X」氏ご提供画像
(筑前長者原廃寺)
筑前駕輿丁廃寺心礎1
  同         2
  同         3
駕輿丁(かよいちょう)池は、筑前三大池の一つといわれ、元禄10年(1697)郡奉行川村茂右衛門によって築堤され、現在の形になったとされる。駕輿丁池の東側は、奈良〜平安期の寺院である駕輿丁廃寺の跡という。ここから塔心礎 が出土し、その心礎は現在、中央公民館に移されているようです。
心礎については「現地説明板」:心礎は209×103×43cmで、径56×16cmの円孔を穿つ。
「幻の塔を求めて西東」:心礎は一重円孔式。205×100×40cmで、径54×5/6cmの円穴を彫る、 とある。なお伽藍配置などについては不明のようです。
2003/12/28
「X」氏ご提供画像
肥後宮寺廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
熊本市二本木三丁目。心礎はもとの宮寺村にあ り、延命寺跡地にあるようです。心礎は原位置を保つとされる。当村にあった天台宗延命寺遥拝山妙智院(現在は廃寺)は天平期行基の開基とし、本尊千手観音も行基作とする。現在は僅か観音堂1宇が残り、本尊千手観音立像、不動明王立像、毘沙門天立像、阿弥陀如来立像を祀るという。またさらに当地には天台宗善逝寺(現在は廃寺)もあったとされ、行基開基で、本尊薬師如来及び脇侍・十二神将も行基作と伝える。勿論いずれも真偽の程は疑わしいが、いずれにしろ奈良期の寺院があったことが推測され、心礎のあった寺院は延命寺などに法灯が継がれたとも推測可能と思われます。
2003/12/26
「X」氏ご提供画像
豊後善徳寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
臼杵市大字末広:大きな納骨堂の上に建立されている塔、あるいは、納骨堂と一体化している三重塔のようです。
残念ながら鉄筋コンクリート製のようです。非常に大きな逓減率を持つ姿のようですが、鉄筋製とはいいながら見た目の木割りが華奢で、おまけに組物も一手先の構成で著しくバランスを欠いている印象のようです。建築年代は不詳ですが、最近の建立(名称は平成の三重塔というようです)と思われます。なお善徳寺は真宗大谷派の寺院のようです。
2003/12/31 美作長法寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
平成8年完成。木造・復古調の本格的建築で、極めて均整のとれた姿をしています。無彩色。銅板葺き。高さは約17m。城構えのような長法寺境内から、かなり登った山腹に建立されている。
開山1150年記念として建立。設計施工は金剛組のようです。
当寺は金光山と号し、貞観2年(860)慈覚大師の創建と伝える。数度の火災にあい、漸次衰微していったようです。
播磨高蔵寺三重塔跡 詳しくは「播磨高蔵寺・山城三室戸寺三重塔」のページを参照ください。
2003/12/30 讃岐弥谷寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
明治10年頃建立。 一辺3.15m、高さ約12mで、切り立った岩盤上を造成して建つ。上層組物はおおむね唐様を用いるようです。本尊は大日如来。
四国88ヶ所第71番札所。仁王門、本堂、大師堂、十王堂、護摩堂、本坊などの伽藍を配置する。
参考:以下の記事があり、明治になって多宝塔が建立されたようです。
「中国名所図会」巻之1:
記事:「本坊(南向き。誠に岩にそびえ。上下続きて欄干をわたし屈壁高岩に建てかけ、前には摂待所眺望をとり、上は・・・、まことに仏閤仙人の住居とも謂ひつべき霊山なり。この岩頭に多宝塔を建立せんといふて、地取りの様子を聞きけり。いまだ成就なければここにもらす。)」 以上の記事によれば、伽藍図には多宝塔が描かれていますが、これは構想上の塔婆で、実際には建立されてはなかった とと思われます。弥谷寺全図弥谷寺構想上の多宝塔(部分図)
讃岐善通寺 詳しくは「讃岐善通寺」のページを参照ください。
讃岐田村廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
「新編香川叢書 考古篇」:寺域想定地は水田住宅地で、寺域は明確ではない。但し塔の本・瓦塚・塔の前・舞台の地名を付近に残すという。心礎は番神社前に移転して、在る。心礎は2.2×1.9×0.84m、上面は削平され、中央の径47cm深さ7cmの孔を穿つ。出土瓦から寺院は奈良〜平安後期まで存在したとされる。
心礎は現位置の東南方から出土したようです。花崗岩製。
讃岐宝幢寺心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
  同       7
「新編香川叢書 考古篇」:金倉寺記録によると宝幢寺は貞観年中(但し出土瓦からは創建は白鳳ともされる)智証大師の創建で、大師開基17談林の一つという。天文の争乱で破壊、その跡用水池となり宝幢寺池という。 「今池中に塔礎石あり、古瓦多数あり」とあるようです。用水池工事は江戸期とされる。
昭和54年発掘調査。土壇は2基のように見えるが実際は後世に分断されたもので東西約90mの方形土壇とされる。砂礫層のゆえに、砂礫層まで掘り、強固に版築工法で固めたものと推定される。心礎は花崗岩で、三段孔式である。
「日本の木造塔跡」:2,36×1.92×0.74m、径87×5/4cmの円穴、24×3cmの蓋受孔、11×8cmの舎利孔を穿つ。また放射状排水溝1本がある。
通常は池中に没しているようですが、渇水期には讃岐富士と宝幢寺池と礎石の組み合せがすばらしいものと思います。
讃岐国分寺 讃岐国分寺塔跡・国分寺模型・二層塔
詳しくは「讃岐国分寺」のページを参照ください。
讃岐開法寺塔跡1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
「日本の木造塔跡」:塔跡には心礎・四天柱礎・脇柱礎全てを残す。塔の一辺は5.8mで、基壇は一辺11.2mの壇上積基壇(但し一部のみ残存)。心礎は2.1×1.2mで、径85、幅3、深さ3cmの環状溝を彫り、中央に径46×15cmの孔を穿つ。環状溝からは2本の排水溝(幅・深さとも3cm)を持つ。その他の礎石は自然石。白鳳期の創建とされる。伽藍配置ははっきりは しないが法起寺式と想定される。
なお塔跡北方には講堂と想定される礎石が田の中に埋没しているのも発見されたようです。
「讃岐名所圖會」:開法寺跡(今池となりて開法寺池と云へり。往古、国分寺末寺なり。今田の中に塔の跡あり。廃瓦多し)
菅家文章」菅贈太政大臣「客舎冬夜」の一節「開法寺中暁驚鐘開法寺在府衙之西」
とあり開法寺は讃岐国府の西に存在したとされ、この開法寺跡とされる。なお菅原道真は讃岐守に任官していたようです。
挿絵はありません。
2001年に平安時代中ごろの礎石を伴った建物跡を発掘。開法寺の僧坊跡の可能性が強いとされる。
礎石は18個出土。最大長径約80Cmで、塔の主軸方向と同一の東西方向に並んでいた。庇を伴う建物らしく、礎石は二列の配置になっている。平安中期の土器やかわらを採取。
讃岐鴨廃寺心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
「新編香川叢書 考古篇」:心礎は177×150cm×90cmで、中央に径39cm深さ11cmの孔を穿つ。また孔の周囲には径70cmの円形の薄い掘り込みがある。上面は中央が小高くなるように加工されている。 (要するにやや不完全な山王廃寺式の心礎です。)心礎は原位置を保ち、根石なども観察できるようです。
出土瓦から創建は奈良前期と推定される。それ以外の遺跡は発見されていないようです。
田の中にぼつんと孤立してあります。一切の案内板などなく、ほとんど知られていない心礎のようです。
讃岐醍醐寺塔土壇1
  同        2
 同   土壇上礎石
 同 土壇西側斜面礎石
 同 土壇北側斜面礎石
塔土壇と推定される方形の土壇が残されている。
「新編香川叢書 考古篇」:切り取られた土壇上に4個の礎石(花崗岩の自然石)が露出している。礎石間は約2mという。また一辺は5.7mとも云う。(この説明文は良く分かりません。)出土瓦は奈良前期とされる。
「香川県史第1巻」:土壇(塔跡)は周囲が削り取られているが、7×9mで高さ1.5m。花崗岩製の礎石(西に3、南に1、北に2、壇上に1個)を残す。礎石間隔は西側は2.2m、北側は1.5mになっている。
醍醐という地名は北西6kmの沙弥島で誕生したと伝える醍醐寺開山理源大師聖宝との関係が考えられる。
現状この土壇は大変荒れています。辛うじて田の中に残っていますが、周辺の開発で削平される恐れがあると思います。なんとか保存して欲しく思います。
礎石については現状露出しているものは写真のように、土壇上に1個、土壇斜面の西と北に各1個しか確認はできません。瓦の破片が目に尽きますが、これは新しいもののようで、ゴミとして運び込まれたものか、近年までなんらかの堂宇がありその瓦かと思われます。
讃岐醍醐寺塔土壇・・・(X氏ご提供画像)
2003/12/29 讃岐白鳥廃寺全景
  同     塔跡1
  同     塔跡2
  同     心礎1
  同     心礎2
  同     心礎3
  同     塔基壇
  同     金堂跡
  同   放置礎石
「日本の木造塔跡」:心礎は1,6×1.4m、上部は削平され、径37×7.3cmの孔を穿つ。
塔土壇の一辺は12m。その他塔跡には動いているが9個の礎石を残す。
西方には11個の礎石を残す土壇があり、金堂と推定される。出土瓦などから奈良前期〜平安末期の寺院とされる。
また塔と金堂跡の間には放置された礎石4ヶが並べられている。
廃寺全景:向かって右(東)が塔跡で、左(西)が金堂跡。塔跡1:西(金堂跡)から東を撮影。塔基壇:南の石列を撮影。
讃岐与田寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
昭和59年建立。一辺4m、高さ13mで、近江石山寺多宝塔をモデルとするようです。
伸和建設の設計施工、(「伸和建設資料集」より転載:多宝塔 平面図 一辺13尺3寸。 )
寺伝では天平11年行基の開基といい、行基自作の薬師如来を本尊とする。
当山真図−虚空蔵院(与田寺、江戸期)図に向かって右上中腹に三重塔があったようです。
讃岐泉聖天尊本廟
  多宝塔1

  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
昭和31年(1956) 建立。軸部は鉄筋コンクリート製で、一応細部は木造と思われます。
一辺約1.8m、高さはコンクリート製の基壇を含め約10m内外。内部には泉聖天尊、大日、阿弥陀、釈迦如来 弘法大師像を安置するようです。
地元に生まれた(文久2年)泉庄太郎が大阪で事業(桶屋業)を営むかたわら、生駒聖天を篤信し、40歳頃帰郷し、聖天尊の信仰を説き信仰を広めたという。大正7年病没したが、弟子たちによりこの地(雨滝山 中腹の泉山山頂)に本廟が建立され祭祀されたとする。
讃岐石井廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
心礎は200×115×53cmで、径68×13cmの穴を持つ。心礎は現在位置の北西位置で出土したとされ、現在位置は後世のなにがしの小宇のあった場所と思われます。
「日本の木造塔跡」:心礎は2.2×1.2mで、径67×14/12cmの穴を彫る。その他の伽藍は不明。出土瓦から白鳳前期の創建とされる。
讃岐志度寺五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同      本堂
1975年建立、一辺4.36m、総高33m、木造総檜製。本尊は胎蔵界大日如来。備後明王院をモデルとしたようです。そのため復古調の本格塔婆です。
棟梁は摂津鏑射寺三重塔の造作で急遽棟梁を務めた人見立一氏という。摂津鏑射寺三重塔の項を参照。
四国88ヶ所第86番札所。本堂(寛文10年1670、重文)、仁王門(寛文10年1670、重文)、木造十一面観音菩薩立像(重文)、絹本着色十一面観音像(重文)、絹本着色志度寺縁起絵図(重文)などの什宝を有する。
讃岐石清尾八幡宮 詳しくは「讃岐石清尾八幡宮」のページを参照ください。
2003/12/28 (町廃寺)
備後伝吉田寺心礎1
  同        2
  同        3
金竜寺(浄土宗知恩院末)境内にある。伝吉田寺の心礎と云う。心礎は明治期に発見されたと云う。
吉田寺は白鳳期の創建で、現金竜寺の前面が伽藍地であったとされる。後には天台の大寺であったと伝える。
「日本の木造塔跡」:心礎は1.35×1mで、中央に径12×9cmの孔を穿つ。昭和42年の発掘調査で観世音寺式の伽藍配置が確認された。 塔基壇と想定される1段の石列を出土。一辺は14.5m。
備後吉備津神社三重塔跡 詳しくは「備後吉備津神社」のページを参照ください。
備後慶徳寺心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
艮神社境内にある金刀比羅宮の石碑の台石(心礎は石碑の裏面にある)になっている。
心礎はおよそ(計測)70×115×40cm位の大きさで、径60cm高さおよそ1cmの造出しを彫り出しその中央におよそ20×3.5cmの孔を穿つ。心礎は小さいものですが、その形状は明らかに土師寺式の心礎と思われます。
現地の説明板によると、艮神社境内地の小字は慶徳寺といい、「いにしへ大寺なりし由、このあたりの地名に呼べり」(西備名氏)とあるようです。(この一文が唯一慶徳寺を確認できる文献のようです。)
出土瓦などから、奈良後期の創建とされるようですが、未発掘のため伽藍配置などは不明とする。なお台石及び境内地にはいくつか礎石と推定される石が散在する。
備後福性院二重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
江戸期末の建立とされる。平成に大修理。「瑜祇塔」と称するようで本尊は大日如来のようです。
但し残念ながら、柱間は1間で正規の塔建築ではなく、組物も出組を使用しています。
貞観9年、行教和上が宇佐八幡宮に参籠の途中、郷里に立寄り、宇佐八幡を勧請して一宇を建立、能面山霊光寺を開基したとされる。室町末期、法輪山福田寺と改称。慶長3年、天災により一山鳥有に帰したが、同16年快真僧正が再建したという。
備後宮の前廃寺塔跡1
  同          2
  同          3
  同          4
  同       心礎5
  同          6
  同          7
  同   発掘時基壇
  同   塔跡礎石図
  同      金堂跡
(史蹟)生土八幡宮境内が寺域で、「備陽六郡志」(江戸後期)では「往古、海蔵寺 といふ寺有。当村の生土八幡は海蔵寺の鎮守なりしとぞ、即海蔵寺の廃跡、八幡の境内にありて、礎、今に残れり」とあるようです。発掘調査で西に塔、東に金堂跡を検出。
塔基壇は一辺12.6m・高さ約1mで塼積基壇であった。塼は30cm×30cm×11cm位。 基壇の残存状況は良かったようです。現在は古の基壇の前面に古の遺構を囲む形で、新しく基壇が見学用に整備されています。
金堂基壇は25.3m×15.5m。礎石などは未発掘のため明確でないようですが、小規模伽藍とされる。白鳳−平安初の瓦を出土。
2003/12/27 土佐竹林寺五重塔・三重塔跡 詳しくは土佐竹林寺三重塔跡・五重塔のページを参照下さい。
土佐安楽寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同    塔本尊
昭和49年建立。軸部は鉄筋コンクリート製(但し組物などは正規の木造の造作のようです)。
一辺は3.9mで、基壇は何かの収納の用途があるようで、極めて高い。
屋根は銅板葺、上層は二手先を用いる。中央間のみ蟇股。塔本尊は弥勒菩薩。
軸部は鉄筋コンクリート製とは云いながら、基壇を除けば、伝統工法に忠実な建築と思われます。
安楽寺は、土佐配流中の高視朝臣(菅原道真長子)によって、道真没後、筑紫菩提寺に因んで創建されたと伝える。また現在は四国88ヶ所第30番札所の奥の院とされる。元来第30番は土佐一宮の別当百々山善楽寺であったが、明治の神仏分離で善楽寺は廃寺となり、本尊阿弥陀如来を安楽寺に遷座し、安楽寺が第30番札所となった。一方善楽寺は昭和4年元の地に東明院(埼玉県与野市)を移し、国分寺に遷座していた大師像を迎え入れ再興されたという。第30番札所について正当性の争いがあったが、昭和39年安楽寺を奥の院にすることで決着したようです。
土佐国分寺
  庭園所在心礎1

  同        2
  同        3
  同        4
  同      本堂
 
史跡・現在は四国29番札所。土塁と塔心礎を残す。心礎は庭石に転用され、立てて置かれている。
「日本の木造塔跡」:1.2×1.04m×70cmの大きさで、径70×6cmの円穴を彫り、その中央に径20×6cmの孔を穿つ。 この心礎は現国分寺庭園にあるが、土佐国分寺塔心礎であるには大いに疑問がある。この心礎形式はおそらく白鳳期のもので、そうだとするとこの心礎は国分寺の塔心礎ではない。庭園の造作時に付近から持ち込まれたもの であろうとする。あるいは国分寺心礎であるならば、それは白鳳期創建寺院が国分寺に転用されたものの可能性が考えられる。
本堂(5間×6間、単層四注造り、杮葺き)は永禄元年( 1558)長宗我部元親の再興で重文。
仏像としては、2体の木造薬師如来立像(平安期後期・鎌倉期末期の2体・ともに重文)を残す。
土佐比江廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同  伽藍想定図
史跡。塔跡の発掘調査により、塔基壇は一辺38尺で、栗石乱積基壇と判明。
心礎は3.4m×2.21m(砂岩)で、径81cmの円孔、および径15cmの孔を穿つ重孔式。
「日本の木造塔跡」:2.8×1.82mの大きさで、径81×13cmの円穴があり、その中央に径15×9cmの孔を穿つ。法隆寺式伽藍配置の図が現地にあるが、伽藍配置が確認されている訳では無いようです。出土瓦・心礎の形式などから白鳳期の創建とされる。
讃岐弘安寺心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
  同    礎石1
  同    礎石2
薬師堂(満濃町役場近くにある・本尊薬師如来)に心礎を残す。2.05×1.55m、上を削平し、径55×11cmの孔を穿つ。手洗鉢として転用され、原位置ではないとされる。本堂の縁下に礎石が8個残り、金堂跡と云う。 出土瓦から創建は白鳳とされる。
境内は、一町以上と推定され、大門、念仏寺、道場池などの地名を残す。その後、讃岐24官寺の一つとして繁栄したが天正年中に焼失、その後に和気氏が再建した。
「新編香川叢書 考古篇」:木村集落中に薬師堂があり、堂の敷地は方1町あり、その北西に13×22×1mの土壇がある。径1m前後の礎石11個があり、小堂が建てられている。小堂の前に心礎がある。2.4×1.7×1.2mの花崗岩製とされる。

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