過去の訪問塔婆・ご提供画像(2002/11/14〜 2002/01/初 )

過去の訪問塔婆履歴

2003/01/初
「X」氏からご提供頂きました。
武蔵勝呂廃寺塔跡 埼玉県坂戸市:昭和54−58年の発掘調査において、基壇状の遺構(主要伽藍ではない)、大構、堀立柱建物跡、多量の軒丸瓦などを発掘。ただし全容は必ずしも明らかではないようです。
心礎は勝呂小学校の校門脇に保存されているようです。写真で見る限り、残念ながら上面はひどく破壊されているようです。これ以外の詳しい情報は持ち合わせてはいません。
下総光明寺多宝塔1
  同        2
船橋市飯山満:平成4年建立、標準的な多宝塔のようです。木造黒褐色彩色銅板葺き。高さ約14m。
寺暦は不詳。
下総国分寺塔跡1
  同       2
  同       3
  同       4
法隆寺式伽藍配置とされる。発掘調査で、現在の本堂下に金堂跡(基壇:31.5m×19m)を、その基壇の中心から北西40m地点で講堂跡(基壇:26m、南北18m)を、金堂基壇の中心西39m地点で塔跡(基壇:一辺18m)を確認。なお塔・金堂・講堂の方位はそれぞれ異なるようです。
庫裏の裏手に塔跡を示す石柱がたっているようです。塔礎石は南大門(復元)内、すぐ左手の植え込みの中に4個保存されているようです。保存礎石に心礎が有るかどうかは諸説があるようです。
金堂の礎石3個は現本堂前に、講堂礎石4個は裏手の墓地の左奥に保存されているようです。なお発掘時は55個の礎石が発見されたという。現国分寺(真言宗豊山派)は近世に再興されたようです。
池上本門寺五重塔 解体修理は終わったとのことです。
東京正覚院多宝塔1
  同        2
練馬区:鉄筋コンクリート製ですが、木造に似せて精巧に造っているようです。
一辺約5m弱、高さ約15m強、平成12年完工、本尊大日如来。本瓦葺き。寺暦不詳
東京雲竜寺五重塔1
  同        2
  同   達磨大師
八王子:非常に風変わりな寺院?であるようです。雑多なゲテモノが境内を埋めているようです。
普通の感覚ではとても正気の沙汰ではないようですが、経営者?は正気なのでしょう。
五重塔は妙な基壇の上に建つようです。本格的な塔婆とは程遠いようです。因みに主構造は鉄板で、細部はプラスチックで出来ているようです。昭和52年完成、一辺約2m高さ約40mのようです。
初重に何とも趣味の悪い(当寺ではこの程度は真っ当なようです)達磨大師が安置されているようです。
東京三寶寺多宝塔1
  同        2
練馬区:三寶寺は応永元年(1394)幸尊の建立とする。道場寺が隣接するとのことです。
初層に胎蔵界、上層に金剛界大日如来を安置する故に、根本大塔と称するようですが、建築形式は大塔ではなくて、多宝塔のようです。
平成8年完成。総欅銅板葺きの本格的塔婆のようです。高さ約18m。
東京応善寺三重塔 国立市:鉄筋コンクリートの本堂の屋上に建つ。おそらく木造で標準的な塔婆と思われます。
昭和55年建立。寺暦不詳
(建築中)
東京清林寺三重塔1
  同        2
文京区:建築中の塔婆は棟梁西岡常一師の指導で、飛鳥様式の塔婆のようです。
清林寺は浄土宗のようです。その他の寺暦は不詳。
現状は「工事中の三重塔は覆っているシートの隙間から覗き見られる程度ですが、本格的な木造塔婆です。組物をみると、雲肘木のようです」とのことです。
東京本光寺三重塔1
  同        2
2003/3/26訪問。記事は2003/3/26の訪問履歴に移行。
東京本光寺宝塔1
  同       2
同上。
唐招提寺塔心礎 「X」氏情報:この心礎は椿山荘のプールに残存する云う。残念ながら既にないようです。
受付の人の談「かなり前にプールを壊した際に移動しようとしたところ、礎石も壊れてしまった。もともと火災によって石が脆くなっていたところにプールで使用した際に穴を穿って水飲みかなにかに加工した」心礎の所在について唐招提寺の方からの問い合わせもあったようです。
2002/12/30 備中惣爪塔跡1
  同     2
  同     3
  同     4
  同     5
  同     6
全くの平野部の田中の畦に、古くから知られている、塔心礎がポツンと残されている。
周囲は全く水田として耕作され、そのためにおそらく寺域は削平されているようで、心礎の位置が塔の基壇に相当するかどうかを含め、詳しいことは全く分からないようです。
心礎は長径2.48m、短径1.64mの花崗岩に径70cm、深さ17cmの孔が穿孔され、さらにその底に径15cm、深さ8cmの孔の穿孔がある。瓦は奈良期のものとされるものが出土するようです。
備中吉備津神社塔跡 詳しくは備中吉備津神社のページを参照ください。
2002/12/29 備中秦廃寺1
  同    2
  同    3
  同    4
  同    5
  同    6
  同    7
現在、原位置とされる心礎及び礎石(1個?)を残す。
心礎はかなり精巧で美しいものです。大きさは2,2m×1.7m×約30cmで、上部に一辺1.25m、高さ約4〜5cmの方形の造り出しを彫り出し、その中央に径48cm深さ32cmの孔を穿つ。
寺域、配置等はかならずしも明確ではない様ですが、寺域は、東西一町、南北一町または一町半と想定されているようです。配置については、かつては柱根を出土した付近が南門、その北東に塔、その西側に金堂、北側に講堂が存在したものと推測されています。(昭和38年頃、直径65cm、残存長1,2mの、加工痕のある高野槙の柱根が発見され、 吉備路郷土館に展示されているようです。)
出土軒瓦は、岡山県内で最古の飛鳥様式の単弁八弁蓮華文軒丸瓦、および、吉備式と呼ばれる瓦の2種類が出土するようです。
(参考)
備中岡田廃寺1
  同     2
  同     3
金剛寺跡(字名)とも云う。平野を見下ろす谷筋の丘陵に一つの基壇があり、その上に荒神社の小祠の台石(礎石の転用と思われる)や現位置と考えられる円形造り出し(径60cm強)を持つ礎石が点在する。吉備寺で出土する瓦と類似した蓮華文の軒先丸瓦が発見され、白鳳期創建とされる。
この基壇が何かは分からないようですが、伽藍に塔が存在したことは十分想定できると思われます。
備中安養寺塔跡1
  同      2
  同      3
  同      4
  同      5
  同      6
  同      7
本堂西側の壇(宝塔北側)に保存状況の良好な塔跡及び塔礎石を16個を残す。心礎と四天柱礎3個・脇柱礎12個で、西南の四天柱礎1個は欠けているようです。(落葉の積まれている場所の礎石が失われているようです。)古代の塔跡ではありませんので、当然ながら礎石は小さいものです。
心礎は90×70cm(概数)の大きさで、その他の礎石の大きさも概ね同程度です。礎石は一見上辺を削平しただけの自然石に見えますが、心礎・東側四天柱礎2個および北東隅礎石は明らかに柱座の跡を留めています。おそらく退転した古い堂宇の柱座のあった礎石を、理由は分かりませんが、多少削平して転用したものと思われます。礎石上で柱間間(心−心)はおよそ1.8〜2.1mのようです。
従って塔の一辺は約5.6m位とおもわれます。なお礎石および基壇の状況から縁はなかったようです。また塔跡から瓦が出土するようで、塔は瓦葺きであったと推定される。
塔の興亡ははっきりしませんが、文献上では以下の2文献が知られているようです。
東福開山聖一国師年譜:弘長2年(1262)「師61歳・・・師赴備中慶朝原塔」
(朝原山安養寺と号する。朝原寺が一山名称で安養寺は朝原山の主要院坊であったようです。)
手鑑調法記(文化11年<1814>朝原村宇野勘治郎著):「九重塔三間四面、西塔之壇ニ有之」
以上により、弘長2年に建立され、九重塔であった可能性がありますが、九重とすると、基壇の大きさから見て簷塔(えんとう)の可能性があるようです。ただしこの記事と聖一国師年譜の記事の塔が同一かどうかは分かりません。
その後塔の退転についての明らかな資料は寡聞にして未だ知りません。
備中安養寺宝塔1
  同      2
  同      3
今手元に安養寺経塚から出土した土製宝塔(重文)の写真があります。この出土宝塔をモデルにあるいは出土宝塔にちなんで建立されたような気がします。
建築年代はおそらく昭和末期と思われます。コンクリート製の巨大な(素っ気ない)宝塔です。身の部分は柿色に彩色されています。裏山経塚から出土した経瓦(重文)をおそらく奉安するのと信者の写経を収納するために建立されたようです。
朝原山と号し、安養寺は朝原寺の主要院坊であったようです。かっては8間四面の大堂や九重塔(塔跡ほぼ完存)を有したが、近世は毘沙門堂が信仰の中心であったようです。以前には本堂に毘沙門天が犇いていた光景を思い出します。近年は流行仏ならんとして(のような気がします)、いかにも流行仏らしい雰囲気の宝塔や諸堂宇が建立され、一昔前の破れ寺の雰囲気は無くなっています。
かっては108体を数えた云う毘沙門天は再興を重なながら現在も40数体の残されているようです。伝来仏像の内兜跋毘沙門と吉祥天像は重文指定。また裏山経塚の出土品は多くが重文指定されています。
備中宝福寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
再訪
備中吉備寺回廊
  同   心礎1
  同      2
  同      3
  同      4
  同      5
  同   礎石
吉備寺は江戸期には真蔵寺とよばれていたが、元禄の頃、岡田藩主伊東長貞が墳墓をあばき、吉備真備の真廟(長身伝承による)と決定し、真蔵寺に縁起・除地を与え、吉備寺と改称したとされる。
心礎および礎石(円形柱座を持つ)は寺の庭石として転用され、もともとは近くにあったであろう吉備氏の氏寺(吉備寺あるいは箭田寺)のものと推測されている。近くで白鳳期の瓦が出土すると云う。
心礎は1.36m×1,18mで上部は平に削平され、中央に径27cm深さ10cmの孔を穿つ。
回廊:庫裏と本堂?とを繋ぐ廊下の奥が庭で心礎・礎石が庭石に転用されている。
礎石:庫裏玄関左前にも礎石(長方形の孔は後世の加工であろう)が放置されている。
参考)吉備寺の門前の南丘の尾根上に箭田神社があり、その境内に鐘楼が残っています。
(ただし沿革を全く掌握していませんので、新しい神社の可能性はあります。)
箭田神社鐘楼
備中八高廃寺塔基壇
  同    心礎1
  同       2
  同       3
  同  西方基壇?
弥高山の北側の山裾に、つまり南面する伽藍を建立するには不自然と思われる地に、心礎はある。
畑もしくはブッシュの中に基壇らきしものがあり、心礎のみポツンとある。
189cm×141cm×90cmの大きさで、中央をやや外れたと思われる位置に径24cm深さ15.3cmの孔を穿つ。現状、基壇には砂利様の石が積まれているが、これは不自然であろう。また塔基壇西側付近に堂基壇と思われる高まりがある。明治期には数個の礎石が残存したとの伝承もあるが、伽藍配置は不明。出土瓦から白鳳期の創建で奈良期まで続いたとされる。また安永9年(1780)の八高寺の記載がある文書が残っているとのことです。
備後国分寺配置図
  同     塔跡
  同    金堂跡
  同 南門跡・礎石
  同   仁王門
  同   現伽藍
発掘調査で現国分寺の参道をほぼ中心線にして、南門、塔、金堂、講堂跡の各1部が検出され、法起寺式伽藍配置が想定されているようです。延宝元年(1673)の大洪水(背後の池の決壊)で、遺跡の残存状況は良くないようです。参道には礎石とおもわれるものが散見されますが、特に見るべき遺構はありません。
塔跡についても、位置の表示があるのみで、土壇・礎石など何も無いようです。
備後小池廃寺遠望
  同 塔跡(東から)
  同    (北から)
  同     塔跡1
  同     塔跡2
備後国分寺西方数百mにある。小池池北東に八幡社(小祠)があり、この西が塔跡という。現状では塔位置の表示があるのみで、埋め戻され、その上は畑として耕作され、見るべきものは何もありません。
発掘調査により、寺域は東西約1町で、塔跡とその東西に建物跡を検出したと云う。塔跡トレンチで心礎・四天柱礎・北脇柱礎石2個を発掘。基壇の一辺は13.2m。心礎は2,1m×1.7mの花崗岩製で、中央に小孔を穿つ。西方建物跡は東西32,4m、南北14.4mの基壇で礎石を検出したという。八幡宮のある場所の東方建物は西方建物より一回り小さいものとされる。池底および周辺から礎石・瓦が古くから出土し、出土瓦から白鳳期から平安期まで存続したと推定されている。
2002/12/28 伊予来住廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同     礎石1
  同        2
  同     遺構図
  同     塔土壇

昭和52年および53年の発掘調査で講堂<基壇:東西28.8m×南北18m>、塔、僧房、廻廊跡などを検出し、7世紀中葉以降に創建された法隆寺式伽藍と判明。
塔跡が現存し、土壇は一辺9.75m・高さ1.5mとされる。心礎を含め9個の礎石(四天柱礎2・側柱礎4)が残存する。心礎は一辺約1.6mの方形で、珍しい形状を持つ。心礎は楔で2つに割り、それぞれの側面に半円筒の孔を彫り、それを再度会わせた形式を採る。径は40数cm、深さ50数cm。さらに孔の周辺に径約80cmの柱座の造りだしがある。さらに割れ目に直角に2本の溝を穿つ。これはおそらく何かで縛るなどして当面2片を結合するためのものと推測される。塔の一辺は5.82m。
新たに昭和62年から行われている史跡周辺地域での発掘調査で一町四方規模の回廊状遺構で区画された建築群の存在が発見され、来住廃寺の創建に先行する大規模な遺構群が存在していたことが明らかとなってきているようです。講堂跡に建っていた長隆寺は現地の南方に移転し、塔跡周辺はほぼ更地となり、発掘調査が継続されているようです。
興福山長隆寺:行基の開基と云い、天和3年(1683)、中国の僧獨湛(黄檗宗万福寺第四世)が伊予へ来たとき長隆寺を黄檗宗の寺として中興したものとされる。

伊予石手寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同     本堂1
  同        2
  同        3
  同     楼門1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
鎌倉後期文保年間(1317-8)の再建。一辺4.9m、高さ約24m。数少ない鎌倉期の貴重な遺構です。当然ながら和様の落ち着いた三重塔です。
当寺は四国51番札所。寺伝では神亀5年(728)聖武天皇の勅願により、伊予大守・越智玉純が鎮護国家の道場として伽藍を建立し安養寺と号したという。その後弘仁4年( 813)弘法大師が真言宗に改めたと伝える。天長8年焼山寺山中で亡くなった衛門三郎の縁起によって石手寺と改めた。
平安−室町期には66坊を有したが、永録9年長宗我部氏の兵火のために12間四面重層の金堂を初め堂宇の大半を焼失したとされる。しかしながら今なお多くの古建築を有する。伽藍は南面し、回廊を進むと、正面に楼門(二王門、国宝、鎌倉期文保2年<1318>、正面3間・重層入母屋造り本瓦葺き)がある。楼門の正面に本堂(鎌倉・重文)、左に三重塔・鐘楼(南北朝・重文)・護摩堂(南北朝・重文)がある。また境内東側奥には訶梨帝母天堂(鎌倉・重文)もある。

参考:楼門前横の塔頭と思われる院坊の中に子安地蔵堂がある。
簡略な建築ですが、方形初層に六角形の上層を載せ、相輪を上げた二層堂がある。
子安地蔵堂

備前蓮昌寺 「備前連昌寺」のページを参照ください。
2002/12/27 伊予法安寺塔跡1
  同       2
  同       3
  同       4
  同    伽藍図
出土瓦から飛鳥期に創建された寺院跡とされ、四天王寺式伽藍配置とされる。現在は金堂跡及び塔跡に礎石が残存する。塔跡には礎石16個を残す。全て自然石を使用し、中には十文字の掘り込みがある礎石もある。中心にも礎石が置かれているが、その大きさ(80cm×50cm)や心礎としての加工もなく、心礎ではないとされる。塔基壇は一辺11.9M、高さ0.6Mと推定。
塔の北28mのところにある金堂跡には薬師堂下などに合計十数個の礎石が残っている。中門跡は塔跡の南に位置し、天正4年頃には巨大礎石が8個あったと云う。(現在は遺失)。講堂跡にも大正4年までは巨大礎石2個があったと云う。鐘楼跡と推定される場所にも大正4年まで巨大礎石7〜8個あったとされる。また回廊跡と思われる土手にも以前は礎石があったが石橋に転用したと伝える。
伊予興隆寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同      本堂1
  同         2
  同         3
天保3年(1832)建立−相輪露盤刻銘。文化年間光憧上人の発願で、次代の自性上人代に完成したと云う。初重・ニ重は二重繁垂木、三重は二重扇垂木を用いる。本尊は大日如来。
塔は急な階段を上がった斜面の造成地に建ち、北面し、南面する本堂と対する。木立も多く造成面も狭く、北の階段下からの撮影余地しかなく常に逆光で撮影しにくい塔婆の一つです。
西山と通称するようです。空鉢上人開基で、報恩大師との関係も伝承されるようです。桓武天皇の勅命で伽藍造立・三重塔創建、さらに源頼朝が伽藍再興とも云う。
本堂(南北朝期・重文)などの伽藍を有する。
伊予国分尼寺塔跡1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
水田中に塔跡と推定される8m×12m土壇があり、花崗岩製の自然石の礎石6個が約2m間隔で残存する。土壇はもともと方12mと推定される。礎石は四天柱礎2と側柱礎4と推定される。出土瓦から白鳳期の建立とされる。国分尼寺建立以前の寺院を国分尼寺に転用したという説もあるようです。
伊予国分寺塔跡1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
  同       7
  同       8
現在は四国59番札所。現寺域の南東300Mに東塔跡があり巨大な礎石が残されている。
塔跡基壇は一辺17.5Mと推定(現状は12m×9mの土壇が現存)。
心礎・四天柱・側柱の礎石12ヶが残存。心礎は一辺約2.5mの三角形で、中央に径1.6Mの柱座を造り、その中央に90Cmの出枘がある。
その他の礎石も1.5m〜2mを測る巨大な花崗岩製礎石で、摩滅しているもの傾いているものなどがあるが、基本的には繰形突起(柱座)をつくり、出枘を造り出した工作がしてあったようです。
2002/12/26 安芸竹林寺三重塔跡 詳細は安芸竹林寺三重塔跡のページを参照ください。
安芸国分寺塔跡1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
心礎・四天柱礎・側柱礎12合計17個の施石全部が完存していて、調査前に移動していた礎石は元の位置に復元されている。心礎は1.9m×1.2mの不整形の石で中央に径41〜39cm深さ13〜11cmの孔を穿孔する。その他礎石は全て自然石です。塔基壇は一辺11m塔は一辺8.8mと云う。昭和7年地元の史談会が聖武御塔と呼ばれた塚(聖武天皇の玉歯を埋葬したという伝承を持つ)を発掘したところ完全な塔跡が発見された。塔跡は現国分寺の西方およそ50M内外の位置にある。なお現国分寺本堂は新築中であり、ほぼ全容を現しています。本格的な伝統工法で再興されていますので、以下参考に掲載します。
本堂1 本堂妻 本堂斗栱 亀腹(漆喰塗布前) 本堂斗栱
2002/12/23 旧白毫寺多宝塔跡1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
焼失塔跡は整備され、中央に相輪のみが再興されました。
相輪は焼け落ちたものを修理したのか、新たに鋳造したのか、あるいはそれらの折衷なのか詳しいことは不明です。
なお相輪再興前には、確かに側柱・四天柱の礎石がきれいに揃っていたのに再興時これを取り払い、恐らく縁の礎石のみしか残されていないような工事は誠に残念なことです。
旧白毫寺多宝塔(井植山荘多宝塔)全容については旧白毫寺多宝塔のページを参照ください。
旧白毫寺多宝塔画像 宝塚市ふじガ丘自治会様から在りし日の多宝塔画像をご提供頂きました。
参考:
攝津満願寺九重石塔
  同      伽藍
  同     仁王門
旧白毫寺多宝塔近くに満願寺があり、ご住職には幾多の焼失多宝塔情報を頂きました。当寺は相当な名刹のようです。詳細は満願寺様ホームページを参照下さい。
九重石塔は鎌倉正応6年(1293)建立で重文。花崗岩製。高さ3m53cm。
仁王門に安置する仁王像(高さ約3m40cm)は元多田院山門安置仏で、明治の神仏分離で多田三山の一院である満願寺に移されたという。
攝津麻耶山天上寺
多宝塔跡
詳しくは「近世の喪失塔」→
「攝津摩耶山天上寺多宝塔跡」のページを参照ください。
攝津徳光院多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
再訪
攝津霊法会多宝塔1
  同        2
遠望写真です。
攝津善導会五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
苦楽園の小高い丘の上の狭い境内地に建つ。昭和63年(1985) 建立。高い切石基壇の上に建ち、モデルは大和室生寺と云う。基本的に木造・彩色ですが、鉄筋補強をしているようです。松井建設社寺建築部の設計施工のようです。
善導会の実態及び教義は不明ですが、如意輪山と号し、日蓮新宗派のようです。会長の北村嘉男が、この地に道場とこの塔婆(本尊如意輪観音)を建立したようです。尤も五重塔は立派ですが、そのほかには取り立てて特筆すべきものはないようです。訪問時は正面の門は閉まり、脇の門も施錠されていて、無人のようで敷地内には入れませんでした。
2002/12/14 備前国分寺塔跡1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同   伽藍配置
両宮山古墳
廃寺跡は両宮山古墳の西方約200mの、北から南の緩かな傾斜地に位置する。田中の高まりの中に七重石塔(鎌倉期、相輪欠、高さ約3m)があり、この台石が「心礎」とされる。ただし現地説明板では台石を心礎とするが、見える部分だけの観察では心礎かどうかは(何かの礎石ではあるとしても)分かりません。なお礎石については「県道の工事で、ほとんどの礎石は、割って道路工事に使った」という伝聞もあります。
発掘調査により、南門・中門・金堂・講堂・僧房が一直線に並び、塔は中門東69Mの位置に建立されたことが確認されている。寺域は東西約180m、南北約220mと推定。
両宮山古墳:墳丘全長約120m、前方部幅約120m、後円部径約100m、高さ約20m、三段構築、くびれ部に造出し、周辺の水を湛えた周溝を持つ。5世紀後半の構築と推定。備前最大のまた吉備第3位(造山古墳・作山古墳に次ぐ)規模を持つ。
備前金山寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同    仁王門
金山寺は金山の山頂近くに位置し、塔婆は本堂背後の長い石段をあがった場所に独立して立つ。
天明8年(1788)建立。一辺5.1M、高さ26.3M。
本堂(桁行5間、梁間6間、入母屋造り、本瓦葺き、桃山、重文)、仁王門、護摩堂、潅堂、客殿等を残すが現在は相当荒れています。当寺は報恩大師開基と伝え、大師備前48ヶ寺の筆頭とされ、天台の大寺として多くの院坊があったようです。松田元成の日蓮宗改宗を拒み、全山焼失。大山寺豪円が再興。現在は本坊(遍照院)のみが維持しているようです。
1999-2002年に解体修復。ほとんどの部材に「番付」を発見。「上重表 西角」「上六」などと取り付ける階や個所、順番が墨書されていた。また二層の軒裏で棟札を発見。これに依ると棟梁は邑久郡宿毛村田淵繁枚(しげかず)であった。田淵家は備前・美作を中心に活躍し、金山寺の後、五流尊瀧院など三基の三重塔を連続して建築した。金山寺三重塔建設当鵜時は、繁枚の先代・勝繁からの代替わり期に当たるようです。なお今回の修復でかなりの部材が新材(古色塗装)と取り替えられたようでかなり目につきます。また内部四天柱・須弥壇装飾も復元されたようです。ただし本尊の安置はまだのようです。
本堂等画像は備前48ヶ寺のページを参照。
2002/12/02
(X氏ご提供画像・2002/11月撮影)
能登永光寺利生塔跡1
  同         2
洞谷山と号し、曹洞宗。正和元年(1312)創建され、紹瑾によって整備されてとする。
利生塔建立は当寺とされ、暦応3年(1340)仏舎利2粒が安置された。南北朝期には僧堂、廊下、山門、土地堂、浴室、衆寮、東司、祖師堂などがあり伝燈院(開山堂)も建立されたと云う。我山派と明峰派の争いもあり、また戦火で荒廃し一時な無住であったようです。現伽藍は明治16年の再建で山門、法堂、庫裏、書院、方丈、浴室、僧堂、東司を配し廊下で結ぶ。利生塔跡は庫裏の右側台上に残存するようです。
加賀末松廃寺塔基壇
  同       塔跡
  同       心礎
  同    塔模型1
  同        2
  同        3

白山に源を発する手取川の、扇状地に位置する。昭和42年(1967)から43年に発掘調査。
1辺13Mの基壇上に、1辺10.8Mの塔建物があったと推定される塔跡と、その西側に東西20M・南北18Mと推定される金堂跡基壇が検出された。講堂跡や門の跡は未確認のようです。
寺域は、東西が80M、南北の規模は不明。これらの建造物群が廃絶したのち、平安後期に再建されたことが、金堂跡基壇の上の石敷きや掘立柱建物群から推定されている。主な出土品には、単弁系蓮華文軒丸瓦を初めとする多量の瓦や銀銭和銅開珎などがある。昭和60年「石川県の文化財」より
心礎は明治21年に大兄八幡宮に奉納されていたが、史蹟整備で原位置に戻されたようです。
2.24m×1.65m、中央に径58cm深さ11cm孔を穿つ。
なお文化会館(フォルテ)常設展示場には、末松廃寺復元模型が展示され、その模型では七重塔として復元されているようです。 

越前清大寺五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
昭和62年(1987)完工。高さ75m。鉄筋コンクリート。エレベータ付き。
当地出身の実業家多田清が功をなした報恩のため、私財を投じて大仏殿とともに建立したと云う。
2002/11/14
(X氏ご提供画像)
駿河正応院多宝塔1
  同        2
  同        3
正応院および塔については全く情報を把握していません。近年建立された塔婆のようです。
伝統的な木造塔で白木の優秀な塔婆のようです。屋根は銅板葺。
今般「X」氏から写真をいただき、初めてその存在を知りました。

過去の訪問塔婆履歴