★大和頭塔:史跡
●史跡頭塔の現況
2016/09/15撮影:
発掘調査は昭和62年(1987)〜平成10年(1998)の9次にわたり実施される。
その結果、頭塔は一辺32mの石積基壇上に建つ7段の階段状石積からなり、基壇を含めた高さは約10mの大きさである。
石積の上に瓦葺屋根が載り、奇数段に石仏が配置されていた。
現状の頭塔内部には一回り小さい頭塔があり、それは当初期のものと判断される。
復原整備は、現状の頭塔を対象とし、基壇と7段の石積は復原し、残存石積と新たに積んだ石積の境界には鉛板を入れて明示し、また抜き取られていた石佛の位置には新石を補充する方法を採った。なを、現在石佛の上に載っている瓦屋根は、本来あったであろう屋根を復原したのではなく、石佛を直射日光や風雨から保護するためのものである。また、頂上にある五輪塔は以前から置かれていたもので、おそらく江戸期のものであろう。
○現地説明板撮影:
○現地撮影:
復原頭塔北面1 復原頭塔北面2 復原頭塔北面3 復原北面石仏1 復原北面石仏2
復原頭塔北東面
復原頭塔東面1 復原頭塔東面2 復原頭塔東面3 復原東面石仏
南面石仏
復原頭塔西面1 復原頭塔西面2 復原西面石仏
復原頭塔北西面1 復原頭塔北西面2 復原頭塔北西面3
◎「史跡 頭塔」史蹟頭塔保存顕彰会リーフレット より
頭塔は方形七段の土塔である。神護景雲元年
(767)に東大寺の実忠が土塔を築いたと古記録にあり、これが頭塔にあたり、その役割は五重塔などと同じように仏舎利を納める仏塔と考えられる。
往時、石仏は1、3、5、7の奇数檀に各11基合計44基配置されたと考えられるが、現在その内28基が確認されている。その内当初から露出していた13基が昭和52年に重文に
指定される。いずれも数少ない奈良後期の石仏として貴重である。
平成12年(2000)に復原整備されるが、その基本方針は北半分は発掘調査の上、復原整備し、南半分は現状保存する、そして一般に広く公開するため、見学施設等を設置するというものであった。
●史跡頭塔の由来
2016/09/23追加:
◎「史跡頭塔発掘調査報告」奈良国立文化財研究所、2001 より
「頭塔」は奈良期の僧・玄坊の首塚であるとする伝説に因んだものであるが、本来は神護景雲元年 (767)
に東大寺の僧・実忠が造立したという「土塔」がその起源であろう。
頭塔とは、簡潔にいえば、土を盛り表面を石で覆い44体の石仏を配した、日本では希有の仏塔といえるであろう。
※「頭塔」は玄ムの首塚であるとの通説は単なる「伝説」であるとし、神護景雲元年 (767)
に東大寺初代別当良弁が弟子の実忠に命じて造らせた「土塔」に当たるとするのが、板橋倫行 (1929)
・福山敏男(1932)が唱えた説で、それ以降通説となる。
つまり「ドトウ」の音が変化し「ズトウ」と呼ばれるようになったのであろういうことである。
板橋・福山両氏の史料的根拠は次の3つであった。
1)「東大寺要録」巻七、「東大寺権別当実忠二十九箇条事」の 「奉造立塔一基く在 新薬師寺 西野。 以去景雲元年所造進也。〉」
2)「東大寺要録」巻六、「新薬師寺…実忠和尚西野建石塔。 為東大寺別院 」。
3)「東大寺別当次第」大僧都良恵の項、「神護景雲元年、実忠和尚依僧正命、御寺朱雀之末、 作土塔。」
1)の塔、2)の石塔、3)の土塔は同じものであり、所在は新薬師寺の西野あるいは「御寺朱雀之末(東大寺の正南)」であるからまさしく頭塔のことであり、それは僧実忠の造立であると。
その土塔が「頭塔」の名で流布したのは、大江親通(?-1151) が平安末期の嘉承元年 (1106)と保延6年 (1140)
に南都を巡礼した「七大寺巡礼私記」に「土塔」を僧玄坊の首塚であり、そこには「十三重大墓」が有ると記したのが始まりであり、それ以降特に近世ではこの説が流布することとなる。
玄坊は唐へ留学し、帰国後吉備真備とともに橘諸兄政権の中枢として活躍したが、政敵である藤原広嗣の反乱の平定後、筑紫観世音寺に左遷される。その玄坊が広嗣の怨霊に呪い殺され、五体ぱらぱらになって、都の5ヶ所に落ち、その首を埋めたのが「頭塔」であるという。この伝承(「元亨釈書」「扶桑略記」「源平盛衰記」「平家物語」などが記す)は大江親通以降、江戸期まで語り継がれ、信じられてきた。
※「七大寺巡礼私記」大江親通、保延6年(1140)の「興福寺菩提院」の条には、
「菩提院玄坊僧正所住旧跡也。・・・興福寺巽方去五町余荒野中、有十三重大墓。
以僧正之頭理此墓、故号頭塔。其墓石多彫刻仏菩薩像者也。・・・其後天平十八年五月廿三日、僧正為大宰少弐藤原広継之霊、被雷撃之剋、身体散五箇処、以首落地為墳廟。仍号墓云頭塔。」
※以上に見るように、平安末期には、「頭塔」は東大寺の経営を離れ、興福寺(就中興福寺寺中菩提院)の支配に入ったことが知れる。
発掘調査の成果:
現在見ることのできる上層土塔の下には下層3層の土塔が存在し、その土塔を毀す形で、現在の5層の土塔が造立されたことが判明する。
この下層土壇と上層下段との関係(造立時期、造立理由、形式など)については、論点が多いので割愛する。
上層土壇の頂上部施設の変遷:
第199・277次調査で頂上にある五輪塔の下を調査し、その結果、頂上部施設の変遷は次のように推定出来る成果が得られる。
1)上層土塔創建時:現頂上下2.12mを上面とする礎石(心礎)を据え、心柱を立て、頂上には小仏堂が建立される。
2)奈良時代末〜 8世紀末:心柱・小仏堂が落雷を受けて焼ける。心柱を抜き取り、銭銭 ・琥珀玉を投入し、祭祀を行った後に埋め戻す。
3)9世紀初頭:埋め戻した穴の最上部に銭貨を埋納し 鎖壇を行ってから、凝灰岩製十三重塔を建立する。
4)石塔が崩壊し、 鎮壇具は盗掘を受ける。
5)江戸期:石塔の台石片を寄せ集め基礎とした上に五輪塔を建立。この五輪塔は現在まで存続する。
心柱礎石:
心柱抜取痕跡内を掘り下げた結果、予想外の礎石が現れる。
※心礎の写真、法量などは下↓に項を改めて掲載
中世及び近世の頭塔:
中世頭塔は興福寺大乗院領となり、18世紀初頭では 興福寺賢聖院の管理下にあったことが知られる。
享保15年(1730)賢聖院から日蓮宗常徳寺に譲渡され、常徳寺末頭塔寺となり明治に至る。
◇頭塔北面発掘調査:
頭塔発掘調査全景北西 頭塔発掘調査全景北東
◇先学の頭塔復元案
頭塔復元案・石田茂作:石田茂作案、発掘調査前に発表されたもので、五重で、相輪を建てる。
頭塔復元案・奈文研/杉山信三:奈文研A案は各段(7段)に瓦葺屋根を架け、相輪を建てる。B案は各段(4段)に瓦葺屋根を架け、
頂上に木造塔身と相輪を建てる案である。杉山信三案は仏塔ではなく、戒壇としての復原案である。
これ以外にもある種奇抜な復元案も数点ある。
◇発掘調査の成果とその検討結果による復元案
発掘調査による頭塔復元案:五重目は相輪だけではなく、五重目塔身と相輪で復元する案もあるが、
発掘では五重目塔身の存在を裏付ける遺構などの出土はなく、無理であろう。
頭塔復元整備竣工状況;実際の工事は全ての瓦葺屋根を復元したのではなく、石仏龕の上のみの瓦屋根復元に留める。
◇頭塔心礎
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心礎は花岡岩製で、大きさは東西長85cm以上、
南北長105cm以上を測る。表面には直径78cm/高き約10cmの柱座を刳り出し、その中央に径22cm/高さ3.5cmの突起をもつ。
なお、柱座の北・西側には不整形な突出部があり、この部分と裏面には自然面を残す。
心柱は柱座中央の突起をわざわざ外して東南側に据えている。
心礎(上面)は現頂上下2.12mに据えられ、しかも現頂上はかなり削平されていることを勘案すれば、紛れもなく、地中式の心礎である。
さらに、柱座上面の高きは、基壇上面から5.7m、地山上面からは7.7mである。
なお、礎石下を断ち割るも、舎利荘厳具などは発見出来ず。
頭塔心礎:左図全体・拡大図
頭塔心礎2 頭塔心礎の下方
頭塔心礎平断面図:上は平面図、下は断面図 |
2016/09/23追加:
◎「頭塔の復原」石田茂作(「歴史考古」二、昭和33年9月 所収、「佛教考古学論攷」四佛塔編、思文閣出版、昭和52年 所収) より
頭塔に関する文献:
5つある。1.は「東大寺別当次第」、2.は「東大寺要録」巻七で何れも上述である。なお、「東大寺要録」巻七の 「奉造立塔一基」は
「奉造土塔一基」の誤写ではないかとする。要するに、この古代の文献は「頭塔」を東大寺僧実忠の造立した「土塔」であると言っている。
3.はこれも上述の「七大寺巡礼私記」、4.は「今昔物語」5.は「大和志料」である。何れも、玄ムの首を埋葬した「頭塔」であるという。要するに「玄ムの頭塔」と称するようになったのは中世・近世のことである。実忠所造の土塔が後世「頭塔」に転化したのであろう。
遺蹟の現状:
南の門を入って、路地を進むと石階があり、階を上り詰めると小平地があり、そこに7基の五輪塔と3基の櫛形碑、1基の卵塔、自然石碑、背向五輪、やや離れて1基の方柱碑が南面して建つ。この石碑類の詳細は日蓮宗頭塔寺(廃寺)の項を参照願う。
頭塔遺跡は破壊されている所も多くあり、高さは約30尺ほどで急斜面の墳丘をなす。その周は13基の石仏が半ば埋もれてある。墳丘は大木に覆われる。
頭塔山実測図
実測図を参考に考えると、まず墳丘は円形ではなく、方形と考えられる。次いで、方形の墳丘は恐らく最下層で1辺80尺で、最上層は1辺20尺の方錐形であったと考えられる。3番目には方錐形ではあるがそれは階段状を為す方錐形である。4番目には各段には石積と石敷が見られることである。5番目は石仏が存在することである。
以上を踏まえれば、頭塔は「土塔」という古い名称の示す如く、木造ではなく、土製の仏塔であったことは間違いないであろう。
最上層には仏塔である以上、五層である九輪があってしかるべきと思われ、それも「土塔」に相応しく青銅製ではなく、石製の相輪であったと推測したのである。ちょうど、大和山村廃寺で発見された石製相輪のようなものと思ったのである。
頭塔復原案:石田茂作氏案
2016/09/23作成:2016/09/30更新:ホームページ、日本の塔婆
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