大津波の被害

私の家が面している太平洋の海岸に於いて、

1. 大津波は地震の後、何分後に海岸線に達したか?  

およそ50分から60分後

2. 海岸線における津波の高さは何メートルであったか?


およそ8メートル(北上川と牡鹿半島の間の太平洋海岸線)
およそ10メートル(北上川から仙台方面の間の太平洋海岸線)

参考1.の6.    参考2.


図 1. 津波で残った自宅2階から太平洋海岸(500メートル先)方向を見る。
家々の解体が進み更地が広がっている。 写真奥

自宅は入り江の海岸線から 150メートル、
太平洋に面した海岸線からおよそ 500メートル の所にあります。
(国土地理院25000分の1の地図による)

木造2階建ての家本体は残っていた。 一階の天井2か所に大きな穴が開いていた。
お風呂(ユニットバス) と トイレ は太平洋岸方向から流れてきた
ガレキの衝突により流失。 上下水道管、ガス管はそこで破断。
台所で273センチメートル浸水。 道路側室内では、285センチメートル浸水。
(浸水痕跡があるので物差しで測った地面からの高さです。)
つまり、一階天井下まで浸水、2階は無事。
家の道路反対側敷地内は、流れてきたガレキが一階屋根下の高さまで集積し
まるでダムのような状態。 よく家が壊れなかったものだ!
敷地内には、漁船(とは言っても、エンジン付きの(海苔や牡蠣の作業用の)
小型のボート)が三艘流れ着き、そのうち1艘は瓦礫の上に乗り上げていた。


前の家の向かって左側の庇のすぐ下(と細い電話用電信柱の間)に見えるのは
太平洋に突き出た防波堤の一部です。 海に近いことは知っていたが、
海がこんなに近いとは!  
昼間なのに静かです。 車は時々通るが、人が歩いていない。 
特に、夜間はこれまで経験したことのない静けさです。 

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私の町内では 少なくても19名、およそ13人に1人が亡くなった。
私の町内の人口は252人から157人に大幅に(38%)減少した。


宮城県警12月現在の行方不明者の調べ)

(行く不方明者の名前と町名の記載はあるが、町名の調査分類が不十分なため
町名ごとの行方不明者数を正しく知ることができない。)

(石巻市の住民基本台帳による字丁別人口)
(石巻市の住民基本台帳による行政区別人口 平成23年2月と12月の統計情報)


町内、隣接する町内で何名が亡くなり、何名が行方不明であるか公表されていない。
石巻市に問い合わせても個人情報の保護を理由に答えない。 
数人が亡くなった町内では、個人が特定されるからとのことだ。


市民が自分の町内、隣接する町内の犠牲者数を知ることは
復興計画を考える上でも必要なことなので、

個人情報を保護しつつ公開するように運動している。

石巻市の産業復興課、基盤整備課、市民課などを廻り、要望を話し、お話を訊いて来た。 それによると、

石巻市の戸籍、住民基本台帳、住民票からは津波による死亡者、行く不明者は正確には把握できない。
宮城県と協議している。 個人情報保護しつつ、正確な数字を公表できるように準備中である。
大学等の研究者には参考資料としてとりあえず暫定的な数字を伝えたが、正確な数字ではない。
復興計画説明会で市役所職員が話した一部特定の町名の犠牲者数は、警察発表の数字の可能性が高い。

とのことだった。

以上のように公表を準備中のようなので、もうしばらく様子をみることにした。(2012年3月)

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図2. 私の家の前に建っていた立派な家も解体されてしまった。 
(2012年8月13日)

立ち会う人はいなかった。 あちこちの解体作業を見ていると、
一軒の家は、パワーシャベル一台で、平均、1週間ほどで解体される。





図3. さらに、その向こうにあった家も解体されました。 これで、
私の家の道路沿い右側にある、人の住む家は太平洋の海岸まで一軒もなくなりました。
道路突き当りに見える大きな建物は宮城県の支援を受けた漁業協同組合の冷凍庫(らしい。)
冷凍庫の建物の右側、奥に見える(水平に延びる)黒い構造物は、太平洋に面した防波堤です。
空地の多い田舎町だと思うでしょうが、そうじゃありません。
津波前は家がいっぱいに立ち並んだ住宅地なのです。 流失したり、
次々に解体されたので何もなくなっただけです。



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