隣家の人も外に飛び出した

液状化:電信柱の周りに 1−2 センチメートルほどの隙間ができていた。
電信柱の周り 20−30センチメートル に水が噴出した円状の跡があった。

噴き上げた水は少量らしく、その時点で乾き始めた状態であった。

その他の跡は見なかったが、気付かなかっただけかもしれない。


大津波警報を伝える:

  戸締りのため外に出ると、
隣家のおじいさん(90歳前半)も外に飛び出していた。

  外に飛び出したおじいさんに、
「大津波警報」 が出ていること、
そして、すぐに津波をさけて避難した方がよいと声をかけた。
  それに対して、おじいさんは、

   「これまでにない、強い地震だったね。
しかし、チリ地震津波(1960年)のときでもこの辺りは大丈夫だったので、
(今回の津波も)牡鹿半島  があるので大丈夫ですよね。」

  と、私から当然同意を得られるものであるかのように話す。
私はそれに対して強く否定した。


「大丈夫じゃありません!

チリ地震津波(1960年)の時は、
志津川町(現在の南三陸町)や大船渡(おおふなと)町は大変な被害があった。  
幸い、この付近は、家の近く(50メートル手前)まで浸水しただけで済んだ。 
チリ地震津波は 南米のチリからの津波が(大圏コース)を通って  
北東(正しくは東北東かもしれない)方向から来たので、
牡鹿(おしか)半島 のおかげで、その陰になり津波を遮り、被害が 小さかった。 

  しかし今回はちがう! 

牡鹿半島の先にある金華山(小島の名前)沖の 
「(これまでの地震の)空白域」
 で発生した可能性が高い。 もしも、
空白域 の予想が外れて さらに南側にずれた所で地震が発生したならば、
この付近は津波の直撃状態となる。 大丈夫じゃありません!    
すぐに逃げた方がよいです! 」 

  と、大きな声で訴えた。 

何の返事も無かった。

                    -->  
おじいさんのその後の安否(情報) 


  そのあと、さらにもうひとつ隣の家の
おばあさん(75歳前後)が家から出て来た。 
津波警報を知っていた。
  私は、上と同じ内容をもう一度、訴えた。 
おばあさんは 「そうですか」 と、小さな声で応えただけだった。

                    -->  おばあさんのその後の安否(情報)


自転車で避難を開始する

  家の中に入り、
あらかじめ津波避難のためにに用意していた リュックサックを二つ背負い、
ガスの元栓を閉め、自転車に乗り家を出た。
電気 のブレイカーを下げることは忘れてしまった。

家の中の後片づけは一切行わなかった。

  このように、地震の揺れが収まってから 7−8分後 に家を出発した。


海の様子を見るため海岸に向かう

  津波注意報や津波警報が発表されている時に
海岸に近づくのは危険であることは承知している。

  自宅の150メートル先は海なのだ。
  数キロメートル先から海岸へ近づくわけではない。
 
  岸壁へ50メートルまで近づくと海面が見えた。
 
  入り江の海面は、いつものように 穏やかで 静かだった。
 

上げ潮なのか、引き潮なのか確かめようと、
海面に浮かんでいる海藻を見つめた。

しばらく見つめていたのだが、入り江の方に動いているのか、
外洋の方に流れているのか、動きがなかった。
上げ潮と引き潮の中間の時間帯なのかもしれない。


  いずれにしても、津波はまだ来ていない、
あわてないで避難場所まで(自転車で)走ろう、と心に決めた。


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   4日後我が家にもどり、台所で 273 センチメートル(木造一階の天井の下まで)浸水していることを知った。
もしも、気象庁の予報官が 大津波警報 を出さなければ、
   もしも、手廻し発電機付きトランジスタラジオ が無かったならば、 そして、   
   もしも、避難をしなかったならば
   死んでいたかもしれない。