東日本大震災の始まり
1. 2011年 3月11日 地震の発生から最初の避難場所まで
1. 地震が発生したとき ・・・ 自宅(石巻市内)のパソコンの前にいました。
2. 地震の強さと継続時間
縦揺れが無いかのように感じた。 すぐに横揺れが始まった。
揺れが始まって間もなく停電となり、 パソコンの画面が消えた。
室内を這いながら隣の部屋まで移動した。 しかし、あまりに強い揺れのため室外に出るのは途中であきらめた。
玄関や窓際にたどり着いたとしても、玄関のガラス戸は開かず、ガラスが崩れ落ちてくるのではと心配した。
元の部屋にもう一度這いながら戻り、室内にとどまることにした。
空窓(天窓)の下だったのでガラスの落下を考えて椅子の下に隠れた。
震度は 6 の程度で、7 にはならないと感じた。
前年の7月の終わりに、「起震機付き地震体験バス」で 震度 7 を体験していたから判断できた。
(震度 7 の体験では、腰掛に座り、机にしがみついたまま体を固定するのがやっとで、体の移動は無理だ。
今回の地震では、激しい揺れではあったが、這いながら体を移動させることは可能だった。 だから
震度 7 までにはならず、震度 6 の範囲内にあると頭の中で考えた。)
確かに大きい横揺れではあったが、宮城県沖地震に比較して 縦揺れの
鋭さ がなく、それよりも小さい地震であると感じた。
周期の長い、振幅の大きい横揺れが、長い時間継続した。 地震の継続時間は、感覚的に把握できなかった。
何分間地震が継続したのか現在も思い出すことができない。 (何分間地震は継続したか?)
3. 地震の揺れが収まった後の最初の行動
手近に置いてある 「手廻し発電機付きトランジスタラジオ」 のスイッチを入れた。
最初のNHKのラジオ放送で 「津波警報」 を聴いた。
その警報が終わった直後にさらに 「大津波警報、津波の高さは 6 メートル、20分後到達の予報」 が放送された。
震源地の発表はなかった。
(実際の放送では 「津波の到達予想時刻、・・・、宮城県は午後3時、予想高さは6メートルです。」 だったので、
瞬間的に「20分後」だと私は判断し記憶に残り、「午後3時」の言葉は記憶から消えた。)
4. ラジオの 「大津波警報」 を聴いて考えたこと:
大津波警報が出たのに震源地の発表がなかった。
気象庁は、震源地がわからないのに、どうして 6 メートルの大津波警報 を、
計算で出すことができたのだろうか? 最初に頭に浮かんだのはこの点であった。
一瞬不信に思った。
前年、前々年の津波警報と同じく、この津波警報も 空振り に終わるのではないかと思った。
しかし、これまで何度も津波警報は出ているが、
「6 メートルの高さ」の大津波警報 は 一度も出たことはない。
今回が初めてだ!
気象庁(の予報官)は、何の根拠もなくこのような 大津波警報 を出すはずがないように思えた。
もしも、私がここで避難をしないまま、 津波が家に押し寄せたならば、
これまで何度も行ってきた 私的避難訓練 が無駄になる。 無駄にならないように、
気象庁の予報官を信頼して すぐに避難すべきだ と考えた。 そして、避難行動に移った。
津波が必ず来るとまでは思わなかった。
5. 家の戸締りのため外に出て隣近所の人と会う
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