明神社のお祭り(子供の日)

平成24年5月5日

石巻市渡波(わたのは)の大宮町(おおみやまち) 

伊去波夜和気命神社


読み方は知りません。
町の人は 「みょうじんじゃ」 とよんでいます。

Figure1. 早朝、町内の三浦鮮魚店の窓に貼り紙を見つけた。
例年のポスターとはちがう。 ボランティアの人が作成した若々しいポスターです。

明神社は、太平洋の海岸線からおよそ300メートル(25000分の1の地図による)にある。
明神社の社殿。 明神社は周辺よりも 少しだけ地盤が高い。 下段にこのことがわかる
写真がある。、

甘酒を配っていたボランティアの人のお話によると、200人の人が神社に避難をして助かった、とのことである。

その一方、40人の人が神社に避難をして助かった、と話す人もいる。 
私と同じ応急仮設住宅団地に住む、明神社の宮司さんと同じ苗字で従兄弟(いとこ)という方のお話しだ。 

避難所、町の中、仮設住宅団地で耳にするお話では、この程度の食い違いはよくあることで珍しくない。
いずれ、明神社に避難した人を探し出してお話しを聞いてみたい。


お神輿が町中へ出発するところ




遠く九州、福岡から 青龍太鼓 の演奏 と 歌
365歩のマーチなどすべて明るく、元気な歌を歌ってくださった。

避難所の渡波小学校や仮設住宅の集会所で歌や音楽を演奏する人の曲目は、、
見上げてごらん夜の星を、上を向いて歩こう、ふるさと など静かな曲、それにヒット曲と
一曲元気の出る歌 で構成されるのが定番であった。 演者は被災地での曲目の選択に
苦心しているようだ。 もっと遠慮なく元気な歌を歌っていただいてもよいのにと思っていた。
そして、ついに現れた、
すべて明るく、元気な歌を歌った(私にとって)3月11日以来最初のグループである。
南の国の人は(北の国の人とは)ちがうなーと想いながら見ていた。 これでよかった。




向こう側は、町の人です。



広島の会社の酒粕の甘酒がふるまわれた。
甘酒を配って下さった女の人は神戸から来ました、と話していた。

昨年はこの場所で、
和歌山県の紀三井寺のからのボランティアの方(男の人と女の人)から、
わたあめ と 花の種 をいただいた。 そして、紀三井寺の桜のお話をした。





刃物を無料で研いでくださる タカ さん。 山梨県からボランティアで。

ボランティアの人は大型、小型のバスに乗って団体で訪れることが多い。

単独、あるいは、数人の友達連れのボランティアの人は少ないけれども何度も見かけた

JR渡波駅前や避難所の渡波小学校の校庭で、
刃物研ぎ、自転車のパンク修理などを 

大変ありがたく、感謝しています。



太極拳をしている手前の女の人は町の人だが、その他の人はすべてボランティアの人のようだ。

昨年の5月5日こどもの日のお祭りには、明神社の周りに家が残っていた。 
近くの渡波小学校や渡波保育所に避難生活をしている人が多くいたので、お祭りの人出は多かった。

今年(2012年)は、明神社の周りの家は解体されて多くが更地となっている。 避難所は閉鎖されて、
遠く応急仮設住宅に移り住んでいる。 町内の人出は昨年よりも少なかった。

お祭りに出た人の3分の1から4分の1はボランティアの人であった。




神社境内に土俵があって(手前、ブルーシートで保護)、毎年5月5日のこどもの日には、小学生、中学生、
高校生、一般の大人の部門に分かれて、相撲大会が開かれる。 例年であると渡波町内だけでなくて、

遠く牡鹿半島沿いの小学校からも先生が付き添いで参加がある。 小学生の女の子も出る。

今年(2012年)は、神社の周りにほんの少しの世帯が住んでいるだけなので、相撲大会はなし。
昨年もなかった。
 今年は、土俵のすぐ隣でボランティアの青空整体が行われた。 写真右側で
整体を受けているのはボランティアの人のはず。 ボランティアの人もお疲れでしょうからちょうどよかった。



3日後に同じ場所を写してみた。 土俵の向こうに見える水平に広がる構造物は町内をまもる
堤防です。 距離はおよそ300メートル(25000分の1の地図による)。 その向こうは太平洋。

写真左の
海に向かう道路から右側に広がる町名は、松原町です。 
松原町(人口571人)では、少なくても82人が亡くなった。
つまり、およそ7人に一人の割合で犠牲となった。

写真左の
海に向かう道路から左側に海側に広がる町名は、長浜町です。
長浜町は、元の海水浴場、防波堤の根元の町です。
長浜町(人口416人)では、すくなくても46人が亡くなった。
つまり、およそ9人に一人が犠牲となった。

写真左の海に向かう道路から左側、
海側を除く手前側は明神社を含む大宮町(おおみやまち)です。
大宮町(人口442人)では、少なくても42人が亡くなった。
10人から11人に一人が犠牲となった。

大宮町のすぐ隣で、入り江の万石浦に近い町が幸町(さいわいちょう)です。
幸町(人口252人)では、すくなくても19人が亡くなった。
つまり、12人から13人に一人の割合で犠牲となった。

すべて、(宮城県警察 12月現在の行方不明者の調べ) と
(石巻市の住民基本台帳による字丁別人口 平成23年2月の統計情報)
により調べた。 
字町別ではなくて字丁別で正しい。




兵庫県の方の寄付による新しいお神輿 

私は、この経緯については、何も知らない。 



和歌山県那智勝浦町からのボランティア



私は、色川茶 と イノシシ汁 をいただいた。



明神社は周りの土地よりも高いところにあると言われていた。
自動車が神社側に少し傾いていることからもわかる。 しかし、この程度だ。
地面はせいぜい50センチ高い程度だ。 

たぶん、
1. 大昔、浅い海に浮かぶちちゃな小島だったのかもしれない。

あるいは、
2. 昔の浜堤(ひんてい、昔の海岸線に沿って形成される砂浜の高まり
(自然堤防)の跡)であったのかもしれない。

と、書いておいて、1. 大昔、浅い海に浮かぶちちゃな小島だったのかもしれない、
を否定してみることにする。 

神社の境内のを歩きまわっても、かたい岩が見当たらない。 境内に井戸がある。
海底から突き出た小さな岩礁ならば、淡水を透す層あり、井戸があるのはおかしい。

50−100メートル離れた隣の大宮町津波避難タワー建設のボーリング調査では、
地表から砂や軟らかいシルトの層がおよそ60メートルの深さまであり、
その下にやっと基盤となるかたい層があるとのことだ。

だから境内を実際に掘削してみなければ本当のところはわからないが
岩礁の可能性は小さい。

2. 昔の浜堤(ひんてい、昔の海岸線に沿って形成される砂浜の高まり
(自然堤防)の跡)であったのかもしれない。

 神社はその上にある。
どう見ても神社は、1−2メートル高いだけだ。
昔の小さな津波ではここだけ浸水しないことがあったのかもしれない。

松原町 と 幸町 と 大宮町は、合同で毎年津波訓練を行い、
その避難場所は 明神社 であった。 私は一度も参加していない。

なぜならば、明神社は言い伝えにもかかわらず
それほど高いところにあるわけではないからである。 

私は、明神社に津波避難することは危ないと考えていた。
今もその考えに変わりはない。 言い伝えは尊重すべきだが、
地図や測量できちんと妥当性を確認すべきだ。



写真は、明神社の入り口です。 (高さがおよそ8−10メートルの)鳥居があった。 今は、石の鳥居の残骸。

写真中央に見える構造物は太平洋に面した堤防です。
堤防までの距離は300メートルです。
写真中央の道路はバス通りで、大津波前は、バスの中から堤防は見えない。 
家々が解体されたので空地が広がり堤防が見える。

海岸線での津波の高さは 8メートルから9メートルです。
(大津波から4ヵ月半後に、仙台の大学に出かけて初めてわかった。)

写真右の魚加工工場の中で(堤防から230メートル付近)津波の高さは
383 センチメートルだった。 工場の外側ならばもっと津波は高かったはずである。
この鳥居の道路向かいの家(堤防から300メートル)外壁には、315 センチメートルの津波の痕跡線があった。
(後者二つは、私が、付近の家の解体前に、物差しで津波の痕跡線を探して実測した(地面からの)値です。)


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2015年3月、
明神社の(陸側の)すぐ裏手の渡波保育所(大津波被災後、避難所)の跡地に
高さ11メートルの 大宮町津波避難タワー が完成した。 
建設完成直後は、津波浸水深 4.5メートルと銘板や地方新聞にも書いてあった。
私は、周辺の津波浸水深の個人的な調査から、この4.5メートルは正しくないので
訂正するようにと石巻市役所の危機対策課に申し入れた。
その後まもなく 浸水深 3メートル に修正された。

避難所であった渡波保育所の道路向かいの空き地にはボランティア団体による
お風呂(男風呂と女風呂)(小屋)が設置された。 私は、結局は入浴しなかったけれども
ありがたいな、入りたいなと思いながら何度もそのそばを自転車で通過した。
渡波保育所はその後解体された。

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