魔眼 情動

08


 夕方になってわたし達と合流したドルクは冷たいお茶で喉を潤した後、今日の首尾についてこう報告した。

「ギルドに事情を説明して、警吏の方に確認を取って対処してもらうようにしてきました。あれからロッホ商会の依頼は出ていないようですが、どうやら『ロッホ商会』そのものは実在しないようです。ダハールの登記簿に記載がないらしくて、例の小型船も船舶登録がされていないとかで、本当の所有者は分かりませんでした。『ロッホ商会』とされていた建物にも行ってみましたが、既にもぬけの殻で」
「もう? 早いな」
「手際が良すぎます。おそらく警吏の中に関係者がいて、昨夜のうちに情報が漏れたんでしょう」
「じゃあ―――」
「ええ、来ますよ。多分、今夜」

 わたし達のやり取りを聞いていたアデライーデが不安そうに尋ねた。

「それ……どういうことですか?」
「警吏の中に関係者がいたんなら、あの洞窟にキューちゃんがいるらしいって情報も当然あっちに漏れているだろうからね。敵はきっと、今夜あたり準備を整えて来るんじゃないかってこと。キューちゃんを狙ってね」
「え……そんな……!」

 青ざめるアデライーデとわたしを見やったドルクが耳慣れない名称に小首を傾げた。

「キューちゃん?」
「ああ、ここで会話するのにカールマーンて連呼するわけにもいかないから、そう呼んでたんだ。あっちにバレてるんなら、もうそんな気を遣う必要もないんだけどさ。ちなみに名付け親はアデライーデね」
「ああ……そういうことですか。安直に鳴き声から付けたのが分かりますね」
「やだ、ドルクさん! そんなこと言わないで!」

 アデライーデが小麦色の頬を真っ赤にする。ドルクはふと笑ってそんな彼女をいなした。

「分かりやすくていいって言ってるんだよ」
「ううー、そんなふうに聞こえないー!!」

 あ……まただ、ドルクの雰囲気が柔らかい。珍しいな……。

 わたしは小さく驚いて、穏やかに微笑むドルクを見つめた。

 出会って間もない人に、ドルクがこんなふうに柔らかな態度を取るなんて、初めてじゃないだろうか。

 そんな彼の様子に鼓動がひとつ、音を立てる。

 昨日二人で話す時間がたくさんあったからか、アデライーデの方もドルクにずいぶんと打ち解けている様子で、懐いているような感じだ。

 仲が良さげな二人のやりとりを目の当たりにして、自分の胸が変なふうに軋むのが分かって、わたしはそんな自身に戸惑いを禁じ得なかった。

 うわ……ちょっと待って。ちょっと待て、わたし。

 これ―――このじんわりとした嫌な感情、これ―――嫉妬だ。

 そんな大人げない自分の気持ちの有り様に辟易する。

 うわぁバカ、何考えてるんだ。14歳の女の子相手に、嫉妬って。

 やだ。リルムがドルクにくっついていた時だって、こんな気持ちにならなかったのに。

 何で、今、こんな。

「準備を整えて来るって……どのくらいの人数で来るんでしょうか?」

 再び不安の色を滲ませたアデライーデの声がわたしを現実に引き戻した。

「相手の大元が分かっていない以上、何とも言えないが……」

 ドルクはそう言って隣のわたしに視線を移し、不敵に口角を上げてみせた。

「まあ……何とかなりますよね?」
「まあ……何とかなるだろう。というか、引き受けた以上は何とかしないとな」

 内心の動揺を押し隠していつも通りに振る舞うと、ドルクはアデライーデに視線を戻して、不安を拭いきれない様子の彼女の頭に軽く手を置いた。

「……だそうだ。心配しなくていい」

 ―――おい、コラ! 手! その手!

 わたしは思わず心の中で突っ込んだ。

 年頃の女の子に、そんなに気安く触れちゃダメだろう!

 密かにやきもきするわたしの気持ちをよそにドルクのその行動は覿面(てきめん)の効果を発揮したらしく、曇っていたアデライーデの顔に笑顔が戻った。

「―――はい!」
「今日も遅い時間まで付き合わせることになってしまうが、家の方は大丈夫か?」
「大丈夫です、事前に根回ししてあるので!」
「なら憂いはないな。そういうわけで、こちらもしっかりと腹ごしらえをして準備を整えてから『キューちゃん』の餌やりに向かいましょう」
「もうっ、ドルクさんっ!」

 当てこするドルクに頬を染めたアデライーデが抗議の声を上げる。そんなささいな光景にさえ波風が立つ自分の気持ちを不快に感じ、わたしはそんな自身を内心で戒めた。

 ああ、もう。バカらしい。

「それと―――今回の件には直接関係ないことなのかもしれませんが、ちょっと妙なことが起きているようなんです」
「妙なこと?」
「ええ。実は―――」

 ドルクの口から語られたのは意外な情報だった。

「遠洋漁業に出た船が戻ってきていない?」
「はい。ギルドで耳にした話で、ロッホ商会とは全く別の案件なんですが、漁船の護衛に携わった連中がそのまま何人か行方知れずになっているみたいなんです。漁船の護衛は非公式の依頼なのでギルド側も全容は把握しきれていないようなんですが、どうやら遠方の漁場へ出た船が何隻か帰港予定を過ぎても戻っていないらしくて。音信不通で連絡がつかず、ちょっとした騒ぎになっていました。
港へ行って漁業関係者にも話を聞いてみたんですが、やはりそうらしくて。問題になっている海域では最近、海面が不気味に光っているのを見たとか、波がうねるように立ち上がっていたとか、巨大な影が回遊していたとか、そんな目撃談が後を絶たなかったそうです。その最中(さなか)にこういうことが起きて、港はその話題でもちきりでした」
「何だろう? 魔物の仕業かな?」
「さあ……今まではこの辺りでそういうことはなかったらしいんですが。どうしたものかと漁業関係者はみんな頭を抱えていましたよ」
「うーん……関係ないかもしれないけど、一応気に留めておくか。それにしてもそんな異変が起きているとなると、原因は何なのか―――気になるな」
「そうですね……何か大きな変事の前触れでないといいんですが」
「うん……」

 大きな変事……か。

 その言葉をどことなく自分の胸のざわめきに重ねながら、何事もなければいい、と願わずにはいられなかった。



*



 波の音がさざめく陽の落ちた海岸で、カールマーンの洞窟はひっそりと薄暗い口を開けていた。

 初めてその場を訪れたわたしはどことなく不気味なその光景を目にして、傍らの少女にこう尋ねずにはいられなかった。

「ここか……それにしてもアデライーデ、真夜中によく一人でこんなとこに入ったね? 怖くはなかった?」

 わたしにそう問われたお団子頭の少女はひとつ苦笑をこぼして、こう答えた。

「冷静に考えると怖いですよね……あの時はもう、無我夢中で。でも、今思うと……我ながらよく行ったな―と思います」

 足を踏み入れると洞窟内の空気はひんやりと湿っていて、外とはだいぶ体感温度が違った。天井から水の滴る狭くて暗い道を足元に気を付けながら進んでいくと、話に聞いていた通り次第に天井は高く、横幅も広くなっていく。

 ところどころに張られた結界をアデライーデが解除しながら進んでいくことしばらく―――最奥の水溜まりに、カールマーンはいた。噂のその姿を初めて目の当たりにして、わたしはその愛らしい風体に思わず顔を蕩けさせた。

 わあ……! この子がキューちゃん! アデライーデが言ってた通り、黒くてつぶらな瞳が可愛い!!

 ああ、それにこの体形! まるっとしてぼてっとして、何て愛くるしいんだろう!?

「フレイアさん、生き物好きなんですね。何か全身からオーラが出ていますよ」

 餌の解凍作業をしていたアデライーデにそう指摘されて、わたしは思わず頬を赤らめた。

 そ、そんなに態度に出てたかな?

「分かる? そうなんだ、基本的に生き物、特に哺乳類はすっっごく好きで。ああ、可愛い……!」
「分かりますよー。あたしも好きですもん。滲み出ちゃいますよね!」
「うんうん、何ていうかこう、たまらなくなるよね! 特に子供は可愛くて、見てるだけで癒されるっていうか、ほっこりした気持ちになって」
「そうなんですか? 小さくて毛がふわふわしたのでなくても?」

 少し離れた場所に佇んでいたドルクが少々意外そうな面持ちでわたしに尋ねた。

「そういうのももちろん可愛いけど、そうじゃなくても可愛いよ」
「へえ……」
「ドルクさんはどうなんですか?」
「オレは普通だな……見ていて可愛いと思わなくもないが、それ以上の衝動はない」

 そうなのか。確かにドルクが自分から進んで生き物と触れ合ってる姿は見たことがないなぁ。

 アデライーデが解凍した魚で水面を軽く叩くと、水溜まりの奥にいたカールマーンが餌をもらいに近くまでやって来た。

 話には聞いていたけれど、つるんとした胴体に穿たれた銛の痕と引き攣れたような熱傷の痕が本当に痛々しくて、わたしはそっと眉をひそめた。その時だった。

「昨日と少し身体の色が変わっていないか……?」

 ドルクが水溜まりの方にやや身を乗り出すようにして、カールマーンを凝視した。

「え? そうですか? 言われてみればそうかなぁ……」

 ドルクを振り返ったアデライーデがカールマーンに視線を戻して小首を傾げる。

「確かに、最初に比べたら緑色が濃くなってきているかも……? 傷が癒えて元気になってきたからですかね?」
「少し銀色を帯びてきたようにも見えないか? 光沢の度合いが増しているというか……」

 ドルクの言う通り、目の前を揺蕩うカールマーンの体躯は濃い緑色に銀色が入り混じっているようにも見える。

 あれ? でも変だな。

「確か……カールマーンの身体って、普通は薄い緑色をしているんじゃなかった?」
「そのはずです。昨日は子供特有の色合いなのかと思いましたが、もしかしたらそうでないのかもしれない」
「うーん、カールマーンは生態が解明されていない部分も多い魔物だからなー……もしかしたらこの子、純粋なカールマーンじゃなくて亜種だったりするのかもしれないな」
「可能性はありますね……」

 まあ……どっちにしろ、ここで結論が出る話じゃないな。

「とりあえずはこの子を護ってやらないとね……アデライーデ、餌をあげ終わったら結界を張り直してくれる?」
「はい!」

 わたしの言葉に力強く頷いたアデライーデにドルクが言った。

「それが終わったらクラウス先生のところへ行って状況を説明してもらえるか? この時間ならもう診察も終わっている頃だろう」
「分かりました! その後はどうしたらいいですか?」

 そう尋ねられて、ドルクとわたしは顔を見合わせた。

「相手がいつ来るか、正確なところは分からないからなぁ……わたし達は今日は診療所へは行けないと思うし、今夜はもう家に帰ってゆっくり休んでもらっていいんじゃないか?」
「そうですね。それがいいと思います」
「あの、でも、ドルクさんとフレイアさんはそれで大丈夫なんですか? 相手が何人で来るか分からないのに……あたしも術士(メイジ)の卵です、微力ながらお手伝い出来ます」

 思い詰めた表情で申し出るアデライーデのおでこをドルクが指で軽く弾いた。

「昨日結界を張り終えた後、疲労でふらついていたのは誰だ?」
「う、うぅ。それは」

 おでこを押さえて唸る彼女にわたしも口添えた。

「結界をきちんと張ってくれるのがアデライーデの仕事だよ。後はわたし達に任せてもらって大丈夫。心配しなくていいから」
「……はい。分かりました、あの、では、キューちゃんを宜しくお願いします」
「うん、任せとけって」

 そんな人間達のやりとりを水の中から見ていたカールマーンが、途中でお預けになってしまっていた餌の続きを求めて、独特の声でキューンと鳴いた。 
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