魔眼 情動

21


 静けさを取り戻した海の上に月が昇り、星達が瞬き始めた。

 意識を回復したハルマナーンとキューちゃんは再会を果たし、ひとしきり互いの身体をすり合わせるようにした後、何かを語りかけるかのような視線をわたし達に向けて、それからゆっくりと背を翻すと、住まうべき大海へと還って行った。

「キューちゃん……良かった……」

 船上からそれを見送ったアデライーデが目尻に浮かんだ涙を拭う。

「アデラ、よく頑張ったね」

 そうねぎらいの言葉をかけながら肩に手を置いたクラウスを振り返り、彼女は淡く微笑んだ。

「先生……ありがとう」

 その様子をわたし達は微笑ましい思いで見つめていた。

 アデライーデは本当によく頑張った。たくさん怖い思いもしただろうに……二年後には本当に、傭兵ギルドの一員としてわたし達と肩を並べているかもしれないな。

「オレらも陸へ帰ろうぜ。アレクとリルがやきもきしながら待ってるだろうなー、うるさそうだなー、説明するのがめんどいなー」

 大きく伸びをしながらぼやくベルンハルトの言葉に思わず笑みがこぼれた。

 ああ、そうだな。アレクはともかく、リルがうるさく質問攻めしてきそうだ。

 魔物の肉片の下敷きになって重傷を負ったクンツは再び意識を手放していて、クラウスが応急手当てを施し担架に縛りつけた状態で漁船に乗せてある。

 目を覚ました後、奴には第二の人生が待っていることだろう。全てを失い、贖罪(しょくざい)の道を歩む人生が。

「よぉし、陸(おか)へ戻るぞー」

 おじさんが舵を切って船が動き始めてすぐのことだった。

 それまで立っていたアデライーデが突然欄干にもたれるようにしたかと思うと、そのままずるずる床に座り込んで苦しそうな表情を見せたのだ。

「アデラ? どうした!?」
「何か……気が抜けたら、急にあちこち痛くなってきて。大丈夫……」

 心配するクラウスに彼女は気丈にそう返したけれど、漁船の灯りに浮かぶその顔色は明らかに悪く、とても大丈夫とは思えなかった。

「どこが痛む? 診せて」
「お腹の辺り……」

 アデライーデを触診したクラウスの顔色が変わった。

「吐き気は? ある?」
「うん……」

 それからいくつかの問診を経て、クラウスは遠巻きに見守るわたし達を振り返った。

「多分腹腔内で出血している。早く処置しないと」

 えっ!?

 わたし達は息を飲み、くったりとしたアデライーデを見やった。

 船が揺れてひどく身体を打ちつけた時だろうか? それとも……。

「すみません、急いで下さい」
「おっ、おぅ!」

 クラウスの声を受けたおじさんがあせりながら船のスピードを上げる。

「くそ、アレクがいれば……あいつ多分オレ達を待ってるだろうから、海岸近くにいるのは間違いないんだろうけど……」

 気を揉んで歯噛みするベルンハルトの脇をドルクがすっと通り過ぎて、アデライーデの元へと向かう。その姿が視界に入った時、わたしは前を通りがかった彼の服をとっさに掴んでしまっていた。

「あ……」

 こちらを振り返ったドルクと目が合い、自分が起こした行動にビックリして言葉を失う。そんなわたしを安心させるように、彼は穏やかに微笑んだ。

「―――大丈夫ですよ」

 大丈夫!? 何が!? わたし、今、何を―――。

 わたしは自分自身の行いに茫然としながら、ドルクの服を握る手を離した。

 わたし―――わたし、何をしているんだ!? ドルクの服を掴んで、どうするつもりだったんだ!?

 目の前で、アデライーデが苦しんでいるのに!!

 アデライーデの前に片膝をついたドルクは再び魔眼を発動させると、傍らのクラウスに下がるよう視線で促し、静かに彼女の腹部へと手をかざした。

「ドルク君―――?」

 訝(いぶか)し気に彼の名を呼ぶクラウスの前で、ドルクの掌に金色に輝く柔らかな光が生まれ、アデライーデの患部へと優しく降り注ぐ。するとほどなくして、辛そうに閉じられていた彼女の瞼がゆっくり開かれ、心配そうに見守るわたし達を不思議そうに見つめ返した。

 ―――え……?

「ドルクさん……先生? あれ? あたし―――あれ?」

 瞬きを繰り返すアデライーデの手をドルクが取り、彼女を立ち上がらせる。

「痛くないだろう? もう大丈夫だ」

 ―――ええ!?

 状況を理解したベルンハルトの口から絶叫が上がったのは、次の刹那。

「えっ……えええ、ええええ―――ッッ!? お前、何それ、何その能力(チカラ)!? 聞いてねぇんだけど!!」

 甚(はなは)だ心外なことに―――、それは、わたしの心の声と同じものであった―――。



*



 あの顛末には本当に驚いた。

 驚くと同時に、それをずっとわたしに黙っていたドルクに対して大いに腹立たしさも感じたけれど―――それ以上に、自分自身に対して感じた怒りと失望の方が、ずっとずっと大きかった。

 わたしは人間失格だ……。

 人として、どうかしている……。

 そんな衝撃から逃げるようにしてたどり着いた夜の砂浜の片隅で、わたしは独り膝小僧を抱え、自己嫌悪に陥りながら潮騒の音を聞いていた。

 あの時とっさに取ってしまった自分の行動が、今でも信じられない。

 目の前でアデライーデが、知っている人間が苦しんでいるのに、ドルクを―――止めようとした。

 彼が人を癒せる能力を持つことを知っていながら。

 あの場で彼女を救えるのは彼だけだと知っていながら―――……。

「……こんなところにいた。探しましたよ」

 砂を踏みしめる音がして、背後から静かなドルクの声がした。

「南国でもさすがに夜は冷える。そんな格好をしていると、風邪をひきますよ」

 そう言ってわたしのシャツを肩に羽織らせてくれた彼は黙りこくったままのわたしを見つめ、ひとつ息をついた。

「……怒っているんですか?」
「……。どちらかと言えば自分自身に怒っている……」

 正面を向いたまま彼にそう返しながら、わたしは語気を強めた。

「でも、あんたにも腹は立ててるから! あんな方法で治せるんなら、何で今まで黙ってたのさ!」
「人の話は最後まで聞いた方がいい、って助言はしましたよ」

 言いながら傍らに腰を下ろしたドルクをわたしはきっ、とにらみつけた。

「それは、ついさっきの話じゃん! これまでずっと、どうして黙ってたんだ!」
「……聞かれなかったので」
「はぁ!?」
「自分にとって都合の悪いことを、わざわざこちらから言う必要もないでしょう?」
「都合の悪いこと?」

 訝しむわたしに、彼はさも当然のように答えた。

「それを言ったら、治療にかこつけてあなたに触れられなくなる」

 理由を聞かされて、こっちの方が恥ずかしくなった。

 ―――こ、こいつ!

 頬を赤らめて押し黙るわたしを見つめ、ドルクは悪びれる様子もなく言った。

「オレにとっては大問題でしたから。言わないで済むものなら、言わないでおきたかった」
「……ラナウイでスリの姉妹の妹の傷を治した時も、エリスの屋敷でハドルの傷を治した時も、あの方法で治したんだな?」
「もちろん。あなた以外、あんな方法で治したりしませんよ。……ホッとしました?」

 穢れのない清らかな顔で穢れたことを口にしながら、ドルクはわたしの表情を窺った。

 ぐうぅぅ……ホッとしてしまっている自分が心底嫌だ。

 薄々、薄々おかしいとは思っていたんだ。

 老若男女問わずにあの方法で怪我人を治しているんだとしたら、ドルクはもの凄い博愛精神の持ち主になるって。

「フレイア―――オレはね、人間はそんなに高潔である必要はないと思うんです。あなたがどうして自分に腹を立てているのか察しはつきますが―――オレは正直、あなたのその反応が嬉しかった。だって、それだけオレを特別に想ってくれているってことでしょう?」
「……っ。それは、そうだけどっ……でも、でも、知り合いの、あんな年端もいかない娘(こ)が、目の前で苦しんでいたのに―――わたし―――わたしはっ……」

 抑えていた色々な感情がぶつかって波立って、急激に目の奥がずんと熱くなってきた。

「あなたはすぐに我に返って、手を離した」
「でも、でもっ……!」

 感情の抑制が利かない。あっという間に視界がぼやけ、堰を切った涙が頬を伝って溢れ出した。

 あんなままならない感情が自分の中にあるなんて、知らなかった。

 人を愛しく想う気持ちが、あんなに醜い感情を生み出すなんて、思いもよらなかった。

「オレは嬉しかったですよ、フレイア。本能的な感情のままにオレを止めてくれたあなたも、理性的にそんな自分を戒めて、オレを送り出してくれたあなたも―――」

 わたしの頬を流れ落ちる涙を優しく指先で拭いながら、ドルクはせめて嗚咽を堪(こら)えようと唇を結ぶわたしに告げた。

「そんな人間らしい感情に溢れたあなたが、オレは好きです―――どんなあなたも、あなたの全てを、愛している」

 そんなことを言われてしまったら―――わたしの中にあった最後の最後の防波堤が決壊してしまった。目の前が涙でぐしゃぐしゃになって、ドルクの整った顔も、真っ直ぐな視線も、何もかも見えなくなってしまう。

「―――ドルクッ、ランドルク……」

 子供みたいにしゃくりを上げながら、わたしは彼の名前を呼んだ。

 わたしも、あなたを愛している。ずるいあなたも優しいあなたも、どんなあなたも、大好きだ。

 そう告げる前に両頬を掌で包み込むように覆われて、全てを許すようなキスをされる。きつくきつく抱きしめられて、何度も何度も口づけられて、それを言葉にすることは出来なかった。

「フレイア……」

 キスの合間にこぼれ落ちる、愛おしさと狂おしさに彩られた彼の声。

「フレイア……!」

 吐息混じりに繰り返されるその声は、表現しようのない深い感情を滲ませていて―――涙で濡れた瞳を開くと、熱い情動を孕んだ男の瞳とぶつかって、胸が切ない音を立てた。

 頬を上気させ熱く瞳を潤ませた自分の顔が、この上なく女の顔になっているだろうことが、見なくても分かる。

 そんなわたしを熱い眼差しで見つめ返しながら、ドルクの指が心臓の真上に咲いた赤い花をゆっくりとなぞった。

「ここ―――今夜、治させてもらえますか?」

 そう求められて、その言葉の意味するところに、心臓が小さく跳ねる。

 否は、なかった。

 耳まで染めて小さく頷きかけたわたしは、その瞬間あることに思い至って―――動きを止めた。

 ちょっと待って―――戦いを終えて二人共ずいぶん薄汚れているし、このまま宿へ戻ってそのまま、ってことはないよな?

 多分シャワーを浴びて身体を清めた後、服を着て、どっちかの部屋へ行って、それから―――。

 それから―――それから、ということになると―――下着が、ない。

 こういう状況に対応出来るような、可愛い下着がない!!

 わたしは一気に現実に引き戻され、青ざめた。

 何しろ極力荷物を持たないようにしている為、元々数を持っていない上に職業柄デザインより機能性重視、しかも最近買い替えていないものだから、今あるものは肌触りはいいけれど色気のいの字もない、くたびれたようなものばかりだ。

 あっ……あんな残念な下着、ドルクに見せられるわけがない!!

「フレイア?」
「―――あっ、あの……ドルク、今日じゃなくて、また日を改めて、ということでは……ダメかな?」

 上目遣いにそう申し出ると、ドルクは耳を疑うような表情になった。

「え?」

 一度瞬きをして、こう尋ね返す。

「今の流れ的に、ここは普通、頬を染めて頷くところじゃありませんか?」

 そうだよね! 実際、わたしもそうするところだったもん!

 でも、でも、気が付いてしまったんだから仕方がない。

 気が付いてしまった以上、それは女としては無視出来ない問題で―――。

「そ、そうかもしれないけど、やっぱり今日は―――あのっ、もっ、もったいぶっているとか、嫌だとか、そういうことじゃなくて……!」
「……ちょっと待って下さい」

 必死に訴えるわたしを前にドルクはひとつ嘆息した後、困惑気味の眼差しを向けた。

「何か、問題でもありました?」
「―――う、うう。あの。準備が」
「準備? 心の準備ですか?」

 いや。まあそれもなくはないけど、十代の少女じゃあるまいし、初めてというわけでもないし、そんなおこがましいことを言うつもりはなくて。

 わたしは首を振り、短い沈黙の後、赤くなりながら正直に告白した。

「し、下着が……そういう雰囲気に合う、下着がない」
「下着?」

 想定外の回答だったんだろう、大きなこげ茶色の双眸を瞠ったドルクはそう呟いて、まじまじとわたしの胸と下腹部に視線を走らせた。

「! ど、どこ見てっ……!」
「……オレ的には重要なのは中身の方なので、そこは特段気にしませんけど」
「わ、わたしは気にする!」

 わたしは慌てて言い募った。

 あんたが想像だにしていないレベルなんだよ、残念過ぎて、見たら絶対引くから!

 雰囲気ぶち壊し確定の、一撃必殺アイテムなんだよ!

「わたしも女なんだから……最初くらい、格好つけたいんだよ。は、初めての時くらい……」

 うう……恥ずかしい、恥ずかし過ぎる、何を言わされているんだ、わたし……。

 唸るようにしながら真っ赤になってうつむいているわたしをしばらく見やっていたドルクは、しばらくしてひとつ息をつくと、苦笑混じりに頷いた。

「……分かりました。正直残念ではありますけど、お互いが納得した上でその時を迎えたい気持ちはオレも同じなので。ただ、そう長くは待てませんから……これが消える前までにお願いしますよ」

 形の良い指でわたしの胸に咲く赤い花の痕をなぞらえた彼は、魔狼の表情になりこう警告した。

「期限が切れたら、有無を言わせず抱きますから」

 抱く、という言葉を使われて、リアルなイメージが湧いてしまい、全身から蒸気を噴き上げそうになる。そんなわたしの後頭部をそっと引き寄せて、ドルクは妖しく囁いた。

「―――今日はこれで我慢します」

 星達が瞬く広大な空の下、息が出来ないほど長く、深く口づけられて、陶酔の世界に誘(いざな)われる。めくるめく幸福感と植え付けられる官能の甘い予感に、瞳を閉じたわたしは切なく胸を震わせた。
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