子供達が駆け抜けていく賑やかな声や、甲高い海鳥の声が響く静かな環境に構えられた彼の診療所へ初めて足を運んだわたしは、新鮮な面持ちでその全貌に視線を走らせた。
「立派な診療所じゃん。静かで環境もいいね。もっと早く来るつもりだったけど、何だかんだで任務完了後になっちゃったな」
「予想外の事態が続いたからね。でも、そう言ってもらえて嬉しいよ」
あれから二日―――昨日一日ゆっくりと休養を取ったわたしとドルクは、今回の報酬を支払ってもらうという名目でクラウスの診療所へとやって来ていた。すっかり元気になったアデライーデも来ていて、彼女は庭でドルクと楽しそうにお喋りしている。夜にはベルンハルト達との飲み会が入っていて、今日は少し慌ただしい一日になりそうだ。
「はい、少なくて悪いけど、これ約束の報酬。カールマーンの子供が海に還れるまでの護衛を頼んだだけのはずが、ずいぶんと大ごとになってしまって―――君達には本当に申し訳なかったね。ベルンハルト君達まで巻き込んでしまって」
「気にするなって。ベルンハルト達を巻き込んだのはこっちの判断だし、彼らも納得してのことだから。わたしもドルクも気にしていないよ。キューちゃんが無事に海へ還れて、依頼を達成出来て―――本当に良かった」
そう言って微笑んだわたしに、クラウスも穏やかな笑顔を返した。
「ありがとう―――フレイア。君達に頼んで、本当に良かった」
南国の太陽が差し込む室内に、ふわりと爽やかなハーブの香りが漂う。ティーポットの蓋を少しずらしてその中を確認したクラウスが満足そうに頷いた。
「ああ、いい感じに煮出された。もう少し蒸らしてから、アデラが用意してくれた氷を入れたハーブティーをご馳走するよ。ドルク君とアデラは庭?」
「うん。何か色々話してるみたい。主にギルド関係の話」
それと―――どうもドルクはわたし達が気兼ねなく話を出来るよう気を遣ってくれている節があるんだよな。何となく、だけど。
「そういえば、奥さんは? せっかくだし挨拶しておこうかな」
そう申し出たわたしにクラウスは小さく首を振った。
「……いや、その必要はないよ」
「あー……昔のことを言うつもりはないけれど、元カノ(わたし)からの挨拶って微妙?」
クラウスの反応をそう解釈すると、彼は「違うよ」と苦笑して、驚くべき発言をした。
「僕、まだ独身なんだ。そう呼べる人がいなくてね」
「え」
ええええぇ―――ッッ!?
わたしが目を剥いてしまったのは、無理からぬことだろう。
「だ、だってだって、あの時!」
「うん。誤解しちゃうよね、あれじゃ」
「分かってたら、何で即座にそれを解かないのさ! その指輪は!?」
「ああ、これフェイク。主に救護所勤務用の女性除(よ)け。多いんだよね、医師というだけで言い寄ってくる女性」
な、何それ!
呆然と目を瞠るわたしにクラウスは少し考える素振りを見せてから口を開いた。
「君に言い出せなかったのは……うーん、タイミングを逃したのもあるけど……やっぱりショック、だったのかなぁ」
「何が?」
「君の反応が」
「わたしの? 何が?」
クラウスの言わんとしていることが、さっぱり分からない。
困惑を刻むわたしに、クラウスはその理由を述べた。
「あんなに晴れやかな顔で『おめでとう』って言われて―――君に心から祝福されているのが分かって、自分でも少し驚いたんだけど、塞いだ気持ちになったんだ。君の中では僕は完全に過去の存在になっていて、男としてのカテゴリーから外されているんだなって」
それはわたしにとって、思いも寄らなかった内容だった。
「え……でも、それは」
「うん、分かってる。君の反応が真っ当だってこと。僕自身もね、君のことは完全に吹っ切れているつもりだったんだ。ただ―――君との別れ方に後悔の念を抱いていたことは事実だったから、その辺りに君との差があったのかな」
そう言ってクラウスは少し寂しそうに笑った。
「あの時は僕も若かったから……自分の方が年上だということもあって、君をリードしていきたいって思う気持ちが強かったんだろうね。それが転じて自分の考えを押し付けていることに気が付いていなかったんだ。それにどこか自惚れていたから、『別れ』をチラつかせれば君が考えを改めてくれるかもしれないって、安易に考えていた部分があった。
けれど、君の意志は僕が思っていたよりずっとずっと強固で―――結果、僕達は別れることになった。別れて、僕は初めて気が付いたんだ―――大切に守りたいと思っていたはずの君を、僕は対等に扱っていなかったんだって。勝手に守りたいと望んでいたのは僕だけで、君は庇護されることを望んでいなかったのに。なのにそれを強いて、確たる信念に基づいた君の意志を、僕はないがしろにしてしまっていたんだって―――」
知らなかった。彼がこんなふうに考えていたなんて。
「再会した君はね、本当に綺麗になっていたよ。だから余計に衝撃だったんだ。こんなふうに君を輝かせることは、僕では出来なかったことなんだ。それをやってのけたのが君の隣にいるドルク君なんだと思った時に―――何とも言えない気分になった」
ほろ苦い表情で、クラウスは自嘲的に呟いた。
「僕は、君に対する愛し方を間違ってしまっていたんだなぁって―――そう、思い知らされた気がしたんだ」
クラウス……。
「そんなふうに、言わないで。若かったのはお互い様だ。わたしだって自分の気持ちを優先するばかりであんたに対して思いやりに欠けていた部分があったし、それはある意味、仕方がないことだったんじゃないかな。人はどうしたって経験することでしか成長出来ないものだと思うし、若かったわたし達には必要なことだったんだと思う」
「フレイア」
「わたし、クラウスと付き合って得られたものもたくさんたくさんあるよ。クラウスに出会うまで、わたしの毎日は本当に殺伐としていて―――来る日も来る日も戦いに明け暮れていたわたしにとって、クラウスと過ごした日々がどれだけ特別だったか……。あんたの隣はホッと息をついて休める大切な場所だったんだ。大事にしてもらえて、くすぐったかったけれど、とても嬉しかった……。
あの日々がなかったら、今のわたしはいない。きっとどこかで擦り切れて、ダメになってしまっていたんじゃないかと思う。わたし達の関係が変わってしまっても、あの日々はわたしの中で活きていて、今のわたしを構成する大事な要素になっているんだ」
だから、そんなふうに考えて自分を傷つけないでほしい。
わたしの言葉を聞き終えたクラウスは感慨深げに瞳を閉じて、静かに息をついた。次に瞼を開けた時、彼はいつもの穏やかな表情に戻っていて、昔と変わらぬ柔らかな口調で、わたしに微笑みかけた。
「―――ありがとう。これで僕もまた一歩踏み出せる。フレイア、元気でね。そして幸せになって。ダハールへまた来た時には顔を見せてよ」
「うん。ありがとう、クラウス。クラウスも元気で、そして幸せになってね。素敵な出会いがあるように祈ってる」
わたし達はどちらからともなく手を差し出し合い、握手を交わした。
「会えて良かった」
「うん。わたしも」
色素の薄い茶色の猫っ毛に、穏やかな青い瞳。細いフレームの眼鏡をかけた端正な顔立ちを包み隠す、彼独特のふわりとした柔らかな雰囲気。
昔、好きだった人。温かな愛情をくれた人。
どうかここで力強く歩んでいってほしい。わたしもあなたに負けないように、頑張るから。
*
「ドルク君、フレイアを頼むよ」
別れしな、クラウスにそう声を掛けられて、オレは自分より頭半分ほど高い位置にある彼の顔を見やった。フレイアとアデライーデは少し離れたところで別れを惜しみ合っている。
「僕ね―――古い付き合いで彼女の職業は知っていたし、仕事で負傷した彼女の手当をしたことも何度もあったけれど、実際その戦いぶりを目にしたのは今回が初めてだったんだ―――現場にいて、それを目の当たりにして、正直、震えが来たよ。対峙する魔物の迫力もさることながら、それを迎え撃つ君達の不屈の闘志も、人智を超える魔眼としての能力も―――何もかもが、僕にとっては未知の領域だった」
クラウスは一度言葉を区切り、どこか寂しげに微笑んだ。
「分かっていたつもりで、分かっていなかった。魔眼として生きていく彼女には、君のようなパートナーが必要なんだと思う。ドルク君、これからもフレイアを支えてやってもらえないか。君と彼女は多分、互いを高め合っていける存在だと思うから」
「……元よりそのつもりです。オレは彼女の隣に立ちたくて、彼女と肩を並べたくてこの道を志したようなものですから」
「え?」
オレの告白にクラウスが驚きの表情を見せる。そんな彼に声を潜めてオレは伝えた。
「内緒ですよ」
クラウスは一瞬沈黙した後、まじまじとオレを見て、苦笑気味に吹き出した。
「……そうだったのか。彼女にはそれ、伝えないのかい?」
「いずれ折をみて伝えます。一生、傍にいますから」
眼鏡のフレームの奥にあるクラウスの瞳を真正面から見据えてそう告げる。それを受けたクラウスはしばらくして、その青い瞳をゆっくりと伏せた。
「……当てられちゃうな。そう言える相手が僕にも見つかるといいんだけど」
溜め息混じりにそうこぼした彼に、オレは少々差し出がましい物言いをした。
「そういう相手は案外近くにいるのかもしれませんよ。固定観念に縛られず、自由な見地で見渡したなら、見つかるものなのかもしれない」
「謎かけみたいな言葉だね」
「そうですね……」
頬を緩めたオレにフレイアが呼びかけた。
「ドルク、そろそろ行こうか」
「ええ」
それに軽く頷いて応えたオレはクラウスに目礼し、フレイアの隣へと向かいながら、彼女の傍らで瞳を潤ませるアデライーデの丸いおでこを指で軽く弾いた。
「頑張れよ、色々と」
「うう? ド、ドルクさん?」
おでこを押さえてオレを見たアデライーデはその言葉の意味を傭兵ギルドの一員になることだと受け取り、力強く拳を握りしめた。
「はい! 頑張ります!! いつかまたお二人と一緒に、任務をこなせるように!」
「その意気だ」
「頑張れよ、アデライーデ。二年後、楽しみにしているからな」
「ドルクさんもフレイアさんも、お二人共お元気で! 本当に……本当にありがとうございましたっ!!」
アデライーデは大粒の涙をこぼしながら、泣き笑いの表情でオレ達に深々と頭を下げた。その後ろにクラウスがそっと寄り添うようにして立ち、オレ達を見送る。
オレ達は一度大きく手を振って、海を見下ろす小高い丘に建つクラウスの診療所を後にした。
「クラウスと色々話せたよ。ありがとう」
隣を歩く愛しい女性がそう言って、凛とした綺麗な瞳をオレに向けた。
「心残りはありませんか?」
「うん。伝え忘れたことはない。何だかとても清々しい気分だ……」
「それなら良かった」
「そうそうドルク、あんた知ってたでしょ? クラウスが独身なの」
「ああ……本人から聞きました?」
そう返すと彼女は憮然とした面持ちになった。
「だからあの時わたしに釘を刺したんだな……何で教えてくれなかったのさ。ビックリして思わず大声出しちゃったよ」
口を尖らせたフレイアが指す「あの時」とは彼女がクラウスの頭を叩いた夜、オレが苦言を呈した時のことだろう。
「あの人がいまいち掴み切れなくて。どういうつもりであなたにそれを黙っているのか、見極めてからにしようと思ったんです」
実際は色々な葛藤でがんじがらめになって動けなかっただけという情けない顛末なのだが、それについては黙っておく。
「うーん、確かにクラウスはそういうところあるからなぁ……」
根が素直なフレイアは顎に指をあてがうようにしてそう呟くと納得した様子で、それ以上は追及してこなかった。小高い丘を下りながら額の上に手をかざして、太陽の光を映して煌めく青い海原を眺めやり、茶色の瞳を細める。
「海が綺麗だな……キューちゃんは今頃この広い海のどこかで元気に泳いでいるんだろうな」
「クンツの一味が捕まって、ダハールの海にもしばらくは穏やかな時が訪れるでしょうね。海神の怒りに触れたという事実が広く認知されて、警吏(けいり)の方も尋常でない力を入れてこの件に当たっているらしいですから。街の名士や警吏の関係者にまで広く捜査が及ぶらしいですよ」
「これで膿が出切るといいんだけどね……」
「完全にというのは難しいでしょうが、なるべく綺麗になってほしいですね。クンツやシュライダーが牢獄から出てくることはないだろうと思いますし」
「クラウス達から依頼を受けた時は、まさかこんな展開になるとは思わなかったね」
「ええ。その中で、あなたとの関係がこんなふうに変わるとも思っていませんでした」
そう言って隣のフレイアを見つめると、ほんのり頬を染めた彼女は視線を落とし、小さな声で呟いた。
「わたしも……」
少し視線を彷徨わせるようにした後、そろりとこちらを窺ってくるほぼ同じ高さにある茶色の瞳を見つめ返して微笑むと、彼女の顔にも柔らかな微笑が広がった。
どちらからともなく手を伸ばして繋ぎ合い、緩やかな丘を下っていく。
海から流れてくる穏やかな潮風が、そんなオレ達の髪を優しく揺らしていった。
<完>