魔眼 情動

20


 落雷の衝撃でハルマナーンが気絶したことにより、荒れ狂っていた海は次第にそのなりを潜め、空にはびこっていた黒雲は徐々に薄らぎ始めていた。

 けれど、荒く波立つ水面の上にドルクの姿は見えない。

 あの瞬間、ギリギリ落雷を回避したように見えたけれど、間に合わなかったんだろうか。

 視力を取り戻したわたしは傾きかけた二階のバルコニーから身を乗り出すようにして彼の姿を探したけれど、未だその姿を見出すことが出来ず、心臓がぎゅっと引き絞られるような思いに囚われていた。

 ―――大丈夫だ。ドルクは絶対に大丈夫……。

 心臓の上に赤い大きな花を咲かせていった彼の痕を掌で押さえるようにしながら、そう自分に言い聞かせる。

 あの器用で自信家の男が、そう簡単に下手を打つもんか。

 その時だった。

 海面の一角からぼこぼこっと空気の泡が立ち、そこから勢いよくドルクが顔を覗かせたのだ。

「―――ドルク!」

 良かった! 無事だ!

「大丈夫か!?」

 わたしの声に彼は二度、三度、大きく喘ぐように呼吸をした後、手を上げて応えると、仰向けになって浮かびながら呼吸を整えた。

「フレイアー!」

 その時ベルンハルトの声が聞こえてきて、そちらを見やったわたしは、助けた漁師のおじさんが操縦する漁船の上で手を振る彼と、同じようにして船上から身を乗り出すクラウスとアデライーデの姿を認めて、大きく手を振り返した。

「ベルンハルト! キューちゃんは!?」
「一緒に来たよ、オレ達がキューちゃんの後についてきたんだ。いやあ、あの荒海の只中に船を出すとか、正気の沙汰じゃないよなぁ。アデライーデが水の加護を付加してくれたとはいえ、マジ死ぬかと思った」

 それを聞いてハルマナーンの方を見やると、その大きな身体に小さな身体をすり寄せるようにしているキューちゃんの姿が確認出来た。

「ところでフレイア、ランヴォルグは?」
「雷に打たれたハルマナーンと一緒に落下して―――そこで浮いてるから、拾ってもらえる?」
「おお、ホントだ。てか、ハルマナーン!?  あのデカいの伝説の海神!?  マジで!? てことは何、キューちゃんはもしかしてカールマーンじゃなくて―――あああ、何かもう色々混乱するんだけど」

 騒がしいベルンハルトの傍らでクラウスが船に泳ぎ着いたドルクに手を伸ばし、彼を引き上げた。

「大丈夫かい?」
「ええ……大丈夫です」

 クラウスにそう返しながら、ドルクは剣帯の隙間に差し込むようにしていたカールマーンの角を数本彼に手渡した。

「これ、持っててもらえますか。証拠の一端です。クンツの隠し部屋ごと海に落下して、書類の類は最早回収が厳しい」

 いつの間に―――ただで海に落ちていたわけじゃないんだな、さすがドルク。

 かく言うわたしも二階のバルコニーに引っ掛かっていた書類を何枚か回収して胸元に差し込んでいたけれど、とりあえず拾っておいただけで中身は確認していないから、それに証拠能力があるのかどうかは分からない。

「―――ド、ドルクさん、瞳の色が……」

 彼の金色の瞳を見て驚きの表情を見せたアデライーデは、バルコニーの近くまで来た漁船に気絶したクンツを連れて飛び移ったわたしの紅蓮の瞳を見て、唖然とした顔になった。

「……。え? え? お、お二人、もしかして、魔眼……なんですか?」

 ああ、そういえばアデライーデには言っていなかったんだったな。

 頷いたわたしとドルクを見て、アデライーデは大きな紫色の瞳を瞠ったまま、隣にいたクラウスの腕をバシバシと叩いた。

「せ、先生、先生は知ってたの?」
「うーん、まあね……」
「ど、どうして教えてくれなかったのー? 知らなかったのあたしだけ? どうしよう!? まさかドルクさんもフレイアさんも魔眼だったなんて! スゴい……スゴ過ぎるんだけど!」

 興奮した口調でそうまくし立てたアデライーデは、次の瞬間ハッとした面持ちになりベルンハルトを見やった。その熱い視線を受けて、困り顔になったベルンハルトが苦笑をこぼす。

「期待に添えなくて悪いんだけど、オレは違うから。海を割ったり単身で海神に挑んだり、あんな人智を超えたこと出来ません」

 そんな会話を耳にしながら、わたしは船を操縦するおじさんに歩み寄り声をかけた。

「おじさん、協力してくれてありがとう。助かったよ」
「なあに、命の恩人が頑張ってるんだ、これくらいの恩を返さなきゃ男が廃るからな。もっともこりゃあオレのじゃなくて借り物の船だが。お嬢さん『魔眼』ってやつなのか? よく分からんが紅い瞳も綺麗だね」

 おっ、まさかこんな返しをされるとは思わなかった。ちょっと照れるな。

「ありがとう。ハルマナーンの近くまで行ってもらえる?」
「おおよ。まさか海神をこの目で拝める日が来るとは……今日は本当に、色んな意味で生涯忘れられない日になったもんだ……」

 おじさんが舵を切り、気絶しているハルマナーンの元へわたし達が向かおうとした時のことだった。

 不意に海面が揺らめいて、漁船の傍らを大きな影がよぎり、ハルマナーンの方へと向かって加速したのだ。

「キュイイー!」

 キューちゃんが警戒の声を上げ、反射的にわたしは叫んだ。

「おじさん、速度上げて!」
「お、おおっ!」

 漁船が速度を上げ始めるが、不気味な影の加速に追いつかない。ハルマナーンに寄り添うキューちゃんの目前で水飛沫が上がり、海中から突如姿を現した大型の魔物が咆哮を上げながら鋭い牙を剥いて、それを見たアデライーデが悲鳴を上げた。

 目が退化したサンショウウオのような外見をしたその魔物は、ぬめりに覆われた苔色の肌をして全身にある黒みを帯びたイボのような突起と相まっただんだら模様をなしている。大きな口には上下に二列ずつ鋭い歯がびっしりと生えており、身体から強烈な臭気を放っていた。

「この臭(にお)い……!」

 おじさんがそれに反応し息を飲む。その様子で察しがついた。

 ―――「処理部屋」で飼われていた魔物か!

「キューちゃん!」

 青ざめたアデライーデが呪文を唱え、ロッドを振りかざした。

 冷たい輝きを纏った氷の矢が薄闇の空を駆け抜け、今にもキューちゃんに牙を突き立てようとしていた魔物の後頭部に突き刺さる!

 魔物の咆哮が轟き、間一髪で事なきを得たキューちゃんはそこから逃げ出した。それを追う魔物に向かって、並走する船から跳んだドルクが魂食い(ソウルイーター)を振り下ろす! 深々と肉を裂かれた魔物の哮(たけ)りが上がり、海面が激しく波立った。

「喰らい尽くせ、魂食い(ソウルイーター)」

 ドルクがそう命じるが、極上の精気をたらふく食べたばかりの魔剣は口汚しをしたくない、とばかりに主の命令を拒否したらしい。

「ち……」

 舌打ちするドルクごと海面を跳ね上がった魔物の後ろで、ハルマナーンが動いた。目覚めたわけではなくその前兆のようだったが、巨体が動いて海が荒れ、漁船が木の葉のように揺れる。

「きゃあッ!」

 大きくバランスを崩したアデライーデが派手に転倒し、船の後部に転がされていたクンツにぶつかった。その瞬間、閉じられていたクンツの目が見開かれると、アデライーデの細首に腕を回し後ろから抱き込むようにして彼女を拘束したのだ!

「アデラ!」

 クラウスが顔色を変えて叫ぶ。

 しまった……! クンツの奴、いつの間に意識を……!

「はぁっ、はぁっ、動くなよ……妙な真似をしたらコイツで小娘の首を掻き切るぞ」

 先端の尖った漁具の仕掛けをアデライーデの首筋に当てがったクンツがすごむ。

「私の言う通りにしろ。まずは操縦しているそのくたびれた男以外は全員、海へ飛び込め。魔眼の女、お前からだ」
「クンツ、こんなことをしたところで―――」
「聞こえんな! さっさと飛び込め!」

 両耳から血を滴らせたクンツはわたしの言葉を遮り、激昂して泡を飛ばす。凶器を握る腕に力がこもり、首筋を浅く傷つけられたアデライーデが眉根を寄せてきつく目をつぶった。

 危うく揺れ動く船内で、極度の興奮状態にあるクンツは危険極まりなかった。

 ここは刺激することを避け、言う通りにするしかないか。

「……分かった」

 断腸の思いでわたしは頷き、荒れる海に自ら飛び込んだ。

 ―――ドルクに泳ぎを習っていて、本当に良かった。

 けれど、荒れる海で壊劫(インフェルノ)を持ったまま泳ぐことは容易ではなかった。漁船を回り込むようにしてクンツの後ろへ出たかったけれど、なかなか思うように泳げない。呼吸が続かなくなり、海面に何度も顔を出して半分溺れかけるようにしながら必死に泳いだ。

 ―――くそ、漁船からどんどん離れていく。

 ベルンハルトとクラウスが次々と海へ飛び込まされるのが見え、心細さと恐怖に怯えているだろうアデライーデのことを思うと気が急いた。

 その時―――脚の下から浮上してきた何かに水中で持ち上げられるような感覚を覚えあせったわたしは、そこに濃い緑色と銀色が入り混じったつるんとした体躯を目にして、驚きの声を上げた。

「キューちゃん!」
「キュー」

 キューちゃんが、わたしを自分の背に乗せるようにして泳いでいる。その目的が明確であるような気がして、わたしは愛らしい海神の子供に語りかけた。

「わたしの言葉が、分かる? あの船の後ろへ連れて行ってほしいんだ……アデライーデを、助けたい」
「キュイイー」

 ひと声高く鳴いたキューちゃんが加速する。みるみる漁船が近付いてきて、わたしはその背の上に立ち、壊劫(インフェルノ)を構えた。

 紅蓮の双眸を細め船上を注視すると、油断したクンツの手がアデライーデの首筋からわずかに離れているのが見えた。その隙間を穿つように狙いを定め、暗い紅色の輝きを帯びた魔剣を振るう!

 背後から唸りを上げた剣圧がクンツの手から凶器を跳ね上げ、奴が目を剥いて振り返った瞬間、キューちゃんの背を蹴って船上へと跳躍していたわたしはその顔を蹴り飛ばすようにしてアデライーデを奪取した。

「フレイアさん!」

 涙に濡れた瞳を瞠る彼女に微笑んで、クンツに剣を突き付ける。

「形勢逆転だ」
「う、うう……!」

 その時、再び大きく船が揺れ動いた。

「ああっ!」

 悲鳴を上げてよろめいたアデライーデをわたしが支えた隙に、クンツが身を翻し海へと飛び込む。

 くっ……!

 思わず歯噛みしたそこへ海面が盛り上がり、血にまみれた大型の魔物が苦悶の声を上げながらのたうつように跳ね上がった。

 ―――ドルク!

 振り仰ぐわたし達の眼前で、反動を利用して魔物の頭上高く跳んだ彼は、燃え立つような金色の双眸を輝かせながら飽食気味の魔剣を振り下ろした。

「喰わなくていい―――両断しろ」

 激烈な一撃を受け、脳天から真っ二つに裂けた魔物が断末魔を轟かせながら血飛沫を上げ、海に沈む。その身体の一部が波間に浮かぶクンツの上に降り注ぎ、薄闇の海に、悪行を重ねた男の盛大な悲鳴が響き渡った。
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