魔眼 情動

19


 深夜かと見紛うような暗い空、それを切り裂いて走る刹那の雷光。重々しい音を立てて荒ぶる波は建物を打ち付け、唸る風は窓を壊しかねない勢いで吼え狂っている。

 ドルクと共に三階を目指して疾走しながら回廊の窓からその様子を視界に捉えたわたしは小さく息を飲んだ。

 先刻までとは大きく景色が異なった外の風景。潮位が上がり、窓の外に見える大地は既にうねる海流に侵食されているようだった。この分だと一階にはほぼ間違いなく海水が流入していることだろう。

 あのまま地下に囚われていたら危なかった。こうなる前に全員連れて逃げ出すことが出来て良かった、と胸をなで下ろしながら、遠くからこちらへと迫る荒ぶる気配を建物の向こうに感じて、表情を引き締める。

 ―――何か、来る。

 その何かが、この現象を引き起こしている。

 掌にしっとりと馴染む壊劫(インフェルノ)がわたしの機微に反応して、ヒィン、と鳴いた。

「魔眼―――開眼」

 同調をより深める為の合言葉を口にすると、壊劫(インフェルノ)との回線が繋がり、魔剣の力がわたしに向かって流れ込んだ。茶色の瞳を煌めくような紅蓮のそれへと変えながら、階段を駆け上がり、三階へと到達する。

 荒ぶる海の異変に臆して逃げ出したのか、そこには見張りはおらず、フロアはひっそりと静まり返っていた。

 ドルクと共に部屋をひとつずつ検(あらた)めていくが、クンツの姿はどこにもない。書斎らしきところにも、私室らしきところにも、その姿は見当たらなかった。

 既に逃げたのか……? だが、そうとは考えにくい。

 クンツにとってこの急激な海の異変は想定外のことだったはずだ。証拠の隠滅もしないまま後ろ暗い秘密が詰まったこの別荘を空けることは、奴にとって自殺行為に等しい。ギリギリまでどうにかしようとあがくはずだ。

 それに、シュライダーから手に入れたこの鍵。これはどこの鍵なんだ……? 書斎のものでも、私室のものでもなかった。

「フレイア」

 ドルクが声を上げたのは、通路の突き当りに飾られていた大きな彫像の前だった。

「ここ、見て下さい」

 彼が指し示したのは荒波を纏った金属製の女神像の豊かな胸の左のふくらみだった。よく見ると、そこの部分だけほんのわずか、研磨されたような光沢を帯び、他とは輝きが違っている。

 おそらくは、何度も人が手を触れたことでそうなったのだろう。

 ドルクがゆっくりと女神像の左胸に手を当てがい、仕掛けを探った。すると微かな音がして、女神像が台座ごとゆっくりと横へずれ、隠された部屋の入口を露わにしたのだ。

 その先へ侵入するものを阻む重厚な扉にシュライダーの鍵を差し込むと、形がピタリと当てはまった。

 ―――ここだ。

 顔を見合わせて頷き、ドルクが勢いよく扉を開け放つ。彼に続き中に足を踏み入れると、隠し部屋の中央付近でこちらに背中を向けた壮年の男が一人佇んでいた。

 明り取りの窓から雷光が差し込む中、両腕に抱えきれない宝飾品を抱きしめるようにしたクンツが、茫然とした面持ちで窓の外を見下ろしていた。その足元にはカールマーンの角や書類、貴金属等が散乱している。

「いったい何が、起こっている……? 何故だ、何故急に、こんな―――」

 ひび割れた唇から呻(うめ)くような声を漏らし、クンツは独り呟き続ける。

「シュライダーはどこへ行った……あのバカめ、こういう時に役に立てなくてどうする……! 私一人では、これをどうにか出来んだろう……!」
「シュライダーなら二階で気絶しているよ」

 ロマンスグレーの髪を後ろへなでつけるようにした恰幅の良い奴の背中に、わたしはそう声をかけた。

「観念して投降しろ。お前は終わりだ、クンツ」
「……! き、貴様ら……」

 室内に長い影を落としたクンツがゆっくりと振り返る。奴はわたし達の姿を目にした瞬間、激しい憤りを露わにした。

「そ、その眼は、魔眼―――! そうか、魔眼、貴様らが噛んでいたのか! 貴様ら……貴様らがこの状況を引き起こしたんだなあぁ! 許さんぞ! 誰の指示だ! 誰に雇われてこんな真似をしでかしたぁッ!?」
「残念ながら、わたし達にこれほどの力はないよ。この状況はお前の数々の悪行が招き寄せたものじゃないのか―――お前が罪を清算する時が来た、そういうことなんじゃないのか!」
「黙れっ、小娘がぁ……!」

 激昂するクンツが唾を飛ばしたその時、波紋を描いて鼓膜を震わせるような、物々しい重低音が突如として辺りに響き渡った!

 ボォエェェェェ―――!

 脳蓋(のうがい)に響く、まるで衝撃波のような伝播(でんぱ)。窓ガラスが粉々に砕け散り、壁にひびが入って崩れ落ちる。海側が剥き出しになった室内に荒れ狂う海水の飛沫(しぶき)が雨のように降り注ぎ、ずぶ濡れになったクンツが盛大な悲鳴を上げた。

「おあぁぁぁーっ!?」

 突然の衝撃から身をかばうようにしていたわたし達は吹き荒(すさ)ぶ風の向こう、荒れ狂う海の中に巨大な影を見出し、息を凝らした。

 あれは……!?

 それは小島かと見紛うような巨大な生物の影だった。雷光に浮かび上がるその体躯は濃緑がかった銀色でつるんとした光沢を帯び、鼻の先には螺旋状の溝を持つ長い一本角が突き出ている。水を掻くのに特化した胸びれのような前足と中央に切れ込みのある扇型の大きな尾びれを持ち、胸びれの対角線上には、まるで鳥のような白い翼が生えていた。

 カールマーンに似ているけれど、カールマーンではない。

 おそらくはこの海域の主―――地元民達から海神ハルマナーンと呼ばれる存在だ。

 その巨大さもさることながら、わたしとドルクはその魔物を見た瞬間、同じ推論に至っていた。

「―――似てますね」
「ああ、キューちゃんにそっくりだ」

 だから、あの子は海に出たがっていたんだな。ハルマナーンの―――親の気配を感じたから―――。

 あの子には翼がなかったけれど、おそらく元々は、あの子にも翼があったのに違いない。

 思い返してみればシュライダーも傭兵達も、誰もあの子を「カールマーン」とは呼んでいなかった。

 あの子はカールマーン狩りに巻き込まれる形で翼を失い、ひどい重傷を負ったけれど、アデライーデとクラウスのおかげでどうにか一命を取り留めた。

 あの子がハルマナーンの子供であれば、クンツがたった一体の魔物の子供に執着し、あれだけの手勢を放った理由も理解出来る。

「ひっ、ひぃぃぃ……!」

 ハルマナーンの姿を目の当たりにしたクンツは腰を抜かし、床の上を無様に尻で後退(あとずさ)りした。

「どっ、どうして、ここへ―――!? わ、私じゃない、あれは部下が―――」

 海水でぐっしょり濡れた髪を振り乱し、醜い言い訳を口にする。

「こっ、ここにはいない……ここには、いないんだ! それにわざと狙ったわけじゃない! カールマーンの群れの中に、あれが……たまたまあいつが、紛れ込んでいたんだ!」

 叫ぶクンツの声にハルマナーンの怒りの咆哮が重なった。

 ボォエェェェェ―――!

 再びあの重低音が響き渡る。壁がない分、先程よりもその威力を強烈に感じて耳が痛んだ。既に半壊していた隠し部屋がその衝撃に耐え切れず、瓦解する。

「ぎゃああぁぁぁぁーっ!!」

 足場が崩れ、クンツが絶叫をまき散らしながら落ちていく。追うように跳んだドルクがその身体を掴み、脇に抱え込むようにして二階のバルコニーに着地した。わたしも彼らの後を追うようにしてバルコニーに着地する。

 クンツのことなんかかばいたくはないけれど、奴が犯した罪の全貌を知る為には、まだ奴に死なれては困るんだ。

 そのクンツは衝撃波のダメージと落下の恐怖で、両耳から血を流し気絶していた。奴をバルコニーの奥へと投げ入れるようにして隠し、ドルクとわたしは怒りを滾(たぎ)らせるハルマナーンと向き合った。

 さっきまでは見下ろす形だったハルマナーンの顔が今は目の高さと同じ位置にある。その周囲に、別荘の下辺りからひとつまたひとつと浮き上がってきた何かが、潮の流れに導かれるようにして寄り集まっていた。

 あれは―――地下の処理部屋に投げ込まれていたカールマーン達の亡骸か。地下に流れ込んだ海水が逆流する形で海へと流れ出てきたのか。

 海面には隠し部屋と共に落下したカールマーンの角も無数に浮いていた。

 ハルマナーンの両眼が激しい怒りに彩られ、その気配が全身に満ち満ちていくのが分かる。

 ボォエェェェェ―――!

 海神が再度怒りの咆哮を上げた時、海の気配が変わった。

 ズドオォォォオ……。

 荒ぶっていた波が不気味な音を立てて不自然に方向を変え、轟々とうねりを帯びながらハルマナーンの背後へと集まり始める。

「……まずいですね」

 それを目にしたドルクが呟く。

「ああ……眷属の死を目の当たりにして怒り狂っている。キューちゃんが無事だと伝えたとして、止まってくれるかどうか」
「伝わってくる怒りが深過ぎる―――キューちゃん自身を目にしないうちは無理でしょう。傷付けたくはありませんが、このままではダハールの街が壊滅する。まずは止めないと」
「ハルマナーンの怒りを魂食い(ソウルイーター)に喰わせることで鎮められる?」
「海神の精気は極上でしょうね。魂食い(コイツ)が喰らい尽くさないように努めます」

 瞬く間に質量を増し巨大な津波が形成されていくその光景を見やりながら、わたしとドルクは魔剣を構えた。

「津波をお願い出来ますか?」
「任せろ。何とかする」

 ハルマナーンの背後に蓄えられていく山のような津波に視線を光らせ、わたし達は互いの相棒との同調を極限にまで高めながら、全神経を研ぎ澄ませてその時を待った。

 ボォエェェェェ―――!

 大津波を背後に従えた海神が吼える!

 ―――今だ!

 暗い紅色の輝きを帯びた壊劫(インフェルノ)の刀身がわたしに呼応し、ひと際眩(まばゆ)い光を放つ!

「颶風(トルネード)!」

 ハルマナーンの頭上から大津波が解き放たれようとしたまさにその瞬間、わたしは漏斗状になった超高速の剣圧の渦をそこに向かって叩き込んだ。

 剣圧が津波を割り、ハルマナーンの左側を突き抜けて、轟音をとどろかせながら背後の海をも断ち割っていく。間髪入れず、返す刃でもう一度それを右側に叩き込むと、左右の海が割れて、ハルマナーンの姿が剥き出しになった。

 その刹那、ドルクはバルコニーの柵を足場にして跳躍し、ハルマナーンの長い一本角の先端に降り立つと、瞬時にしてその距離を詰め、角の付け根に深々と魂食い(ソウルイーター)を突き立てた。

 大津波を放った直後で無防備になっていたハルマナーンは突然の襲撃者に怒号を上げ、暴れ狂う。

 極上の精気にありついた魂食い(ソウルイーター)の歓喜の声が、滾るような紫色のオーラとなってわたしにも伝わってくるようだった。

「喰らい尽くすな……! 頭に上った血を抜くだけでいいんだ……!」

 荒れ狂うハルマナーンの鼻先でドルクが魂食い(ソウルイーター)の制御に努める様子を目に捉えながら、わたしは再び剣を振るった。

「爆裂(エクスプロージョン)!」

 爆音を立て、広範囲の水際で派手な水柱が立ち上がった。

 ド、ド、ド、ドオオォンッ!

 市街地へと向かう津波の余波を斬り裂いて水柱を立ち上げ、後続の波を抑える盾のようにしたのだ。

 その時、業を煮やしたハルマナーンが翼を羽ばたかせた。海上に大きな波紋を描いて浮かび上がりながら、ドルクを振り落とそうと滅茶苦茶に頭を振り回す。その瞬間、頭上の黒雲が微かに光った。

「ドルク!」

 声を上げたわたしの目前で、異変を察知した彼が魂食い(ソウルイーター)を素早く引き抜く。次の刹那、耳をつんざくような轟音と共にハルマナーンの頭上へ落雷が炸裂した!

 それは一瞬の出来事だった。

 ひと声高く苦悶の叫びを上げ、ハルマナーンが海中へと落下していく。

「―――ドルク!」

 雷光の眩(まばゆ)さに目が眩(くら)んで、荒天の闇空に彼の姿を見出すことが出来ない。わたしは必死に目を凝らしたけれど、ハルマナーンの巨体が落下するとその凄まじい衝撃で大規模な水柱が立ち上がり、飛び散る水飛沫で視界が覆い尽くされてしまった。

「ドルク―――ッ!」
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