魔眼 情動

02


 好きな女性に泳ぎを教えてほしいと言われて、喜ばない男はいないだろう。

 頼られる純粋な喜びと彼女の水着姿を見られるという下心、そして指導という名目の下、自然な流れで彼女とのスキンシップを図れるという不埒な想い。それを持たない男がいたら、見てみたいものだ。

 ―――だが、オレの好きな相手は類稀(たぐいまれ)な身体能力の持ち主で。そして彼女は勘の良さも飲み込みの早さも適応力も、一般のレベルを遥かに凌駕していて。

 こうなる予感は、していたんだ……。

 習得したてのクロールで青い海を自在に泳ぎ回るフレイアを見やり、オレは小さな溜め息をもらした。

 ひと通りの簡単な説明とオレの手本を見ただけで、彼女はあっという間に泳ぎを体得してしまった。それこそ、スキンシップなど図る間もないほどの早業で。

 そして今は、傍目にはとても泳ぐのが初めてとは思えない見事な泳ぎを披露している。

 スキンシップはおろか、ラッシュガードを着ている為に未だその水着姿を見ることすら出来ていない現状に落胆の色は隠せないが、それでも先程ビーチで目にしたスラリと引き締まった彼女の脚はしなやかな脚線美を描いていて、オレの鼓動を不規則にさせた。

 背が高く凛とした容姿のフレイアはその場にいるだけで自然と人の視線を集めてしまうようなところがある。彼女自身にその自覚はないが、ビーチの彼女に絡みつく男達の視線はひどく不快だった。自分が初めて目にした彼女の生脚を他人の目に晒すことが耐え難く、彼女が泳ぐ気満々なのをいいことにオレは早々に彼女を海の中へと引き込んだ。

 そんな独占欲の強さに内心苦笑いする。脚だけでこれなのだ、水着姿などとんでもない。ラッシュガードを着せていて正解だった。

 そのせいで自分も未だ彼女の水着姿を拝めていないこの現状は本末転倒な気がしないわけでもなかったが、まあ、それはこの際仕方がないと割り切ろう。

 その時、鮮やかに水を掻き分けてフレイアがオレの元へ戻ってきた。

「どう!? だいぶ泳げるようになっただろ!?」

 生き生きと瞳を輝かせ、晴れやかな顔でそう報告する彼女に、自分の瞳が和らぐのを覚える。

「もう、普通に泳ぐ分には充分なレベルだと思いますよ」

 充分というか、充分すぎるくらいだが。

「楽しいですか?」
「うん! 想像以上に楽しいし、気持ちいい! もっと早く習っておけば良かった」

 彼女のはつらつとした笑顔を受けて、若干落ち込んでいた気持ちが引き上げられる。自然と頬が緩むのが分かった。

 そんなオレの様子に何か思うところがあったのだろうか。こちらをまじまじと見つめ、フレイアが改まった面持ちで話しかけてきた。

「―――ねぇ、ドルク」

 凛とした茶色の双眸をひたむきにオレに向けて何か言いたげに口を開きかけ、その続きを発しないまま口を閉じる。

「……? 何ですか?」
「ううん―――ねえ、あの岩場まで行ってみない?」

 フレイアが示したのは遊泳区域ギリギリにある岩礁だった。あの辺りは水深があり、泳ぎに自信がある者でないと行けない場所だ。

 まあ今の彼女なら問題ないだろう。オレも付いているしな。

 ついでなので立ち泳ぎと平泳ぎを教えると、フレイアはそれもすぐに習得した。優秀過ぎて教え甲斐がないのが少々残念だが、泳ぎのレパートリーが増えて嬉しそうな彼女の様子にそんな思いも霞んでいく。

「岩場は滑りやすいですし、ところどころ鋭利なので手足を切らないように気を付けて下さい」
「うん、分かった」

 連れ立って泳ぎながら岩礁までたどり着くと、何人か先客がいた。足を海面に浸しながら語らったり、高いところまで上って景色を堪能したり、みんな思い思いに海でのひと時を楽しんでいるようだ。岩場に上ったオレ達は海から突き出た大きな岩を回り込むようにして、ビーチとは反対側の岩棚に腰を下ろした。

「うわぁ……スゴいね、絶景!」

 額に手をかざして目の前に広がる大海原と水平線を眺めやり、フレイアが感嘆の声を上げる。

「雄大ですね」
「うん! こうして見ると、海って本当に広くて大きいんだな。太陽の光が海面に反射して、キラキラしてる。すごく綺麗だ……」

 オレからすれば、そうやって隣で顔を輝かせているあなたの方がよほど綺麗に映るんだが―――周りに人さえいなければ、肩を抱き寄せてキスしたいところだった。

 水に濡れた姿が、艶を増して半端でなく美しい。爽やかに晴れ渡った空の下、無邪気に海を満喫する彼女を見て、清爽なその光景とは裏腹に、自分の中に滞留する不健全で邪な思いが鎌首をもたげるのを感じる。

 トラッサ地方で知り合ったエリスの屋敷に成り行きで宿泊することになった夜、半月の浮かぶ中庭での出来事が脳裏をよぎった。オレの腕の中で吐息を乱し、甘く切なく啼(な)いたフレイア―――出来ることなら、あのまま彼女を抱いてしまいたかった。その想いが、あの夜からずっとオレの中で埋火となってくすぶり続けている。

 だが、フレイアの方はあの件で自分を戒め直したらしかった。あれからガードが固くなって、なかなか隙を見せてくれない。おかげで最近はろくにキスも出来ていなかった。今日はそのくすぶりを幾分なだめられるかもしれないと思ったが、前述の通り彼女は手強く、くすぶり続ける日々が続いている身としてはやるせない状況だ。この禁欲状態でどこまで持ちこたえられるのか―――ある意味、自分との戦いになっていると言えるかもしれない。

「ねぇ、ドルク」

 そんなオレをにわかにフレイアが覗き込んだ。

 不意を突かれて自分の心臓が音を立てるのを感じる。防具を身に着けていない状態でここまで距離が近いのは久々だった。真摯な表情で見つめられて、平静を装いながら内心では昂る自分を抑えるのに苦労した。

 まずい。今日のオレはいつになく沸点が低い。こんなふうに見つめられただけで、ここまで心乱されるのか。

「何ですか?」

 慎重に紡ぎ返した声は、多分普段と変わりなかった。

「あのさ―――」

 フレイアは下目がちに瞳を彷徨わせると、ややしてからオレに視線を戻し口角を上げた。

「……また泳ぎたくなってきちゃった。戻ろうか!」

 明らかに、本当に言いたかった言葉はそれじゃないだろう。

 いったいどうしたんだ?

 さっきから何かを言いたそうにしている素振りは見せるが、彼女が何を思い何をためらっているのか、オレには思い当たる節がなかった。

 こちらから尋ねてみようかとも思ったが、逡巡してやめた。今日のオレには余裕がない。

 あの様子ならそのうちフレイアの方から意を決して話してくることだろう、そう考えて、立ち上がった彼女の背を追った。



*



 ―――うわぁ、言えない! 言えないよ!!

 ビーチに向かって泳ぎながら、わたしは一人心の中で悶えていた。

 何が言えないかって―――それは、ドルクに対する自分の気持ちだ。

 エリスの屋敷での出来事の後、なるべく早く自分の気持ちを彼に伝えないといけないと思ったわたしだったけど、未だにそれを伝えることが出来ないまま今日(こんにち)に至ってしまっていた。

 このままじゃ、いけない。

 そう思いつつもずるずると行動に移せなくて、今日こそは、今日こそはもう絶対に言うぞ! と密かに覚悟を決めてきたはずだったのに。

 ―――なのに、どうして言えないんだッ!?

 いつもと違うシチュエーションで開放的な気分になれば、きっと勢いで言える! そう思ったんだけど、いざドルクを目の前にすると、恥ずかしさでいっぱいになってしまってダメだった。

 こちらの気持ちを伝えるまでは間違ってもいい雰囲気にならないようにあれからずっと気を張っているから、ここしばらくはドルクとまともに触れ合っていない。何度か隙を突かれてかすめるようなキスをされたくらいで、ちゃんとしたキスもずっとしていなかった。

 そんなこんなでわたしは今、自業自得のある禁断症状に悩まされている。

 それは―――うう……言葉にするのもスゴく恥ずかしいことなんだけど。

 キスがしたくて―――ドルクとキスがしたくて、たまらないんだ―――彼と、ちゃんとしたキスをしたい。

 ああ、もう、バカだ! バカだろう、わたし!!

 心の中で頭を掻きむしりたくなる。

 自分の気持ちを伝えれば、彼が受け入れてくれることは分かっているのに。こんなにお膳立てされた状況が整っているのに。

 片想いをしている人が聞いたら怒って殴られそうなバカな悩みだ。

 ああ、わたしのヘタレ……自分がこんなにも意気地なしだとは思わなかった。

 青く澄んだ海の中を泳ぎながら、心の中でひっそりと溜め息をつく。自分から気持ちを伝える立場になって、それがいかに勇気がいることなのか思い知らされた。

 ドルクは何度もわたしに気持ちを伝えてくれているのに……その度にハッキリとしないわたしの態度を見て、彼はどんな気持ちになったんだろう。それを考えるといたたまれない気分になった。

 やっぱり、頑張らないと。ドルクの為にも、自分の為にも。

 改めてそう決意する頃には浜辺の近くまで戻ってきていた。泳ぎを止めて足を着けたわたしの少し後ろに、同じように泳ぎを止めたドルク立つ。

 その時だった。

「わっ!」
「えっ? きゃっ!」
「痛いっ!」

 波打ち際の方でそんな声が次々と上がった。見ると、悲鳴を上げた人々の間を縫うようにして海面下を黒い影がこちらへと進んでくる。

 一瞬魔物かと思ったけれど、近付いてくるとそれが人間であることが分かった。手に刃物でも持っているのか、海中でゆらりと光るものが見える―――この野郎! 何が目的だ!?

 影が射程圏内に入ったことを確認し、わたしはそいつを海中から思い切り足で蹴り上げた。立ち上がる水柱と共に小柄な中年男が海面を跳ね上がり、「ほげぇっ!?」とひしゃげた声を上げて海の中へ落ちていく。衝撃で脳震盪でも起こしたのか、そのままぷかりと海面に浮いて、無様な姿を太陽の下に晒した。

「うわぁ、あのお姉さんスゴい!」
「やるねェ!」
「カッコいい〜!」

 歓声が上がる中、やって来たライフガードの人達が海面に浮かんだ男を確保する。

 あれ? そういえばあいつが手に持っていた凶器は―――。

 そう思ったのとドルクが「フレイア!」と声を上げるのが同時だった。直後、左足の裏に走った鋭利な痛み―――わたしは思わず顔をしかめた。

 しまった、海中に落ちてたのを踏んでしまった。

「いたた……これ、その男が持っていた凶器」

 言いながらライフガードの人にサバイバルナイフを手渡すわたしをドルクが勢いよく抱き上げた。

 わっ!

「―――救護所は!?」

 張り詰めた声でドルクがライフガードの人に場所を尋ねる。場所を聞くと、彼はわたしを横抱きにしたまま急ぎそこへ向かって走り出した。

「少し我慢して下さい……大丈夫ですか?」
「ちょっと深く切ったかも……でもまぁ、仕事柄痛みには慣れているから。あんたにはまた詰めが甘いって言われそう……」
「自覚があるなら気を付けて下さい。今日は魂食い(ソウルイーター)を持ってきていないんですから」
「うう……ゴメン」

 どうしてか、ドルクの前ではどうにも決まらないなぁ、わたし。

 思わずしょぼくれるわたしを見やった彼は、大きなこげ茶色の瞳を少しだけ和らげた。

「あの蹴り上げはさすがでしたけどね。あの男もまさか、水中からあそこまで蹴り上げられるとは思っていなかったでしょう」

 そう褒められて、落ち込んでいた気持ちが浮上する。我ながら単純だとは思うけど、好きな相手に認められるのはやっぱり嬉しい。

「あいつ、何だったんだろうね? 切りつけ魔?」
「おそらくそういう類じゃないですか? 何にしてもクズに違いないですね」

 そのクズが落とした獲物に不覚を取った次第ではあったけれど、結果もたらされたこの状況は、自縄自縛のスキンシップ不足に陥っているわたしにとって思いがけない幸運と言えるのかもしれなかった。

 わたしを抱く力強い腕が温かい。見上げるとすぐそこにドルクの整った顔があって―――少し手を伸ばせば、さっきキスしたいと思っていた彼の形の良い唇に届く距離だ。ラッシュガード越しに触れるドルクの硬い質感に、じわじわと頬が熱を帯びていく。

 うわぁ、何だかふしだらだ、わたしの思考! やっぱり欲求不満なのかな……!?

 火照った顔を悟られないようそっとうつむけてドルクの胸に額を寄せると、力強く拍動する彼の鼓動が聞こえた。

 あ……初めて聞いたかもしれない、ドルクの鼓動……。これまで何度も密着することはあったけれど、いつも自分の心臓の音がうるさくて、彼の心音は今まで耳にしたことがなかった……。

 不謹慎だと思いながらも、幸せに感じてしまうひと時。けれどもう、救護所の旗が見えてきてしまった。

 南国の木を用いて作られた、大きな三角屋根のついた平屋の建物がそうらしい。その木造りのドアを開け放つようにしてドルクがわたしを運び込んだ。

「すみません、お願いします。刃物で足の裏を切って―――」
「ああ、はい、そこの上に寝かせて下さい。あらあら結構出血してますね、とりあえずこのタオルで傷口を縛って。すぐに先生に診てもらいましょうね」

 入口すぐのところにいた看護師らしい小麦色の肌をした中年の女性がそう言って、てきぱきと指示をした。

 室内は簡素な作りで、診察台や医療器具の置かれたワゴンなんかの他に薬品棚や、床の上に枕と敷布が置かれただけの患者を横にする為の簡易な寝床が十名分ほどしつらえられているのが見えた。

「さっき切りつけ騒ぎがあって。これから数人、こちらへ駆け込んでくると思います」
「まあ、そうなの!? 大変! 先生! 先生、聞きましたー!?」

 ドルクの話を聞いた看護師が目を見開いて、奥で子供の手当をしていた医師に声をかける。軽く手を上げてそれに応えた医師は手当てを終えたらしい子供の頭をくしゃりとなでると、立ち上がって白衣の裾を翻しこちらへと来た。

 その顔を見て、わたしは驚いた。ひどく見覚えのある顔だったからだ。

 色素の薄い茶色の猫っ毛に、穏やかな青い瞳。細いフレームの眼鏡をかけたその顔立ちは端正だが、ふわりとした彼独特の柔らかな雰囲気がそれを包み隠している。

 診察台のわたしを見て、彼も驚いた表情を見せた。

「……フレイア?」

 わたしの名を呼ぶ相手の名を、わたしも久し振りに呼び返す。

「クラウス……」

 こんなところで昔付き合っていた男と再会することになろうとは―――夢にも、思っていなかった。
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