当時そこで医師の助手をしながら医学を学んでいた彼は、独りで危険な任務をこなすわたしの身を案じ、色々と親身になってくれたものだ。四つ年上の彼は優しく穏やかで包容力があり、殺伐とした戦いの日々に明け暮れていたわたしの心を癒してくれた―――そんな彼と恋に落ちるのに、そう時間はかからなかったように思う。
アリシャの一件を心の中でずっと引きずっていたわたしは、どこか急ぐように彼と肌を重ねた。初めて感じる他人の体温に安心感と一抹の心許(こころもと)なさを覚えながら、身を委(ゆだ)ねた。
それからしばらくは穏やかな関係が続いたと思う。
けれど、恋人に危険な仕事を続けさせたくないと考えるクラウスと、この仕事に就き続けたいと考えるわたしの間にはいつしか溝が出来、それを修復することが叶わないまま、わたし達は別々の道を行くことになった。
そして今日まで、顔を合わせることなくそれぞれの道を歩いてきたのだが―――……。
*
「知り合いですか?」
ドルクにそう尋ねられて、クラウスの顔に見入っていたわたしは我に返った。
「あ、うん。昔仕事で怪我をした時に世話になったんだ」
元彼だというのは、何となく言いづらい。
無難な説明に留(とど)めるわたしの前で、クラウスはドルクに穏やかな微笑みを向け大人の対応を見せた。
「クラウスです。初めまして―――彼女は毎度冷や冷やさせられる患者でした。任務の都度怪我をして帰ってきて―――今日も、怪我かな?」
うう、まあそうなんだけどさ。
「今日は仕事の怪我じゃないから……」
少し口を尖らせて診察台の上から彼を見上げると、微苦笑された。
「その格好を見れば分かるよ。切りつけ騒ぎがあったってさっき言っていたけど、犯人は君らが取り押さえたのかな?」
「取り押さえたというか―――彼女が相手を蹴り上げて気絶させて、それをライフガードに引き渡した感じですね」
ドルクがそう応じるとクラウスはわたしの左足首を手に取り、足の裏の傷を診ながらこう言った。
「相変わらず豪快だね。犯人も気の毒に―――その時に取り落とした凶器を誤って踏んでしまったというところかな? この怪我は」
しっかり見抜かれている。
「その通りだよ……」
憮然とした面持ちで答えながら、自分の足首を掴むクラウスの左薬指に光るマリッジリングに気が付いた。
クラウス、結婚したのか。
それを知って、胸に不思議な安堵感が広がっていく。
良かった……いい女性(ひと)に巡り合えて幸せになれたんだな。
お互い嫌いになって別れたわけじゃなかったから、ああいう別れ方をした彼がその後どんな道を歩んでいるのか案じていた部分があったのかも知れない。それが払拭されて、心から良かったと思えた。
「しっかりしていそうなのにおっちょこちょいなのは変わらないね―――はい、少し沁みるよ。我慢して」
化膿止めの軟膏を塗られた箇所にぴりっとした痛みが走る。こういう時は療法士(ヒーラー)のありがたさが身に染みるなぁ。アレクシスでもこの場にいてくれたら痛みもなくたちどころに傷を癒してくれただろうに。
傷口にガーゼを当て手際よく包帯を巻きながらクラウスが所見を述べた。
「縫うほどじゃなかったけど結構深く切れているから今日は安静にするように。治癒力の高い軟膏を塗っておいたから、明日になればほぼ痛みなく歩けるようになると思うよ」
「分かった、ありがとう」
「フレイア、彼も同業者?」
わたしの傍らのドルクを見やりながらクラウスが尋ねた。
「ああ、うん、彼はドルク。一緒に組んでいるんだ」
遅ればせながらドルクをクラウスに紹介する。目礼するドルクにクラウスは微笑を返し、やや声を潜めてわたし達に確認してきた。
「なら、後でちょっと話せないかな? 君達に相談したいことがあるんだ」
相談?
尋ね返そうとした時、にわかに入口の方が騒がしくなった。切りつけられた人達が救護所へ駆け込んできたらしい。
「先生! 先生―!」
慌ただしさを増す救護所内で医師の彼と詳しい話を交わしている余裕はなさそうだった。
「夜にでもまたここへ来ればいい?」
気を遣ってこちらからそう返すと、クラウスは申し訳なさそうに頷いた。
「悪いね、こちらから話を振っておきながら……しかも安静にしていろと言っておいた傍から。でも、お願い出来るかな?」
それを押しても相談したいと考える案件なんだな―――何か、わけがありそうだ。
「分かった」
事後承諾ながらドルクに目で確認すると、仕方がない、とばかりにひとつ息をつかれてしまった。
*
外へ出ると太陽はまだ高い位置にあった。
日が沈むまでまだだいぶある。一度宿へ戻って出直すことにしたわたし達は救護所の裏手で真水のシャワーを浴びていた。
海水って思ってたよりベタつくんだなぁ。
ドルク曰く、そんな海水の成分を落とすのに欠かせない真水のシャワーは本当はビーチに何軒かある休憩所でお金を払って浴びるものらしいけど、救護所にはそこを利用した人用に無料で提供されているものがあって、わたし達はそれを使わせてもらっていた。
左足を負傷した状態のわたしは近くの縁石に座って患部の包帯が濡れないよう気を付けながら、ドルクにシャワーをかけてもらっていた。頭からかけられる真水は太陽の熱で程良く温(ぬる)まっていて心地いい。
だいたい海水の成分を洗い流し終えたとおぼしきところでわたしはドルクに声をかけた。
「もういいよ、ありがとう」
背後できゅっとコックを閉める音がして水が止まった。
「ラッシュガードを脱がないんですか?」
タオルに手を伸ばそうとしたわたしにドルクがそう尋ねてきた。
「え?」
「そのままだとベタつきますよ。きちんと流さないと」
「いや、でも―――」
わたしはためらって傍らに立つ彼を見上げた。
ドルクの言わんとしていることは分かる。でも―――脱ぐの? ここで?
「いや……いいや。だいたい流せたと思うし、ちょっと恥ずかしいし」
逡巡して断ると、彼は軽く小首を傾げてみせた。
「今はオレしかいませんから、そんなに気にすることないと思いますけど」
いや、それが問題なんだよ! 他の誰でもなく、あんたに見られるのが恥ずかしいんだって!
とは思ったけど、それを口には出せなかった。
下手に意識し過ぎなのかなと思ってしまったんだ。
海水浴に来てる人達はみんな当たり前のように水着姿で堂々とビーチを闊歩していて、そういうところへ自分も水着を着て泳ぎに来た口なのに、今更水着姿を見られるのが恥ずかしいと言い張るのも何だかおかしな話なのかな……と。しかもドルクとは昨日一緒に水着を買いに行ってて、彼はわたしがどんな水着を選んだのかも知ってるんだし。
いや、でもやっぱり水着そのものと水着姿を見せるのとはまた別な気がする。でも、ドルクが言ってることはもっともだし。ううーん!? 分からなくなってきた!
「フレイア?」
「あ―……うん」
迷いながらも手がラッシュガードのファスナーを下げる動きへと移っていた。
さっとシャワーで流して、またさっとこれを羽織ればいいんだ、うん!
そう覚悟を決めてラッシュガードを脱ぎにかかる。手首からそれを脱ぎ去るとドルクが小さく息をもらすのが聞こえ、彼の視線を肌に感じて頬が赤らんだ。
やっぱりダメだ、恥ずかしい!
上が黄色のホルターネックタイプのビキニで、下が濃紺色のホットパンツタイプの水着。自分の身体が基本的に筋肉質で、まろみがなく、全体的に柔らかな女らしさに欠けることは知っている。
「あまり見ないで、恥ずかしいから」
そういうことを口にしてしまっていること自体が恥ずかしくていたたまれなかった。
「どうして? 綺麗ですよ」
再びコックを捻る音がして、水が流れ始めた。
ダメだ。変に意識してしまって、ドルクの方が見れない。
さっきまで頭上から注がれていたシャワーをそっとうなじの辺りにかけられて、小さく身体が揺れる。それをごまかすようにわたしは下目がちに口を開いた。
「こういうのはやっぱり女らしい体形の人が似合うもん。わたしは引き締まり過ぎちゃってるしさ……」
言いながら気が付いた。
わたしは恥ずかしいというより、ドルクの目を気にしていたんだな。自分の身体を見て彼ががっかりしてしまうかもしれないと思ったら怖くて、見せたくなかったんだ。
だって、ドルクは多分これまで、たくさんの女らしい人達と関係を持ってきたから。
その相手を実際に一人だけ知っている。リルムというとても綺麗な娘(こ)だった。術士(メイジ)の彼女は細くて、柔らかくて、小さくて―――いかにも守ってあげたくなるような華奢な女性だった。わたしとは正反対のタイプだった。
クラウスと付き合っている時はこんなこと考えたかな……あの頃はまだ16歳でむこうみずな部分もあったからか、彼に肌を見せることをここまでためらったような記憶がない。
「オレ達の職種で身体が引き締まっていない方がどうかと思いますけど……」
ドルクが柔らかくシャワーを動かして水流がうなじから鎖骨へと移動した。意識の外で変化した規則的な水圧の刺激に、思わず息を詰める。自分でシャワーを持っていないからその動きの予測がつかなくて、変に反応してしまった。
「オレは綺麗だと思います、あなたの身体。しなやかで、程良く引き締まっていて」
静かな熱のこもった声。
そろりと視線を上げると、奥底に熱いものを滾(たぎ)らせた、甘やかな光を揺らすこげ茶色の双眸がじっとわたしを見つめていた。
ドクンッ。
胸が揺れるかと思うほど心臓が大きく音を立てて、彼から瞳が逸らせなくなった。
何ていう眼でわたしを見ているんだろう、この男(ひと)は。身体の奥底から震えが来るような、そんな眼差しで―――……。
彼の眼差しに男を感じて、自分の顔が女の顔になるのが分かる。
ヤバい。こういう雰囲気はまずいって分かってるのに……早く、眼を、逸らさないと―――。
そう思うのに、彼の姿を捉えた瞳が逸らせない―――囚われる―――魔性の、双眸に。
動きの止まったわたしの鎖骨の辺りにそっとドルクの手が置かれて、海水の成分を洗い流すような動きを見せた。彼の器用な指先がなでるように肌の上を滑って、その刺激に身体が震える。
「滑らかで吸い付くような質感の肌も―――」
わたしを蕩かすように見下ろし囁く低い声音が熱い。優しく繰り返される指の余韻が肌を甘くくすぶらせる。
吐息を乱すわたしの胸のふくらみを鎖骨から下りてきた手が包み込んだ。
「ぁ……っ……」
「柔らかな胸も―――」
びくっ、と反応するわたしの様子を見やりながら、ドルクは爪先で水着の上から胸の先端を弄んだ。
「感じやすいここも―――」
「ぁぁ……っ……!」
胸の先に走った甘い愉悦に身体がわななく。
「ひどく魅力的で……可愛い」
「や……ダメッ、ダメ……ドルク……!」
わたしは真っ赤になってかぶりを振りながら自分の胸を包み込む彼の手に手を重ねた。
「どうしてですか……? そんなに可愛い反応を見せてくれているのに」
「んんっ……!」
水着の上から優しくいらわれ、存在を主張するそこを指先で摘まれて、背が弓なりに反る。頬を紅潮させながら、これ以上声を漏らすまいとわたしは懸命に唇を引き結んだ。
ドルクの仕掛けた誘惑に流されそうになる。流されて、身を任せてしまいそうになる。
ダメ……! まだ、きちんと気持ちを伝えられていないのに!
眉をひそめ、与えられる刺激に耐えながら、わたしは息も絶え絶えにドルクへ訴えた。
「やだ……! こんなトコ、でっ……!」
ドルクの手が止まる。思いが通じた? 心許(こころもと)なさを覚えながら彼を見やると、ドルクはまだ魔狼の表情を崩していなかったけど、どこか冗談めかした口調でわたしに問いかけた。
「……。こんなところでなければいい、っていう意味ですか……?」
わざと言葉尻をとらえるような、冗談半分、本気半分といった雰囲気の声色と視線。
触れられることを拒絶するわけじゃないけれど、今は頑なに彼の手を拒むわたしの心の機微を察して、ドルクが敢えてそういう空気を作り出してくれているのだと気が付いて、わたしはホッとした。ホッとすると同時に煮え切らない自分に対する自己嫌悪を覚え、そして彼の洞察力と柔軟な対応力に頭の下がる思いがする。
ドルクはわたしよりひとつ年下だけど、こういうところはわたしよりずっとずっと大人だ。
「あ、揚げ足を取るなよ……!」
ドルクが言外に差し伸べてくれた逃げ道を使いながら彼の手を振り払い、素早くラッシュガードを身に纏った。
「わたしはもういいから! 今度はあんたの番、早くシャワー浴びて宿に戻ろう」
「……分かりました」
ドルクは溜め息混じりに頷くとシャワーヘッドをホルダーに掛け大人しくシャワーを浴び始めた。どうなることかと思ったけど彼の機転のおかげで気まずい雰囲気にならずに済んだ、とまだ動悸の治まらない胸をなで下ろしながらそれを眺めていた時だった。
ドルクがおもむろに着ていたラッシュガードを脱ぎ去り、たくましい彼の半身が露わになって、動悸を鎮めようとしていたわたしの胸は鎮まるどころか逆に激しく高鳴ってしまった。
研ぎ澄まされた鋼のような肉体美。鍛え抜かれ引き締まった筋肉の隆起が頭上から降り注ぐシャワーの水圧を弾く様は匂い立つような男の色気に溢れていて、見ているだけでくらくらした。
いつもは整髪料で立ち上げている前髪がしっとりと濡れて額に下りている。前髪を下ろすとより幼く見えるはずの穢れのないその容貌は、露わになった上半身のせいだろうか、今は何故か艶を増して、彼にしか醸し出せない独特の色香を放っていた。
ドルクの肉体が清らかに整ったその面差しからは想像も出来ないほど厚くて頑強なことは知っていたけれど、わたしがそれを知っていたのはあくまで布を隔てた上でのことだった。
あの胸に、あの腕に、わたしは何度も抱きしめられてきたのか。白日の下に晒された彼の身体を初めて目の当たりにして、どうしようもなく頬が火照る。男の人の身体を見てこんな情動を抱くのは初めてだった。
ドルクは何て綺麗で、何て刺激的な身体をしているんだろう。心の準備なく突然それを見せつけられた方は―――たまらない。
知らず息を飲んだ時、ふとドルクがこちらを見て、目と目が合った。
とっさに視線を外せないわたしに向かって、彼は唇の端を上げ、悪戯っぽく誘うように自らの腰に手をかけてみせた。
「良ければこっちも脱ぎましょうか?」
凄艶な流し目を送られ、腰骨が見えるラインまでハーフパンツをずらされて、見事に割れた腹直筋と外腹斜筋のギリギリまでが露わになる。
「脱がなくていいっ!!」
刺激の強すぎる光景に悲鳴のような声を上げながら、わたしは真っ赤に爆ぜた顔を隠した。