魔眼 another side

08


 フレイアの傷口に触れると、彼女の身体が痛みにびくっと揺れた。

「いっ……」
「動かないで下さい。すぐに痛みは消えますから」

 囁くように言いながら、痛々しく裂けた彼女の右耳の上部に唇を寄せる。すると再び彼女の身体が小さく揺れた。

 オレより少し背の高いフレイアの身体を右側にやや下向けるように抱き寄せて、傷口に丹念に口付ける。

 彼女は目をつぶって頬を赤らめ、恥ずかしそうにオレの『治療』に身をゆだねていた。

 その様子が愛らしい。

 やがて痛みが和らいでくると、この状況でじっとしていることがいたたまれなくなったのか、フレイアはわずかに身じろぎしてオレに話しかけてきた。

「―――ねえ、この能力ってもしかして……魂食い(ソウルイーター)のもの?」
「……そうです」
「使用者を媒介にしたエナジードレインの逆パターンみたいな感じ?」
「……まあそんなところです」

 さすがに察しがいいな。

「コツを掴むまでに何度か痛い目に遭いましたけどね」

 実際、この力をものにするまでに、何度か死にかけた。

 魂食い(ソウルイーター)は相手の精気を奪う能力を持った魔剣で、斬った相手の生命力を活力に変えて使用者に分け与える特性を持っている。だから戦闘で傷を負ったとしてもオレの傷は大抵治るし、魂食い(ソウルイーター)が蓄えている範囲内であればそれを引き出していつでも傷を癒すことが出来る。だがそれは、あくまで魂食い(ソウルイーター)と使用者の間でのみ交わされる契約のようなもので、それを第三者に転化するのは禁忌の領域だった。

 自分の傷を癒すことは出来ても、目の前で失われていく生命を救うことが出来ない―――何度かそういった経験を繰り返し、オレはこの禁忌とされる領域に踏み込んだ。

 手探りで始めた当初は加減も感覚も分からず、魂食い(ソウルイーター)の機嫌を損ねてしまうこともしばしばだった。魔剣の反抗に遭い自分の精気を吸われたり、極限まで体力が削られることも度々、魔剣の力を引き出し過ぎて生死の境をさまよったことも、失敗した反動で跳ね返ってきた力で大怪我を負ったこともあった。

 だが、元々小器用で勘のいいオレは次第にそれを具現化していった。最後は魂食い(ソウルイーター)の方も諦めたように力を貸してくれたように感じた。

 フレイアの耳に口付けながら思う。愚直に努力して良かった。その甲斐あって、今、彼女の傷を癒すことが出来ている。

 抱き寄せるようにした腕の中に感じられる、彼女のぬくもり。清潔感のある肌の香り。今は鎧を身に着けているせいでしなやかな肉体の感触を確かめられないのは残念だが、まあいい。

 傷が一番ひどい右耳の上部、耳輪(じりん)に丹念に口付けながら、胸に広がる甘い想いを意識する。

 唇で柔らかく食むように包み、そよぐように舌先で触れていると、フレイアが吐息を噛み殺している気配が伝わってきた。

「ド、ドルク……もういいよ、もう痛くなくなった」

 耐えられなくなったように身じろぎする彼女の身体を逃がすまいと、抱き込む腕に力を込める。

「まだ完全に傷が塞がっていません」

 わざと歯先が耳をかすめるようにして応えると、彼女の首筋の辺りの産毛が総毛立った。

 感じている? 耳が弱いのか?

 その反応に男としての本能が刺激されるのが分かった。

「だ、だいたいでいいから! あとは自然治癒に任せっ」
「……もしかして、耳が弱いんですか?」

 逃げ腰になるフレイアの機先を制する。正直な彼女は思わず目を泳がせた。

「そ、そんなこと、なっ」
「……へぇ」

 彼女が完全に否定する前に、揶揄するように低く笑って、尖らせた舌先を耳の中へと差し入れる。

「っ!」

 フレイアは声こそ堪(こら)えたものの、びくっと大きく身体を震わせ、背を弓なりに反らせた。彼女は真っ赤な顔でオレをにらみつけてきたが、その反応が可愛らしすぎて口角が上がるのを抑えきれなかった。

「細かい傷がついていたんですよ」

 絶対にウソだ! と彼女の目が言っている。

 その通りだ、オレは意地悪なんだな。改めて自覚する。

 表情豊かなあなたが次はどんな顔を見せるのか……今はそれが確かめたくて、たまらない。

「耳が弱いわけでないなら、きちんと治した方がいいと思いますけど」

 フレイアが反論しようとしたところを被せるようにして言葉に詰まらせ、そこを見計らって耳朶を甘噛みする。

「……、っ!」

 フレイアが小さくのけ反る。上気した顔で肩を竦ませ、身体を細かく震わせながら、意地っ張りな彼女は声だけは堪(こら)えてみせた。

 自分の鼓動が荒ぶるのを覚える。

 あなたはオレを煽るのが上手い。そんなふうにされたら、震いつきたくてたまらなくなる。

「と、とにかく、もういいっ……!」

 口では敵わないと思ったのか、オレの胸を押して強引に逃れようとするフレイアの手首を握り込み、引き寄せるようにしてオレは言った。

「素直に耳が弱いと言えばいいじゃないですか」
「っ……!」

 完全に見透かされたと思ったのだろう、フレイアは紅蓮の双眸を瞠り、真っ赤に気色ばんだ表情を向けた。そんな彼女の耳に再び強引に口付けると、整った顔がこれ以上ないほどに赤らんだ。

 何て顔をするんだ。ああ、もう……本当に、たまらない。

「まあ……そういう強情なところも、それを隠しきれていないところもまた可愛いんですけどね」

 平静を装って言いながら、言葉尻には隠し切れない興奮が滲んでいた。

「!!?」

 予想もしていなかった言葉をかけられて思わず抵抗が緩んだフレイアを囚える。正面から彼女の背と腰に腕を回し、腹部を押し付けるようにして抱きしめた。ほぼ同じ高さにある、魔的に煌めく紅蓮の瞳が動揺したような色を見せ、そのまま彼女は動きを止めた。

 彼女を見つめながら、オレはゆっくりと顔を近づけた。右耳から頬にかけてある擦過創にオレの唇が触れても、彼女は動きを止めたままだった。擦過創に舌を伸ばし、ゆっくりとなぞるようにして傷の上をたどる。

 フレイアの身体が微かに震えた。心なしか彼女の体温が上昇し、吐息が熱くなっているような気がする。

 やがて、ゆるゆると息を吐き出すようにして、彼女の口から戸惑いを多分に含んだ言葉が滑り出てきた。

「幻惑蛾の鱗粉……吸い込んだのかも……」

 まるで言い訳を探すようにして彷徨う紅蓮の瞳を、長い睫毛が陰影で覆い隠す。それがひどく、艶(あで)やかだった。

 オレはそれに誘われるように微笑んだ。熱を孕んで戸惑いに揺れる彼女の魔眼を覗き込み、額を触れ合わせるようにして囁く。

「そうかもしれませんね……大丈夫、治しますよ」

 ゆっくりと引き寄せられるように、色づいた彼女の唇に自らの唇を重ねる。固く閉ざされていたあの夜と違い、彼女の唇は誘うように柔らかく開いた。

 本当に幻惑蛾の鱗粉を吸い込んでしまったのか、オレに何らかのセックスアピールを感じたのか、はたまたその場の雰囲気に流されただけなのか―――分からない。だが、今はそれでいいと感じた。どんな理由でもいい、今、彼女はオレとこうしたいと感じていて、オレは彼女とこうしていたい。それはごく自然の流れのように思えた。

 惹かれ合うように唇を合わせ、舌を絡ませる。官能を煽るように深く口付けると、瞳を閉じたフレイアから恥じらうような吐息がもれて、オレをひどく昂(たかぶ)らせた。

 このまま押し倒して抱きたくなる衝動をなけなしの理性で抑え、優しく、傷つけないように、彼女を陶酔の海へと誘(いざな)っていく。

 もう、過ちは犯さない。自分の想いを見誤らない。

 そして、もう、この女(ひと)を逃さない。

 やっと見つけた。ようやく気付けたんだ。この腕に捕えて、もう二度と離さない―――。

 オレのキスに今はただ身をゆだねる彼女を心の底から愛しく思いながら、積年の想いの丈をぶつけるように、オレはしばしの間、彼女に唇を重ね続けた。



*



 幻惑蛾との戦闘を終えたオレ達は、村人達の遺体を荼毘(だび)に付し、目を覚ました幼い兄妹に言葉を選びながら事情を説明した。

 自分達以外の全てを村ごと失った兄妹は悲嘆に暮れて泣いていたが、幸い近くの町に祖父母がいることが分かったので、オレ達はその日ラーダの村でひと晩過ごし、翌日兄妹をその町の祖父母のところまで送っていった。

「……ギリギリ間に合ったと言えるのかな」

 ガランディの街へと向かう乗合馬車に揺られながらフレイアがそう呟いた。今回の件でやりきれない思いに囚われているのだろう。

「少なくともあの兄妹の生命は救われ、依頼者の願いは無駄にはならなかった……そう考えるしかありません。オレ達は、オレ達に出来ることをした。その繰り返しが、誰かの救いになることを信じてやっていくしかないんだと思います」

 この仕事を続けていく限り、オレ達は同じような思いを何度も味わうのだろう。だが、そのおかげで救われる命も、思いも、確かにある。それは何より、オレ達自身が知っている。

「……そうだね」

 フレイアは淡く頷いて隣に座るオレを見た。

「でも、報酬はゼロになっちゃったね。骨折り損のくたびれ儲け、ってヤツだな」
「そうですね。まあ嘆願書の依頼ではままあることですし、だからどうこうっていうのは今更ないですけど」

 そう言うと、フレイアは何故かふと口元を緩めた。

「……何ですか?」

 不審に思ってそう尋ねると、オレを見つめていた彼女は少しだけ唇をほころばせて微笑んだ。

「……何でもない」

 こんなに穏やかに微笑んだフレイアの顔は初めてで、オレはそんな彼女の横顔にしばし見とれた。

 あなたはいったい、 どれだけの引き出しを持っているんだ。どれだけオレを惹きつけたら気が済むんだ。

 そんなことを思いながら、漠然とした予感に囚われる。

 多分、オレはこういう意味ではこの女(ひと)に敵わないのだろう。

 おそらくこの先も、ずっと……。
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