明日はギルドへ行ってこの地方の最近の状況を確認してこよう。とりあえず今日は身体を休めるか……。
軽快な楽曲が流れ、客達の喧騒が響く中、漠然とそんなことを考えていたオレの頭上から声がかかった。
「ここ、空いている?」
夕食時で店内は混んでいたが、オレの左側の席が一席だけ空いていた。
「空いていますよ」
そう応えて何気なく相手を見やったオレは、驚きに息を飲んだ。
前髪を眉の上でざっくりとカットした緩いクセのあるショートヘアの赤髪。きりっとした茶色の瞳は長い睫毛に縁取られ、整った面差しに陰影を落とす。程良い高さの鼻梁に、その下で薄く花開く色づいた唇。
その女性は黒の防護スーツの上から竜鱗を加工した青銀色の鎧を身に着け、生成り色の外套を羽織っていた。腰に帯びる洗練された印象の長剣は、魔剣『壊劫(インフェルノ)』。
彼女と対面するのはあの紅い月の夜以来、実に八年振りだった。だが、間違えるはずもない。
フレイア。
オレの中に鮮烈な印象を残した魔眼の少女は時を経て、凛とした美しさを持つ女性へと成長した姿で目の前に立っていた。
フレイアも何故か目を瞠ってオレを見つめていた。
彼女もオレを知っている? いや、ギルドに入ってから顔を合わせたことは今まで一度もないはずだ。
ならば彼女もあの夜のことを覚えている? いや、エランダの町の任務に携わったことは覚えているかもしれないが、数多の依頼をこなす中で助けた子供の顔など覚えていないだろう。それにあれから八年も経っているのだ、オレの容貌も変わっている。
フレイアが見せた反応に回答を見いだせないまま、間が持たずふいと目を逸らしたオレの隣の席に、彼女が黙って腰を下ろした。
まさかこんなところで彼女と再会を果たすことになるとは思わなかった。
彼女に会ったら話してみたいと思っていたことがたくさんあったはずだ。だが実際にその機会が訪れたというのに、あまりにもそれが唐突過ぎて話しかけるタイミングを逸してしまった。しかも何から話したらいいものか、突然すぎて頭がまとまらない。
こんなふうに動揺するなんて、オレらしくもない。
自分らしからぬ失態に内心で苦り切りながら、仕切り直して考える。
まずは自分から名乗って挨拶をするのが自然、か……?
同業者なのだから、おかしくはないだろう。向こうもオレの名前は知っているはずだし、そこから話を広げていけばいい。
だが、本名ではない「ランヴォルグ」という名を彼女に名乗ることが予想外に引っかかった。傭兵としての自分の名前はこれと割り切ればいいだけの話なのだが、何故かそれに強い抵抗を覚えて、切り出せない。
自分で自分の首を絞めているような感覚に苛立つ。彼女に話しかけるきっかけを掴めないまま、麦芽酒(ビール)だけが進んでいった。
「ねえ」
七杯目をオーダーしたところで、意外にもフレイアの方から声をかけてきた。驚いて彼女の方を向くと、明らかに年少の者を気遣うような顔をしている。
時折あることなので、この手の顔でかけられる言葉にはだいたいの察しがついた。嫌な予感を覚えながら彼女の言葉を待っていると、やはり想像通りの内容を伝えられた。
「余計なお世話かもしれないけどさ、ちょっとペース早すぎるんじゃない? 急に限界が来るってコトあるからさ、もう少しゆっくり飲んでみたら?」
オレは自分の容姿をよく分かっているし、それを卑下するつもりはない。やっかみを買うこともあるが、多くの女はこの容姿に好意的だし、仕事においては相手の油断を誘いやすく敵を欺くのに適していたりと、どちらかといえば使い勝手の良いモノだと思っている。
だがどうしてか、対フレイアとなるとその意識が覆った。面白くない思いが込み上げてくる。
そういえばこの女(ひと)はあの時もそうだった―――実際にはひとつしか違わないオレを「小さい子」扱いしたのだ。
「……誤解があるのかもしれないので先に言っておきたいんですが」
自分でも驚くほど、険を含んだ声が出ていた。
「オレ、こう見えて21ですから。自分なりの酒の飲み方は心得ているつもりです」
「えっ!?」
よほどの衝撃発言だったのだろうか、フレイアは目を剥いて椅子から半分腰を浮かしかけた。
「ウソ、わたしのひとつ下!?」
そこまで驚くところか。彼女の大声にざわざわと周囲が振り返る。
「あ……、ゴメン」
フレイアは遅まきながら口元を押さえて辺りを見渡すと、きまり悪げな顔で椅子に座り直した。
「えーと、ゴメン、あんまり可愛い顔しているからてっきり16歳くらいかと……お酒の味を覚えたての子が調子に乗っちゃってるのかと思って……何かこのまま潰れるのを見るのも忍びないなぁと思って、差し出がましい真似しちゃったね、悪かった」
その様子はオレの記憶の中にある彼女のイメージと大きくかけ離れていて、何とも言えない齟齬をオレの胸に生んだ。
記憶の中のフレイアは凛とした輝きを纏い、超然としていて、つけいる隙などない完璧な存在のように思えた。だが、目の前の彼女は表情が豊かで言動は大雑把、ひどく人間くさい。
「それ、謝罪してるつもりですか? 正直すぎてけっこうな失礼発言になってますけど。それとも弁明しようとしてドツボにはまっているパターンですか?」
歯に衣着せぬオレの物言いに彼女は少々面食らったような顔をした後、小さく肩を落としてうなだれた。
「前者です……ゴメンナサイ」
「……話に聞くのとだいぶ印象が違いますね。『紅蓮の破壊神』フレイア」
右手で頬杖をつき、斜に構えた態度でオレが彼女の二つ名を口にすると、凛とした茶色の瞳に少しだけ警戒感が走った。
「わたしを知っていたの?」
「有名人ですからね」
事もなげに肯定したオレが腰に帯びたモノの存在に、この時彼女は気が付いたらしい。目の色が変わり、表情が引き締まった。
「―――怖い剣を、持っているね……」
魂食い(ソウルイーター)の気質を感じ取っているのか。この辺りはさすがだな。
「さすがは魔眼……ですね。コイツはいわくつきの代物です」
「あんた……誰?」
オレを見つめるフレイアの瞳が険しさを帯びる。
「オレの名前を尋ねているんだとしたら、ドルクです」
何故か、自分の愛称が唇から滑り出ていた。ランヴォルグでもランドルクでもなく、何故? 理由は自分でも分からなかった。そんな自分に内心戸惑ったが、表には出さない。
「その剣は……魔具?」
「さあ……どうでしょう?」
ドルクと名乗ってしまった以上、魂食い(ソウルイーター)の名前は明かせなくなった。
はぐらかすようなオレの回答にフレイアはイラッときたらしい。もういい、とばかりに顔を逸らし、黙々と食事に戻った。
分かりやすいな……感情が全部顔に出ている。
記憶の中の彼女と現実の彼女との隔たりがオレの中でまたひとつ広がる。彼女の横槍で中断していた麦芽酒(ビール)のオーダーをやり直しながら、それにしても、と考えた。
妙な成り行きで普通に話すことが難しい状況になってしまった。こんなつもりじゃなかったんだが……どうしたものか。
麦芽酒(ビール)を飲みながらそれとなくフレイアの様子を窺っていると、食事を終えた彼女は席を立つのかと思いきや、麦芽酒(ビール)のジョッキを美味そうに飲み干しては次々とおかわりをオーダーしていく。そのペースがまた早い。ついさっきオレを律していた人間の飲み方とは思えなかった。
さすがに飲み過ぎじゃないのか。こんなところで酔い潰れでもしたら、いくら魔眼でも女だ、危ない。
「……そっちこそペースが早すぎるんじゃないですか。女一人で潰れたら危ないですよ」
見かねて声をかけると、じろりと横目でにらみ返された。
「ご心配なく。自分のペースはよく分かっているし、潰れたことは一度もない」
言い終わるや否や、当てつけのように麦芽酒(ビール)の追加を頼んだ。気の強い女だ。
安い挑発に乗る主義ではないのだが、不思議と乗ってやりたい気分になった。乗るからには、徹底的に乗ってやる。
「……へえ」
口元に皮肉気な笑みを刻み小馬鹿にしたような相槌を打つと、それに分かりやすく彼女が反応したのが分かった。
単純で本当に分かりやすいんだな、この女(ひと)は。
フレイアは猛然と麦芽酒(ビール)を飲み始めた。酒の強さに関して相当自信があるらしい。
実際にこれまでの彼女の飲みっぷりを見ていて、相当強い方なのだろうとは思う。だが、オレは負ける気はなかった。オレも酒の強さには自負があるし、何より根っからの負けず嫌いだった。
張り合うように追加の麦芽酒(ビール)を頼み出したオレを見て、フレイアの整った片眉が跳ね上がる。
雰囲気は完全に勝負の様相を呈してきた。カウンターには空になったジョッキが林立し、他の客もオレ達の尋常でない様子に気が付く。ざわざわとカウンター周りが騒がしくなってきた。
「何だ何だぁ?」
「おおっ、見ろ、この姉ちゃんと兄ちゃんスゲェ!」
「うおっ、本当だ! ヤルねぇ」
「何だぁ、何の勝負だ!?」
「オレは可愛い面(ツラ)した兄ちゃんに賭けるぜ!」
「よぉし、じゃあオレは赤い髪の姉ちゃんだ!」
辺りで勝手に賭けが始まり、酒場は異様な熱気に包まれた。オレとフレイアが麦芽酒(ビール)をあおる度、割れんばかりの歓声が響く。
いったい何をやっているんだ、オレは。
麦芽酒(ビール)を飲み干しながら頭の片隅でふとそんなことを考えた。
命の恩人であり、傭兵への道を歩むきっかけとなり、目標でもあったはずの彼女と、ようやく―――八年越しの再会を果たしたはずなのに、いったい、この体たらくは何なんだ。
麦芽酒(ビール)をあおりながらさり気なく隣のフレイアを見ると、顔色ひとつ変えずにジョッキを傾ける彼女の姿が目に入った。
このペースでオレと張り合える人間は初めてだ。この女(ひと)は本当に規格外だ、常識の枠に当てはまらない。
そういう意味では記憶の中の彼女と通じているのに、何故、こんなにもあなたはオレの思惑を裏切るんだ。
「おかわり!」
フレイアが空のジョッキをだんっとカウンターに叩きつけコールした。
「うおおー、いいぞー姉ちゃん!」
「兄ちゃんも負けるな! 行けーっ!」
金がかかっているからギャラリーのテンションも高い。
オレもフレイアも互いに譲らない状態が続き、ついに酒場側から悲鳴が上がった。
「もう品切れだよ、麦芽酒(ビール)がなくなっちまった!」
それを聞いたギャラリーからも悲鳴が上がる。
「うわあ〜、マジかよ! 何だよ、それ!」
「もっと麦芽酒(ビール)を用意しとけよな〜酒場なんだからよ〜」
まさかの引き分け(ドロー)に憤懣(ふんまん)やるかたない声が上がったが、勝負するモノがなくなってしまってはどうしようもなかった。
引き分けか……また想定外の結果だ。
嘆くギャラリー以上にオレの方が憤懣やるかたない。こんなに思い通りにならないことは初めてだった。フレイアに対して、どうしても主導権(イニシアチブ)が取れない。
ギャラリーが散っていくのを待ってフレイアはトイレに立ったようだった。あれだけ飲めばその反動がくる。オレも彼女に続いて席を立った。
男女の違いもあり、席へ戻ってきたのはオレの方が先だった。
「勝負に水を差しちまって悪かったね、これはウチからのサービスだよ」
酒場のマスターがそう言ってカウンターの上に赤い酒の入ったグラスを置いてくれた。礼を言い、手に取って鼻を近付けると甘い花のような香りがする。ひと口含むと甘い芳醇な味わいとまろやかな口当たりが舌の上に広がった。
美味い、いい酒だ。ただアルコールがかなりキツい。
そこへフレイアが戻ってきた。酒場のマスターは彼女にも同じ台詞(セリフ)を伝えると、片目をつぶってみせた。
「この辺りで作られている果実酒だよ。ちょっとアルコールはキツ目だがお客さん達なら大丈夫だろう」
「へえー……ありがとう」
彼女は素直に礼を言ってその香りを確かめた後、果実酒を口に含んだ。
茶色の瞳が輝くのが分かる。どうやら好みの味だったらしい。
彼女は残りをくいっと流し込むと、席を立った。
「美味しかった、ごちそうさま。お代は宿泊代にツケといて」
部屋のキーをマスターに見せてそう言い残し、オレの方には一瞥(いちべつ)もくれず、そのまま酒場を後にする。
あれだけ飲んだ後で、この度数の酒を一気にあおれるのか……。勝負がつかずに救われたのは、もしかしたらオレの方だったのかもしれない。
そんな敗北感にも似た屈辱的な思いが胸をよぎったが、今となっては確かめようもなかった。
*
フレイアの少し後に酒場を出たオレが目にしたのは、酒場のドア付近で佇んでいる彼女の後ろ姿だった。
まだ彼女がこの辺りにいるとは思っていなかったので、少し驚く。いったい何をしているのか、彼女はじっと立ち尽くしたまま動く気配を見せなかった。
「どうかしたんですか?」
声の主がオレと分かったのだろう、フレイアは不機嫌そうな表情でこちらを振り返った。
「何でもない」
ぶっきらぼうにひと言そう告げて、上階へと続く階段を目指して歩き始めた。この宿屋は五階建てで二階から五階までが宿泊施設、一階が酒場という造りになっている。
彼女もここに宿を取っているのか……。そういえばさっき、酒場のマスターに部屋のキーを見せていたな……。
少し距離を置いて後ろを付いていくと、ひどく嫌そうな顔でにらみつけられた。
「何か用? 付いて来ないでよ」
「誰が……この上に部屋を取っているんです」
心外な、と大々的に顔に書いてオレはフレイアをいなした。
女につきまとう趣味はない。しかもこんなに険悪な雰囲気を孕んだ状態の相手と。
彼女とは時間を置いて、また一から仕切り直しだ。もっとも次があれば、の話になるのだが―――。
フレイアの宿泊する部屋はオレと同じで三階だったらしい。しかも、彼女が足を止めた先は―――オレの隣の部屋ときた。
「…………」
今まで顔を合わせることすらなかったというのに、ここへ来て何ていう運の巡り合わせなんだ。
悪戯のような神の采配に苦々しい思いを抱きながら、部屋のキーを取り出す。
フレイアはなかなか鍵が見つからないのか、「あれ?」と呟きながら剣帯に付いたポーチのポケットをまさぐっていた。それを横目で見やりながら、部屋の中へと入る。
ドアを閉めて外套を脱ぎ、剣帯と鎧を外して防護スーツを脱ぎ去ると、深い溜め息がもれた。備え付けの部屋着に着替えて水差しの水を飲み、人心地ついていると、廊下からガチャガチャと耳障りな金属音が響いてくる。
何だ? 騒々しいな……。
しばらく放っておいたのだが、耳障りな金属音はなかなか鳴りやまない。そのうち軽い音を立てて何かが通路に転がった音がしたかと思ったら、派手に転ぶような音が続き、耐えられなくなったオレはドアを開けて部屋の外へ出た。
騒音の出所を確認して、その光景に自分の目を疑う。
隣の部屋の前の通路でへたり込むようにしたフレイアと、その近くに転がったままの部屋のキー。
これはいったい、どういう状況だ?
「……何しているんですか?」
オレの声に弾かれたようにフレイアが顔を上げた。その瞳は熱く潤んでいて、頬がうっすらと上気している。
「うわっ……」
今の今までオレが部屋から出てきていたことに全く気が付いていなかったらしい。彼女はひどく驚いた様子でのけ反ったが、その下半身は座り込んだままだった。
自力で立ち上がれないほど酔っ払っている。さっきまでしゃんとしていたあの姿はいったい何だったんだ。
酒場の前でじっとしていたのはこういう理由か。オレは舌を巻いた。彼女のハッタリにすっかり騙されていた。
オレも大概だが、この女(ひと)も相当な負けず嫌いだ。
しかし、こんな状態の彼女に気が付かなかったとは……オレもまだまだ、色々な意味で甘い。
オレは溜め息混じりに片膝をついて、フレイアの瞳を覗き込んだ。
「……そんな状態で、よくもまあさっきまで平然と歩いていましたね。すっかりだまされましたよ」
彼女の目が泳ぐ。こんな状態の女性を放っておくわけにもいかないので、肩を貸すようにして助け起こした。清潔感のある彼女の香りが鼻先をかすめる。その覚えのある香りに、瞳を細めた。紅い月の夜の記憶が脳裏に甦った。
ああ、やはりあの時、崩れ落ちるオレを支えてくれたのはこの女(ひと)だったのか。
そして、肩を貸したことで薄々察していた事実を認識させられる。女性にしては長身のフレイアの身長はオレよりわずかに高かった。目算にして二センチほど、171センチといったところだろうか。
横を見ると、すぐそこに熱で潤んだ茶色の瞳がある。
「……開けますよ」
意識して機械的にそう告げながら、オレはフレイアの部屋のドアを開け、彼女と共に部屋の中へと入った。