魔眼 another side

03


 深酔いしたフレイアに肩を貸す形で彼女の部屋へ入ったオレは、とりあえずベッドの端に彼女を座らせた。

 隣のオレの部屋と同じ配置の室内。部屋の隅に投げるようにして置いてある彼女の荷物だけが違う。

「鎧、脱ぐの手伝いましょうか?」

 オレは事務的に尋ねた。一人で歩くこともままならない彼女は鎧を着込んだままだった。自分の部屋の鍵も開けられなかった今の彼女が一人でそれを為(な)せるとは、到底思えなかったからだ。

 フレイアは一瞬ためらう様子を見せたが、ややしてから頷いた。今の自分の状態を判断出来る理性は残っているようだ。

「悪い……頼む」

 許可が下りたので、彼女が鎧を脱ぐのを手伝う。多少手間はかかったが、比較的スムーズに脱がせることが出来た。剣帯を外し傍らに置く彼女を見やりながら、次の作業を確認する。

「防護スーツはどうしますか?」

 鎧の下に着込む防護スーツは特殊な金属を織り込んで作られたもので、首から手首、足首までをひと繋ぎで覆っている。身体を保護する為の適度な厚みがあり、伸縮性もあって身体にフィットする作りになっているが、酔っ払った状態でこれを着て寝るとなると楽な代物ではなかった。

 だが、その下はもう肌着のはずだ。さすがにオレに頼んで来ることはないだろうが。

「いや、いい」

 やはりフレイアは辞退した。だが、ハイネックのフィット感が辛いらしい。せめて首元を緩めようと思ったのか、首の後ろにあるファスナーに手を伸ばすが、真っ直ぐに引き下ろすという単純作業が出来ないらしく、四苦八苦している。見かねて首の下辺りまでファスナーを下ろしてやると、彼女は潤んだ茶色の双眸をオレに向けて素直に礼を言った。

「あ……ありがとう」
「……いえ」

 先程までとのギャップに少々面食らう。こういうところは素直なんだな。

 フレイアの額には汗が滲んでいた。ここまでの作業で大変な労力を使ったらしい。アルコールを大量に摂取した後はそれでなくとも喉が渇く。オレは部屋に備え付けられた水差しのところまで行くと、コップに水を注いで彼女に差し出した。

「飲みますか?」
「うん……」

 ありがたそうにそれを飲み干しながらフレイアが気だるげな眼差しでオレを見やる。自覚はないのだろうが火照る肌をうっすら上気させてとろんとした眼差しを送る彼女は女の色香を放っていて、オレはここが去り時だと判断した。

 防護スーツだけという姿がそもそもまずい。身体にフィットする防護スーツは身体のラインを露わにするのだ。しなやかな筋肉のついた、女性らしい滑らかな曲線をオレの前に惜しげもなく晒していることを今の彼女は認識していない。

「後は一人で大丈夫ですか?」
「うん、あの……色々悪かった、な。助かったよ、ありがとう」

 部屋から出ていこうとするオレにフレイアは頬を染めて、照れくさそうに歯切れ悪く感謝を伝えた。

 はにかんだ、こんな表情はなかなか可愛らしい。

 その様子を好ましく思った半面、天邪鬼(あまのじゃく)な性格が出て、素直な反応が返せなかった。

「貸し、ひとつですね」

 瞳を細めて不敵に笑ったようにでも映ったのだろう、フレイアはムッとした表情になると口を尖らせて持論を展開した。

「助けてもらったお礼は言うけど、持ちつ持たれつが世の理(ことわり)だろ? それと、言っておくけど勝負自体は引き分けだから! そこ、間違えないように」

 改めて先程の勝負は引き分けなのだと強調してくる。この失態はあくまで勝負の後のことであって、勝負自体には負けていないのだと。

 ここでそれを主張してくるか、どれだけ負けず嫌いなんだ。くそ、酒場がもっと麦芽酒(ビール)の在庫を用意して置いてさえいれば、こんな無益な言い争いをしなくて済んだものを……。

「とんだ負けず嫌いですね。オレはこうして立ってあなたを介抱している、誰が見ても総合的にオレの勝ちと言えると思いますけど?」

 結果論だがフレイアよりオレの方が酒に強いのは間違いがない。今のこの状況が自明の理だ。

「わたしのこの体たらくは! 勝負の後の果実酒が原因だから! 勝負自体には負けていない!」
「あれだけ飲んだ後にあんなアルコール度数の高い酒を一気にあおるからですよ。詰めが甘いですね。戦場だったら死んでいるところだ」

 ぐっと詰まる彼女に畳みかけるようにして口撃する。

「余計なお世話かもしれませんが、急に限界が来るってことがありますから、次回からは少し考えて飲んだ方がいいと思いますよ。試合で勝って勝負に負ける―――実際には試合でも勝てていないわけですけど。そんな有様じゃ『紅蓮の破壊神』の二つ名が泣きますからね」

 我ながら意地が悪いとは思う。フレイアがオレに放った言葉をわざわざ焼き直し、酒の勝負に仕事を引き合いに出した。

 フレイアの顔がみるみる赤くなる。一拍置いて、彼女の怒号が迸(ほとばし)った。

「調子に乗るなよ! 醜態を晒したのは認めるけどな、仕事で失態は犯さない! 偉そうにわたしに高説垂れるのはランヴォルグの域に達してからにしろ!」

 その瞬間、強烈なカウンターを食らったような衝撃に見舞われた。

 ……何だって? 今、何と言った?

 ランヴォルグ、彼女の口が確かにその名を刻んだのを聞いた。

 そう理解した刹那、ひどく冷えた気持ちが心の奥底から湧いてくるのを感じた。

「……。どうしてそこでその名前が出てくるんですか」

 唇から滑り出した硬質な声。自分の顔から表情が消えたのが分かる。

 フレイアが息をひそめた。深酔いしている彼女にも感じ取れるほどオレの様子は一変したらしい。

「……どういう意味だ」

 不審渦巻く声でフレイアが尋ねてくる。

「あなたが口にした男の評判といえば―――残虐非道、冷酷無比、目的を達する為なら手段を選ばない冥府の使者―――通った後には無念の渦巻く骸(むくろ)の道が出来る、というものですよ。しかしさっきのあなたの言い方だと、世間とはまるで逆の感情を抱いているように聞こえる」

 それがオレには気に入らなかった。

 オレのことなど、何も知らないくせに。目の前に「オレ」がいることにも気が付いていないくせに。あの日のオレを、覚えてもいないくせに。

 どの口で、その台詞(セリフ)を言うのか。

 今目の前にいる「オレ」を差し置いて、あなたが見ている「ランヴォルグ」とはいったい何なんだ。頭の中で作り上げた、実際にはいもしない理想の男か。

「同じようなひどい二つ名を持つ者として、そういった下らない噂がいかに当てにならないものなのか知っているからだよ。ランヴォルグは……噂とは正反対の男だ」
「はっ……どうしてそんなことが言えるんですか? 会ったこともない男なのに」

 オレは口元を歪め、吐き捨てるようにして言った。自分の感情が不穏な方向に捻じ曲がっていくのが分かる。このうねりを上げる暗い感情の渦は、何だ。

「どうしてわたしがランヴォルグを知らないと言える?」

 オレの言葉に対し、当然のようにフレイアは茶色の瞳をすがめた。

「実際にその男を知っていたら、そんな台詞(セリフ)は吐けないからですよ」
「そういうあんたはランヴォルグの知り合い? 会ったことがあるのか?」
「少なくともあなたよりはその男を知っています」

 何しろ「ランヴォルグ」は「オレ自身」なのだから。

 ランヴォルグを貶められたと感じたのだろう、フレイアは拳を握り締め、義憤に息巻いた。

「あんたが何て言おうが、わたしはわたしなりにランヴォルグの足跡(そくせき)を見てきたんだ。だから彼のことは知っている! 彼は他者を思いやれる心根の優しい人間だ! 下らない世間の評判なんかクソ食らえ!」

 未知の感情にオレの中の何かが焼き切れた。

「……へえ。ずいぶんと『ランヴォルグ』に入れ込んでいるみたいですね」

 うっすらと酷薄な笑みを刷き、フレイアへ向けて一歩踏み出す。

「……!」

 直感的に危険を察したのだろう、立ち上がろうとしたフレイアの肩口に手をかけ、オレは彼女を力任せにベッドの上へと押し倒した。だが、彼女の対処動作も早い。深酔いしている女の動きとは思えなかった。

 さすがだな。だが、この状態でオレに勝つのは無理だ。

 要所を素早く押さえつけ、完全に反撃を封じる。ベッドの上に仰向けに縫い付けられるような格好になり、フレイアは眼光鋭く目の前にあるオレの顔をにらみつけた。

「……どういうつもりだ」

 牙を剥くようにして低く問いかけてくる彼女に、皮肉げな笑みを返す。

「気が変わりました。やっぱり今、貸しを返してもらおうと思って」
「は?」

 フレイアは鼻の頭にしわを寄せ、オレをにらみつける瞳に力を込めた。

 だが、取り乱しはしない。拒絶の意だけを示しながら、暴れるわけでもなく、ただじっとオレの様子を窺っている。

 この状況は女性からするとかなり危機的な状況だと思うのだが……普通はもう少し取り乱したり、暴れたりするものなんじゃないか?

 妙な懸念が頭の中に生まれる。

 傭兵の世界は男上位の、力がものをいう世界でもある。仲間であるはずの、同志であるはずの男達に手籠めにされたという女性傭兵の話は何度か耳にしたことがあった。

 ……まさか、初めてじゃないのか? こういう状況が。

 心臓がひりつくような何とも言えない思いが去来する。

「……取り乱さないんですね」

 内心の動揺を押し隠して静かに問いかけると、冷静な答えが返ってきた。

「どうして取り乱さないといけないんだ」

 冷めた対応を取るフレイアに、胸が大きくさざめく。

「これまでにも、こういうことが?」

 緊張を覚えながら尋ねると、彼女は目を剥き、噛みつくようにしてそれを否定した。

「こんなことが頻繁にあってたまるか!」

 緊張感に満ちていた自分の心が安堵に緩むのを感じる。そんな自身に自嘲を覚えて、口元が歪んだ。

 滅茶苦茶だ。今まさに彼女を組み敷いている自分が、何故こんなふうに心を揺らす?

 最低だな―――……。

 思いながら、引き寄せられるようにしてフレイアの唇に自分の唇を重ねていた。

 まさかそう来るとは思わなかったのだろう、彼女の身体がびくりと揺れ、硬く強張るのを感じる。

 しかしフレイアは気が強かった。改めて間近にあるオレの顔をにらみつけてくる。互いに目を開けたまま唇を合わせるという奇妙な状況がしばらく続いた。

 フレイアが抵抗しないのは反撃のタイミングを窺っているからだろう。聡い彼女は完全に抑え込まれたこの状況で抵抗するのは無駄と早々に悟り、体力の温存を図ったのだ。彼女に不埒な真似をする為にはこのままの体勢ではいられない、いずれオレが動かねばならないことを予測して、彼女はその時を待っているのだ。

 虎視眈々と反撃のチャンスを窺うフレイアの気配を感じながら、オレは彼女の反応を見るようにして、角度を変えながら口付けた。きつく結ばれたままの、柔らかな弾力のある色づいた唇に重ねるだけの軽いキスを何度か繰り返し、次第にそれを深くしていく。

 柔らかく食むように、時に強弱をつけてしっとりとほぐすように唇を刺激し続けると、やがて硬く力を込めていた彼女の唇から少しずつ力が抜けていくのが感じられた。彼女は相変わらず目を開けたままオレをにらみつけていたが、先程よりもその唇は熱を帯び、頬が上気しているのが見取れて、ここが頃合いだと判断する。

 細心の注意を払って、フレイアの口腔内に侵入する。狙いすましたように彼女が動きかけるのを察知し、そのタイミングで両手の拘束を解くと、彼女の意識が一瞬そちらへ向くのが分かった。
 
 間髪入れず自分の両手を彼女の両頬に添えて固定し、そのまま前腕を下ろすようにして一瞬だけ自由になった彼女の肘付近をすかさず押さえつける。上手くいった。噛みつくタイミングを逃してあせるフレイアの気配が伝わってくる。舌を深く差し入れ、逃げる彼女の舌を捕えようとすると、彼女は再び噛みつこうと牙を剥いた。それに合わせるようにファスナーを下ろされて無防備になっている白いうなじを爪先ですうっとなで上げると、予期していなかったのだろう、彼女はびくっと大きく身体を震わせた。

「んんっ!」

 悲鳴のような、喘ぎのような、くぐもった愛らしい声がもれた。男としての本能が煽られるのを感じる。彼女の舌を捕えたオレは、自分の舌を彼女の舌に絡めるようにしながら、濃厚なキスを執拗に繰り返した。

 フレイアは身じろぎしたが、オレに両頬を固定されて顔を上向かされているから、左右に首を振って逃げることもかなわない。そのまま執拗なキスを続けると、やがて彼女の意思に反して吐息が乱れ始めた。

「んうっ……」

 フレイアが苦しそうに整った眉根を寄せる。酸欠と深酔いで朦朧としてきたのか、ここへ来て彼女は全力で抵抗を始めた。

 さすがと言うべきか、凄まじい力だ。この美しい獣は、並の男では手に負えない。

 ベッドが激しく軋み、派手な音を立てて大きく動く。弾みで押さえつけていた彼女の左腕が抜け、オレの頬を思い切り反対側に押し上げた。空気を求めるように喘ぐ彼女が肺に空気を取り込みきらないうちにオレは強引に彼女を引き戻し、再び唇を塞いで押さえつけた。

「んっ……!」

 フレイアから苦しげな、悩ましげな声がもれる。そんな声ですら、今のオレには自分を煽るものに感じた。フレイアは唯一自由が利く左腕でオレの胸を突っぱねようとするが、彼女の健気な抵抗をオレは許さず、奪うように、むさぼるように、無心に唇を重ね続けた。

 やがて、オレの衣服を握り込むようにしたまま、フレイアの抵抗が収まった。

 間を置いてからゆっくりと唇を離し、彼女の顔を覗き込む。

 切なげに眉根を寄せ、悩ましげに頬を上気させて、彼女は気を失っていた。

「…………」

 その顔を見て、ようやく我に返る。例えようもない罪悪感が胸の底から湧き起こってきた。

 緩慢な動作で身体を離し、汗で額に張りついた彼女の柔らかな赤毛をなで上げる。

 激情に駆られて、一人でまともに立てないほど酔っていた女性を力尽くで押さえつけ、気を失うまで唇を重ね続けた。

 何ていう暴挙だ。己の所業に愕然とする。あまりにも大人げない、男気を欠いた対応だ。

 八年前のことは一方的にオレが覚えているだけで、彼女は知りもしないことなのに。

 ランヴォルグのこともそうだ―――彼女はちゃんとその存在を認識してくれていた、そして好意的な想いを抱いてくれていた。ただそれが「オレ」と知らなかっただけで―――。

 明かさなかったのはオレ、捻じれさせたのはオレ、オレはいったい何がしたかったんだ、彼女にどうしてほしかったんだ。

 ずっと、自分は冷静な人間なのだと思ってきた。一時の感情に左右されて行動するようなことはこれまでただの一度もなかった。

 自分の中にこんなにもままならない感情があるとは知らなかった。迸(ほとばし)るような衝動をぶつけたくなる相手が現れるとも思わなかった。

 フレイアとは一度時間を置いて仕切り直そうと思っていたが、ダメだ。この訳の分からない滾(たぎ)りを解決しない限り、何度出会ってもきっとまた彼女を傷つける。

 それは、オレの本意ではない。

 向き合おう。正面から向き合って、この問題を解決しよう。

 そうでなければ、きっとオレは前に進めない。
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