魔眼

07


 傷口に触れられる痛みに、びくっと身体が揺れる。

「いっ……」
「動かないで下さい。すぐに痛みは消えますから」

 わたしの傷口に口付けながらドルクが言う。

 うう……。

 オロフの爪によってざっくりと裂けた右耳の上部にドルクの温かい舌が触れ、その感覚にまた小さく身体が揺れる。左の頬には彼の手が添えられ、左肩は抱き寄せられるようにしていて、女にしては長身のわたしよりやや背の低い彼にもたれかかるような格好になっている。

 ドルクは傷をなめて癒す特殊能力を持っており、魔物との戦闘で負傷したわたしは今、彼の『治療』を受けている最中だった。

 痛い。恥ずかしい。痛い。恥ずかしい。

 繰り返し押し寄せてくるその波に目をつぶって耐えていると、ほどなくして彼の言う通り痛みが和らいできた。すると、今度はこの状況がいたたまれなくなってきた。

 恋人でも何でもないひとつ年下の男に抱き寄せられるようにして、耳に口付けられている状況って、どうなんだろう!?

 じっとしていることがどうにも耐えられなくて、わたしはドルクに話しかけた。

「―――ねえ、この能力ってもしかして……魂食い(ソウルイーター)のもの?」
「……そうです」

 やっぱりそうか。ドルクが魔眼で彼の相棒が魂食い(ソウルイーター)なのであれば、この能力のカラクリも想像がつく。

 魂食い(ソウルイーター)は獲物の生命力を吸い取って糧にする魔性の剣と言われているから、多分吸収したそういった活力をどこかに蓄えていて、それをドルクが引き出しているような仕組みなんじゃないだろうか?

「使用者を媒介にしたエナジードレインの逆パターンみたいな感じ?」
「……まあそんなところです」

 あっ、やっぱり!

「コツを掴むまでに何度か痛い目に遭いましたけどね」

 さらっと言っているけれど、それは多分相当な痛い目だったんじゃないだろうか。

 エナジードレインの逆パターンなんて、言葉で言うと簡単に聞こえるけれど、実際は自然の法則を捻じ曲げた禁忌に近い荒業だ。しかも魔剣が蓄えたエナジーを自分を媒介にして第三者に転化するなんて、理(ことわり)に重きを置く魔導士系の連中が聞いたら卒倒しかねない。

 そういう禁忌の類は、失敗した時に自分に跳ね返ってくる代償が非常に大きいと聞く。

 その無茶を実際にやってのけているところが、この男の底知れないところなんだろうけど……そして今、わたしはその恩恵を絶賛賜り中なわけなんだけど……。

 わたしの耳に口付けているドルクの顔は見えない。見えないけれど、頬に添えられた彼の大きな掌や長い指、肩を抱く力強い腕は、わたしに彼を充分すぎるほど意識させていて。もたれかかるようにしたわたしの身体を受け止めている今は金属製の黒い鎧に覆われた彼の胸が、穢れなく整ったその面差しからは想像も出来ないほど厚くて頑強なことも知っているから―――だから、ドルクの香りと彼の体温に包まれて耳に口付けられているこの状態は、落ち着かなくて何だか苦しい。変な気分になってくる。

 まるで熱病にでもかかったかのように、心臓が早鐘を打った。

 傷が一番ひどい右耳の上部、耳輪(じりん)にドルクは丹念に口付けてくる。

 唇で柔らかく食むように包み、そよぐように舌先で触れる。耳に感じる彼の息づかい。ぞくぞくと腰の辺りが震えて、わたしは吐息を噛み殺した。

 そういえば……わたし、耳はあまり強くなかったんだった。

「ド、ドルク……もういいよ、もう痛くなくなった」
「まだ完全に傷が塞がっていません」

 応えるドルクの歯先が耳をかすめて、首筋の辺りの産毛が総毛立つ。

「だ、だいたいでいいから! あとは自然治癒に任せっ」
「……もしかして、耳が弱いんですか?」

 逃げ腰になるわたしの機先をドルクが制した。思わず目が泳ぐ。

「そ、そんなこと、なっ」
「……へぇ」

 完全に否定する前に、揶揄するように低く笑ったドルクが尖らせた舌先を耳の中へ差し入れてきた。

「っ!」

 声こそ堪(こら)えたものの、びくっと大きく身体が震え、背が弓なりに反る。わたしは真っ赤な顔でドルクをにらみつけた。

 ……この!

「細かい傷がついていたんですよ」

 しれっと答えるドルク。絶っっ対にウソだ!

「耳が弱いわけでないなら、きちんと治した方がいいと思いますけど」

 反論しようとしたところを被せるようにしてそう言われ、言葉に詰まったところを見計らったように耳朶を甘噛みされる。

「……、っ!」

 甘い疼きに肩が竦み、身体が細かく震えたけれど、わたしは意地を見せ、どうにか声を上げるのだけは堪(こら)えた。

 完全に弄ばれている。堪(こら)える作業に集中しなければならないこともあって、言葉では勝負にならない。

「と、とにかく、もういいっ……!」

 黒衣の鎧の胸を押して強引に逃れようとするわたしの手首をドルクが握りこんだ。

「素直に耳が弱いと言えばいいじゃないですか」
「っ……!」

 完全に見透かされている。

 ズバリ核心を突かれて、怯んだところを再び耳に口付けられて、これ以上ないほどに顔が赤らんだ。

「まあ……そういう強情なところも、それを隠しきれていないところもまた可愛いんですけどね」
「!!?」

 予想もしていなかった言葉をかけられて思わず抵抗が緩んだところを、囚われた。

 あっ……。

 左右から背中と腰にドルクの腕が回され、腹部をくっつけるようにして抱きしめられる。わたしとほぼ同じ高さにある燃え立つような金色の瞳に正面から見据えられると、何故かそのまま動けなくなった。

 ゆっくりと近付いてきたドルクの唇が、右耳から頬にかけての擦過創をなぞるように移動して、火照りっ放しだったわたしの身体の熱を急激に上げていく。

 なっ……何、これ……!?

 沸騰するようなその熱に、心の中で悲鳴を上げる。

 心臓の音がうるさい。どんどんどんどん大きくなって、左の胸にあるのだと、これでもかと言わんばかりに主張する。

 本能的な反応を示す肉体に、理性の方が追いついていかない。わけが分からなくて、そんな自分の状態に何だか泣きたくなってきた。

 わたし、おかしい! いったいどうしちゃったんだ!? こんな……、こんなっ……!

「幻惑蛾の鱗粉……吸い込んだのかも……」

 そんな言葉が滑り出てきた。

 わたしの頬に唇を寄せていたドルクがふっと笑って、金色に輝く魔性の瞳でわたしの紅蓮の瞳を覗き込んだ。

「そうかもしれませんね……大丈夫、治しますよ」

 本当に幻惑蛾の鱗粉を吸い込んでしまったのか、はたまたその場の雰囲気に流されただけなのか―――分からない。けれど、その時のわたしにはどうしてか、それがごく自然の流れのように思えた。

 惹かれ合うようにドルクと唇を合わせ、瞳を閉じる。官能を煽るように深く口付けられて、恥じらうような吐息がもれた。

 あの夜とは違う、優しいキス。

 激しく奪われ、翻弄されて、最後には気絶させられた出会いの夜を思い返しながら、わたしはドルクのキスに身をゆだねた。

 きっと、もう、逃げられない。

 この男には、敵わない。

 漠然と、そんな思いを抱きながら―――。



*



 幻惑蛾との戦闘を終えたわたし達は、確認作業の為ラーダの村を見回っていた。

 卵や幼虫がどこかに残っていて、その中に未来の女王がいたりしたら大変だ。またどこかで同じような悲劇が繰り返されることになってしまう。

 幸い懸念していたものは見当たらなかったけれど、村の奥にあった自然の洞窟を利用した備蓄庫で、たくさんの肉塊が見つかった。ひと目で元村人達だと分かるそれは、成虫達が幼虫に与える為にそうしたのだろうか、粗いミンチ状になっていて、唾液で肉団子のように丸められていた。

 トニーとケイシャの兄妹には、とても見せられないな。

 わたし達は村人達の遺体を荼毘(だび)に付し、それから目覚めた兄妹に言葉を選びながら事情を説明した。自分達以外の全てを村ごと失った兄妹は悲嘆に暮れて可哀想なくらい泣いていたけれど、幸い近くの町に祖父母がいることが分かったので、わたし達はその日ラーダの村でひと晩過ごし、翌日兄妹をその町の祖父母のところまで送っていった。

 こんな仕事の後は、やりきれない気分になる。

「……ギリギリ間に合ったと言えるのかな」

 ガランディの街へと向かう乗合馬車に揺られながらそう呟くと、隣の席に座ったドルクがこう応えた。

「少なくともあの兄妹の生命は救われ、依頼者の願いは無駄にはならなかった……そう考えるしかありません。オレ達は、オレ達に出来ることをした。その繰り返しが、誰かの救いになることを信じてやっていくしかないんだと思います」
「……そうだね」

 もう少し早く行けてあげていたら。誰かがラーダの村の異変に気付いてあげることが出来ていたなら。

 正解のないそんな思いに囚われていても、誰の為にもならないんだ。分かっていても暗く沈んでいくわたしの思考を、ドルクの言葉は引っ張り上げてくれた。

「でも、報酬はゼロになっちゃったね。骨折り損のくたびれ儲け、ってヤツだな」
「そうですね。まあ嘆願書の依頼ではままあることですし、だからどうこうっていうのは今更ないですけど」

 何でもないことのようにそう言ったドルク。わたしはふと口元を緩めた。

 ああ、ドルクはやっぱりランヴォルグなんだ。わたしの中で初めて二人が重なった瞬間だった。

 ガラムの町の酒場でラーダの村の依頼について話した時、この報酬では誘っても誰も一緒に行ってはくれないと言いながら、心の中で、それでもきっとランヴォルグなら―――と思った。

 もし彼がここにいたのなら、きっと共に行ってくれただろう―――と。

 そして、それは現実になった。

「……何ですか?」

 長々とドルクの顔を見つめていたものだから、不審に思った彼にそう尋ねられて、わたしは首を横に振った。少しだけ、唇をほころばせて。

「……何でもない」
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