幕間U〜鋼の騎士〜

翳り


 思いも寄らぬ人物がドヴァーフ城を訪れたのは、日が短くなり始めた季節の、ある晴れた昼下がりのことだった。

「ガゼの占術師、トゥルクと申します」

 えんじ色の、民族色の強い長衣(ローヴ)に身を包んだ穏やかな顔立ちをした壮年のその男は自らをそう名乗り、国王オレインへの謁見を要望した。

 これまでその所在を掴むことが出来なかった“竜使い(ドラゴンマスター)”の一族からのまさかの接触に、国王オレインは大層喜んだ。

 トゥルクは閉鎖的な自族の未来を憂い、外の世界との交易を持たせようと、国王に力添えを願い出てきたのだという。

 謁見に立ち会ったペーレウスとシェイドも、意外な事態に驚きながらも主君同様それを前向きに捉えた。

 ガゼの竜使いの業を取り込めれば、間違いなくドヴァーフの国力は増す。

 あれから隣国ウィルハッタに怪しい動きはなく、両国は今のところ小康状態の関係を保っていたが、万が一に備えシェイドが提言した警備体制の見直しに始まる諸々の補正案は、ロイド公爵を筆頭とする保守勢力によってそのことごとくが潰され、未だ問題を抱えたままとなっていた。

 そんな折に湧いて出たトゥルクからの申し出は、ペーレウス達にとっても魅力的な話だったのだ。

 トゥルクとの密約が実り、それからふた月ほど経って、交易を結ぶ為、ガゼ族の代表者達がドヴァーフ城へやってきた。

 その顔ぶれはトゥルクを始め、族長であるホレット、護衛役の二人の竜使い、そしてトゥルクの娘シェスナというものだった。

 催された歓迎の晩餐会で、ガゼの代表者達と会話を交わしながらそれとなく彼らの様子を観察していたペーレウスが感じたのは、族長ホレットがこの話にあまり乗り気ではないらしいということだった。

 警戒心の強いガゼの族長らしく、ホレットは大きく変容しようとしている自族の在り様に未だ迷いを捨て切れておらず、ガゼが利用されるのではないかという懸念と、自族の行く末への憂いとの中で板挟みになりながら、ドヴァーフ側の真意を見抜こうと終始鋭い眼を光らせているように見えた。

 こんな状態の族長をよくも説得して王城にやって来るまでにこぎつけたものだと、ペーレウスはトゥルクの手腕に密かに感心した。

 聞いたところによると、ガゼ族の中で占術師は族長の補佐を担う相談役のような立場にあるらしいが、トゥルクに対するホレットの信頼はかなり厚いものであることが想像出来た。そうでなければ、深い懸念を抱いたまま、この場までやって来たりはしないだろう。

 晩餐会では占術師というトゥルクの肩書きも話題になった。驚くことに、トゥルクの占術はこれまでただの一度として外れたことがないのだという。

 ドヴァーフ城にも占術を専門として召抱えられている者はいたが、もちろん、そんな驚異的な数字の持ち主などいない。

 国王オレインはトゥルクの占術にいたく興味を持ち、この場で即興のお題を出した。それは最近紛失してしまったオレインのお気に入りの指輪の在りかを占うというものだった。

「かしこまりました。では瞳を閉じ、その指輪を頭の中で明確に思い浮かべて下さい。宜しいですか?」

 大勢の者達が興味津々の目で見守る中、紫色の敷布の上に置かれた水晶球が、かざしたトゥルクの手の中で妖しい輝きを帯び、徐々にその光を増し始めた。

 やがて、水晶球の中に氾濫する光の渦の中に、あるイメージが浮かび上がってきた。その映像は傍目には不明瞭に見え、何を示しているのか分からなかったが、トゥルクはそれを読み取ると、静かな声で告げ始めた。

「金糸の細工の施された立派な筆立てが見えます-----指輪は、その中に。場所はこの王城内、どこかの執務室のようです」
「----そ、そうであったっ!」

 それを聞いた途端、弾けるようにしてオレインが叫んだ。

「思い出した……落とし物が調度品の隙間の奥に入り込んでしまい、私はペンを使ってそれを取り出そうと、邪魔な指輪を外したのだった……そうか、あの時に誤って筆立ての中に……」

 周囲から感嘆の入り混じったさざめきがもれる。確認の為、言いつけられてオレインの執務室へと走った侍女は、ややして息を切らせながら戻ってきた。

「ご、ございました! こちらです、ご確認を……!」

 侍女から指輪を受け取ったオレインは、それを額の上にかざし、興奮に目を輝かせた。

「おぉ、確かに! 間違いない……!」

 その声を受けて、会場内が一斉に沸き立つ。

 トゥルクの占術は晩餐会をひと際盛り上げるサプライズになったと同時に、ガゼ族の付加価値を押し上げる役目を果たした。ドヴァーフ側に竜を操る術だけではない、ガゼ族の能力の高さを見せつけ、交易を結ぶことの有益性を改めて印象付けたのだ。

 翌日から国王オレインはガゼ族との交渉に入り、ペーレウスやシェイドを始めとする何人かの重臣もその場に同席して、様々なやり取りが交わされた。ホレットが慎重な姿勢を強く見せていることもあって、話し合いは何日かに渡って行われることとなった。

 三日目の会談後、先日のトゥルクの占術能力の高さにすっかり魅せられたオレインは、個人的に占ってほしいことがあるとホレットにトゥルクを借りたい旨を申し入れ、ホレットは少し難しい顔をして見せたものの、考えを巡らせた末、それを了承した。

 その夜、トゥルクはオレインの私室を訪れ、上機嫌の国王に迎え入れられることとなる。そしてその光景は、この日以来毎晩のように繰り返されることとなるのだ。



 そしてこれが、誰もが予想だにしなかった悲劇の幕開けとなった-----。



*



 ガゼ族との交渉が始まって一週間ほどが経ったある日-----回廊を歩いていたペーレウスは、内庭の片隅で木に背を預け、一人うつむくようにして座っているレイドリックの存在に気が付いた。

 日頃明朗で涼しげな印象の強い第一王子が珍しく翳りを帯びた表情で、ぼんやりと一点を見つめている。

 その様子が気にかかったペーレウスはそちらへと足を向けた。

「レイドリック殿下」

 声をかけると、うつむいていたレイドリックは顔を上げてペーレウスを見た。

「ペーレウス……」
「こんなところでお一人で、どうなさいました?」
「う……ん、あぁ……」

 レイドリックは不安定に視線を彷徨わせ、言葉を濁しながら再びうつむき黙りこんだ。

 やはり様子がおかしい。

「……どうかなさったのですか?」

 静かな口調で尋ねると、レイドリックは一瞬ためらう様子を見せた後、ややしてから重い口を開いた。

「いい年をしてこんなことで悩んでいるなど、子供のようだと思われそうで嫌なのだが……」

 そう前置きをして、レイドリックは話し始めた。

「父上の様子がな……おかしいんだ。何故かは分からないが、私を避けられている」
「陛下が、殿下を?」

 レイドリックは頷いて、思い悩む心中を吐露した。

「最初は気のせいかと思っていたんだが……ここ数日はお会いしても目も合わせて下さらないし、声をかけても下さらない。こちらから声をかけても、冷たくあしらわれてしまう。理由をお聞きしても、答えて下さらないんだ。こんなことは初めてで、どうしたらいいのか分からない……」

 意外な内容に、表情には出さなかったものの、ペーレウスはひどく驚いた。

 オレインは亡き王妃レティシアの面影を強く残したレイドリックを溺愛していた。それだけに、にわかには信じがたい話だった。

 だが、レイドリックが嘘を言っているとは思えない。王の心によほどのことがあったのだと考えるべきだと思った。

「私には、そんなにも父上の不興を買うようなことをした覚えがないんだ。それとも自分で気付いていないだけで、何か取り返しのつかない過ちを犯してしまったのだろうか-----ペーレウス、父上から何か聞いてはいないか?」

 思い詰めた表情でレイドリックが尋ねてくるが、ペーレウスはそれに答えることが出来なかった。

 最近のオレインは厳しい表情をしていることが多かったが、それはガゼ族との交渉が予想よりも難航している為だと思っていたのだ。

 -----何か、別の要因があるのか。

 この件はまだシェイドも知らないはずだ。いや、おそらく重臣の誰もがまだ把握していないことであるに違いない。

 ペーレウスは何とも言えない胸騒ぎを覚えた。

「殿下、陛下の様子がおかしくなられたのはいつ頃からですか?」
「う、ん……おかしいと思い始めたのは数日前だが……確信したのは昨日、正面切って理由を尋ねて、回答を得られなかった時だ」
「殿下には、陛下のお心変わりの理由が思い当たらないのですね?」
「あぁ……」

 自分達のあずかり知らぬところで、主君に重大な何かが起こっている。

 由々しき事態と判断したペーレウスは、これを伝える為、シェイドの執務室へと向かった。

 しかし、あいにくシェイドは不在だった。室内にいた補佐官によると、保守勢力の横槍で頓挫した例の案件を再び進言する為、先程オレインの執務室へ向かったのだという。

 その情報を受けて主君の執務室へとやってきたペーレウスの耳に飛び込んできたのは、重厚な扉の奥から廊下まで響いてくる、聞いたことがないようなオレインの怒声だった。

 ただごとではない。そのあまりの剣幕に、扉の左右に立つ警護役の兵士達も驚いた様子で顔を見合わせ、どうしたものかと問いたげな視線をペーレウスへ向けてくる。

 いったい何が-----扉の前で息を詰めて中の様子を窺っていたペーレウスは、激しい物音が立つのを聞き、室内へと足を踏み入れた。

 その瞬間彼の目に飛び込んできたのは、物が散乱した室内で、激昂したオレインが今まさに錫杖(しゃくじょう)を振り上げ、シェイドを殴りつけようとしている光景だった。

「-----陛下ッ!」

 驚愕に目を見開き、ペーレウスはオレインを止めに入った。

「いったいどうされたのですか、おやめ下さいッ!」
「ええい、離せペーレウスッ! 離せ、離さぬかッ!」

 ペーレウスに押さえ込まれたオレインは興奮した口調で叫びながら、目の前に佇むシェイドを憤怒の形相でにらみつけた。

「古い因習を取り払い、新しい体制を敷くべきだとッ……! それは、貴様の目論見の一環か! だまされぬぞ……もっともらしい言葉で飾り立ててこの私を誘導し、やがてはあの傀儡(かいらい)を使って、裏でこの国の実権を掌握することこそが、貴様の真の狙いなのであろうッ!」
「……!?」

 シェイドに投げつけられるオレインの言葉の数々に、ペーレウスは耳を疑った。

「恐れながら、仰る意味が-----」

 困惑を表情に刻みながらも毅然とした態度で訴えるシェイドを、オレインは大声で退けた。

「ええい、黙れ! 貴様の言うことは聞かぬッ!! -----去(い)ねい! 今すぐに私の前から失せろッ!!」

 額の血管が切れかねないほどのオレインの乱心ぶりに、今は何を言っても無駄だと悟ったのか、シェイドは一度ペーレウスの方に視線をやり、親友が頷いたのを確認すると、きつく唇を結んで一礼をし、主君の前から退出した。

 肩で大きく息をつくオレインからゆっくりと腕を離したペーレウスは、静かに閉ざされた扉を見つめながら、興奮冷めやらぬ様子の主君に問いかけた。

「……いったい、何があったのですか?」

 室内は惨憺(さんたん)たる状態だった。床一面に書類が散らばり、こぼれたインクや割れた花瓶などが散乱している。

 踏みにじられた書類の一枚をペーレウスは手に取った。それは、保守派に阻まれながらもシェイドとペーレウスが取り組んでいる、警備体制の見直しと強化についての案が書かれたものだった。

 以前のものとはまた少し記述が違っている。より良いものにしようと、シェイドが忙しい業務の合間を縫い、手を加えた跡が見て取れた。

「-----ペーレウス……其方(そなた)……信じていた者に手ひどく裏切られたことは、あるか……?」

 背を向け、デスクに片腕をついて自身の身体を支えるようにしながら、オレインがポツリと呟いた。

「……? いいえ。まだ、そういう経験は……」

 何を意図して、主君はそう呟いたのだろう。表情は見えなかったが、オレインのその後ろ姿はひどく傷付いているように見えた。

「……そうか。良い、下がってくれ……」
「陛下、しかし……」
「独りになりたいのだ……」
「はッ……」

 オレインの背は全てを拒絶していた。それを察したペーレウスはこの場を引き下がるしかなかった。

 どのみち今の主君から何かを聞きだすことは不可能だろうと頭を切り換え、シェイドの執務室へと向かう。

 自室に戻っていたシェイドは、やってきたペーレウスを招き入れ補佐官を退席させると厳しい表情で尋ねてきた。

「陛下のご様子は?」
「……とりあえずは落ち着かれたが、独りになりたいと仰られて、ろくに話をすることも出来なかった」
「……。そうか……」
「いったい、何があった?」

 シェイドは深い溜め息をつき、首を横に振った。

「私にも、何が何やら……。保守派の馬鹿共に潰された例の案件……あれに手を加えたものに目を通していただこうと、現在の問題点やそれに対する私の考えを御前で述べていたところ、突然激昂されて……後は、お前が見たままの展開だ。何故あのような暴言をぶつけられたのか、全くもって分からない」
「傀儡がどうの、この国の実権を握るのどうのと仰っていたな……」
「あぁ……大方どこぞの馬鹿が私をおとしめる為に陛下に良からぬことを吹き込んだんだろうが、情けない話だな。そんなものにたやすく毒されてしまうほど、私は陛下の信頼を得られていなかったということか……」

 自嘲めいたシェイドの嘆きを、ペーレウスはきっぱりと否定した。

「それは違う。お前に対する陛下の信頼は極めて厚いものであるはずだ。その厚い信頼が揺らぐほどの何かがあったんだと考えるべきだろう」
「ペーレウス……」
「オレ達の知らないところで、今、陛下に何かが起きているんだ」

 ペーレウスに諭され、シェイドの表情がいつもの怜悧さを取り戻してきた。それを確認して、ペーレウスはレイドリックの一件をシェイドに語った。

「まさか……!? 陛下が、レイドリック殿下を敬遠されるなど……」

 ペーレウス同様、それを聞いたシェイドは驚きの表情を見せた。

 それほどオレインのレイドリックへの溺愛ぶりは有名で、実際にそれを目にしてきた重臣達にとっては信じ難い話なのだ。

 だが、同時にシェイドは考え込むような表情にもなった。

「どうかしたのか?」
「いや……今の話を踏まえて考えると、陛下の言っていた“あの傀儡”という言葉はレイドリック殿下を指していたものと考えられないか。レイドリック殿下を利用して、私がこの国の実権を掌握しようとしているのだと……。それならば、殿下に対する陛下の態度の急変も頷ける」

 シェイドの言い分は分からなくもなかったが、ペーレウスは懐疑的だった。

「確かにそう言えなくもないけど……でも、だとしたら冷たくあしらうんじゃなくて、まずは必死に子供を諭そうとするのが普通じゃないか? 親だったら……ましてや、あれだけ可愛がっていた子供なら」
「ふむ……親の立場から考えるとそうなるか……」

 シェイドはひとつ頷いて、考えを巡らせるようにゆっくりと室内を歩き回った。

「……実は、レイドリック殿下が仰られているように陛下の様子が張りつめておられるのは私も感じていたんだ。お前も薄々感じていなかったか?」
「それはオレも感じていたけど、ガゼ族との交渉が思うようにいかない為だと考えていた」
「私もだ。始めはガゼとの交渉が予想より難航しているためだと思っていたんだが……どうやら私に対して何か思うところがあるらしいと、最近は感じていた」
「……どういうことだ?」

 シェイドはほろ苦い口調でその理由を述べた。

「ふとした時に壁を感じる……というのかな。何なのかは分からないが、最近の私に対する陛下の態度が妙に硬質でな。私を拒んでいるような雰囲気があった。だが、それは表立ったものではなく、陛下自身抑えようとしているようにも見受けられた。おそらくは何か思うところがあり陛下なりに葛藤されていたのだろう。それを確かめたい思いもあって、今日は陛下に御目通り願ったんだが……」

 言葉を区切り、シェイドは皮肉げに薄い唇を歪めた。

「結果は、あのザマだ」
「そうだったのか。……実はあの後、陛下から気になることを言われたんだ。『信じていた者に手ひどく裏切られたことはあるか』-----と、陛下はそう、オレに言われたんだ」

 シェイドは灰色(グレイ)の瞳をわずかに細めた。

「では、陛下は-----」
「あぁ。多分、何かしらの形でお前に裏切られたと思い込まれているんだと思う」

 言いながら、ペーレウスは口元を結ぶシェイドの秀麗な顔を見やった。

「お前と殿下に対する陛下の様子がおかしくなったのが同時期ってことは、二人に関わる何かを、誰かがこの比較的短い期間の中で陛下に吹き込んだってコトだろ?」
「……そういうことになるな」

 シェイドが頷く。互いの瞳を見つめ合い、親友が自分と同じ考えであることを読み取って、ペーレウスは口を開いた。

「……トゥルクか」
「そう決めつけるのは時期尚早だが、その可能性は高いな。あの男なら、誰もいないところで陛下に好きなことを吹き込むことが出来る」

 ペーレウスは最悪のシナリオを思い浮かべずにはいられなかった。

「もしかしたら、今回の話自体が陰謀だったってことも有り得るか? 裏でウィルハッタが糸を引いているとか……」
「いや、おそらくウィルハッタは無関係だろう。警戒心が強くこちらが長年接触することも出来なかったガゼに、余所者のウィルハッタが接触出来るとは考えにくい。……まずは確かめよう。トゥルクに話を聞きに行くんだ」
「……だな」

 とりあえずのやるべきことが定まり、二人は連れ立ってシェイドの執務室を後にした。



*



 トゥルクにあてがわれた客室前へやってきたペーレウスとシェイドは、室内から微かにもれ聞こえる声に気が付き、ノックしかけた手を止めた。

「トゥルク。あれから毎晩のように国王の下へ行っておるようだが……いったい、何を占っている?」
「陛下の私的な事柄ですよ。私の腕をずいぶんと買って下さっているようでして……」

 声の主はどうやら、トゥルクとホレットのようだ。ペーレウス達はドアの前でそっと耳をそばだてた。

「お前はガゼの占術師だ。あまり深入りはするな……長い歴史を持つ大国には、触れてはならぬ闇の部分が少なからず存在するものだ」
「ご心配なさらずに……心得ています」
「折り重なった歴史の闇は、おそらくお前が思うより深いものだぞ。ずうっと……な」

 会話の内容から察するに、ホレットはトゥルクとオレインとの関係に一抹の危惧を抱き、忠告をしているらしい。

「ええ……そうでしょうね。たかだか数十年しか生きていないこの私が大国の深い闇を推し量ろうなどと、おこがましいことは元より考えておりません。私はただ自らの役目に従い、この水晶球に真実を映し出すだけ……」

 トゥルクは苦笑混じりにそう述べるものの、続くホレットのしわがれた声からは懸念の色が消えない。

「ならばいいが……ここ数日、国王の顔がどうも精彩を欠いてきているように見えてな。年を取ると、些細なことにも気が行ってしまってかなわん……」
「細部まで目が行き届くのは良いことです。人の上に立つ者としては、当然のことかと」
「……。お前のことは信頼している。占術師としての力量も、充分に承知している。だが、それ故に老婆心が疼く。……決して、闇に取り込まれるな」
「……ガゼの占術師たる私は、常に真実と共に。闇になど、取り込まれません」

 その会話を最後に室内に沈黙が落ち、やがて近づいてくる靴音と共に内側から客室のドアが開き、ホレットが顔を覗かせた。

 部屋の前に佇むペーレウスとシェイドを見たホレットは一瞬目を見開き、一礼をした二人に無言で礼を返すと、足早に立ち去った。

「-----これは、騎士団長殿に魔導士団長殿。お二人おそろいで、いかがなさいました?」

 ペーレウスとシェイドに気が付いたトゥルクは特に驚いた様子もなく、両腕を広げ二人を室内へと招き入れた。

 客人用の広い造りの室内に、彼らを除いた人の姿はなかった。

「突然お邪魔して申し訳ない……娘さんは?」

 勧められたソファーに腰掛けながらペーレウスが尋ねると、トゥルクはその正面の椅子に自らもゆったりと腰を沈めながら、切れ長の琥珀色(アンバー)の瞳を二人へと向けた。

「シェスナは陛下の許可をいただきまして、毎日のように城内を散策させていただいています。あの子はガゼの村からずっと出たことがなかったものですから、連日あれを見たこれを見たと大騒ぎですよ。……しばらくは戻ってきませんから、お話を伺うのに差しつかえはありません。それで……どのようなご用件でしょうか?」

 ペーレウスの隣に腰を下ろしたシェイドが、表情は変えないまま真っ直ぐに斬りこんだ。

「……単刀直入に伺いたい。主君は貴方に、連日何を占ってもらっているのだろうか」

 トゥルクはやんわりとそれに応じた。

「守秘義務がありますので、陛下の私的な事柄に関して……としか」
「では、聞き方を変えよう。-----いったい何を陛下に吹き込んでいる? 目的は何だ?」

 低音を帯びたシェイドの声に、表には出さなかったものの、ペーレウスは内心ぎょっとした。オレインがおかしくなった原因がトゥルクだと決めつけるのは時期尚早、と言っていたシェイドが、ここまで露骨な問い方をするとは思わなかったのだ。

 だがトゥルクはまるで動じた様子も見せず、静かにシェイドに問い返した。

「吹き込んでいる……とは?」
「とぼけないでいただきたい。貴方の占術を受けるようになってからというもの、明らかに主君の様子がおかしい。貴方が占術を利用してあることないことを吹き込み、主君を混乱させているのではないのか!」
「-----何を仰られるかと思えば……」

 トゥルクは左右にうっすらと唇を割り、失笑を禁じえないといった風情で眼差しを伏せた。だが次に眼差しを上げた時、穏やかな表情はそのままに、彼の瞳の奥には凍てつくような光が宿っていた。

「甚(はなは)だ心外ですな。私は占術師……この世の全ての真実を導き出し、映し出す者。その私が自身という存在の基盤である真実を欺くことは、ありません。例え、この身が朽ち果てようとも……」

 シェイドの言葉はトゥルクの矜持(きょうじ)を著しく冒涜(ぼうとく)するものであったらしい。

 自らの誇りを穢された瞬間、トゥルクの新たな一面が剥けた。言い知れないおぞましい空気が彼の内部から滲み出る。それを敏感に察知した二人は、背筋に冷たいものが走るのを覚えた。

 トゥルクの持つ、底知れぬ深い闇が垣間見えたような気がした。

「私は誇り高きガゼの民であり、真実の伝導者-----偽りは、申しません。どうしても、ということであれば、直接陛下にお聞き下さい。私の方からは、何も申し上げることはありません」

 お引取りを、と抑揚のない声でトゥルクが告げる。これ以上は何も聞きだせそうになかった。

「……突然お邪魔し、ぶしつけな質問を失礼した」

 儀礼的にそう述べてソファーから立ち上がり、シェイドが背を翻す。彼の後を追ってトゥルクの客室を後にしたペーレウスは、前を行く友人の隣に並びながら小声で囁いた。

「シェイド……気が付いたか?」
「あぁ……やはり、お前も感じたか」

 前方を向いたままそう返すシェイドに、ペーレウスは頷いた。

「あぁ。アイツ……何ていうか、ヤバい」
「同感だ」

 そこから先は二人、無言のまま歩いた。彼らが再び口を開いたのはシェイドの執務室に戻ってからである。

「ああいうタイプは正攻法でもっていっても、のらりくらりとかわされるだけだと思ってな。敢えてあのような言い方をしたんだが、効果はあったな」

 ペーレウスをぎょっとさせたシェイドの質疑にはそういう意図があったらしい。具体的な言質を取ることは出来なかったが、それによって明らかになったことがあった。トゥルクの占術に対する真摯な姿勢である。

 彼は占術師という自らの職に高い誇りを持っており、シェイドの発言を看過出来ない侮辱だと捉えた。そして静かに、だが深く激し、新たな一面を見せることとなったのである。

 それらのことから、トゥルクにとって占術は非常に崇高なものであることが窺えた。

 彼にとって占術は己の魂そのものなのであり、言うなれば、ペーレウスにとっての剣であり、シェイドにとっての魔法なのだ。間違ってもそれを捻じ曲げるようなことはすまい。

 そこから導き出される答えは、トゥルクは虚偽の占術を用いてオレインを篭絡(ろうらく)しているわけでないということだ。

 ならばあのオレインの変容ぶりは、トゥルクの占術で何らかの“真実”を知ってしまったが故のものなのか。あるいは、トゥルクの占術とは何ら関係がないところで起こっているものなのか。

「いや、トゥルクが関係していないはずはない……」

 眉間にしわを寄せながらシェイドが唸る。ペーレウスも同感だった。

 誇りを穢されたトゥルクが自らを完全には抑え切れず、もうひとつの顔を垣間見せたあの瞬間-----彼らの疑惑は証拠のない確信へと変わっていた。

「何ていうか上手く言えないけど、アイツのあの空気-----あれ……何なんだろうな? 正直、今までにない種類の戦慄を感じたよ」
「確かに名状しがたいものではあったな……まるで、負のエネルギーを凝縮させたかのような……。何にしろ、危ないものであることに間違いはない」
「今回の件、トゥルクの単独行動だと思うか?」
「おそらくな。……先程のホレットとのやり取りを聞いた限りでは、ガゼ族自体は無関係と考えていいだろう。ホレットは薄々それに気付き、トゥルクの行動を訝(いぶか)しんでいる」

 シェイドはそう言って整った眉をひそめた。

「奴の狙いが何なのかは分からないが、虚言で陛下を操っているわけでないのならやっかいだ。虚言であれば、それが偽りであることさえ証明出来れば陛下の誤解もすぐに解けるだろうが、奴の占術でこれまで陛下が知り得なかった“何か”が明るみに出て、それが元で今の状態になっているのだとすると……」

 宙をにらみ、シェイドは憤然と腕を組んだ。

「……いったい何なんだ? 私とレイドリック殿下に関わりがあることで、陛下が私に裏切られたと思い込むようなことなど……」

 いくら考えても答えなど出てこないに違いない。シェイドがどんなにこの国の為に尽力しているかは、ペーレウスが一番良く知っている。それに、彼の父であるランカート卿はオレインの傍らで長年宰相を務め、厚い信頼を得ていたのだ。何より、オレインはシェイドの明晰な頭脳と賢者としての実力、そして利権に左右されない人柄を高く評価していた。だからこそ、彼は今この若さで魔導士団長という要職に就いているのだ。

 その信頼が崩れるほどの、重い“何か”。

「明日にでもまた折を見て、オレが陛下に確認してみる。とりあえず今はトゥルクの動向に注意しよう。何人か信頼できるヤツをピックアップして、交代で見張るんだ。事が事だけに最小限の人数がいい」
「そうだな……事態が掴めないうちは、情報の漏洩は最小限にとどめた方がいい。少人数の方が機動力にも優れているしな」

 ペーレウスの意見に同調しながら、シェイドはふと瞳を翳らせた。

「……奴をこの城に招き入れてしまったのは我々の責任だ……奥底にあれほどおぞましいものを飼っている輩だと、見抜くことが出来なかった。失態もいいところだ」
「……。そうだな……でも、そんなことを今言っても始まらない。嘆くのは後だ」

 珍しく後ろ向きな発言をする親友の肩を叩き、ペーレウスは力強く言った。

「失態分は、取り戻せばいい。陛下が何に思い悩んでいるのか……それさえ分かれば、いずれ誤解は解ける。お前には何もやましいところがないんだ、後は善処するのみさ」
「ふ……そうだな……」

 いつものように真っ直ぐな親友の瞳を見て、シェイドはわずかに口元を緩めた。いつの間にか暗くなっていた思考を引っ張り上げられて、自分がらしくもない呟きをもらしてしまったことに気付く。

「お前の言う通りだ。嘆くのは全てが終わってから、だな。-----よし、さっそく必要人員をピックアップしよう」

 いつもの表情を取り戻したシェイドがデスク上に次々と名前を書き出していく。その傍らでペーレウスが何人かの名前を挙げ、二人は意見を交わしながらしばし熟考を重ねたのだった。



*



 その波動に気が付いたのは、初めてドヴァーフ城を訪れた時だった。

 これまでに感じたことのない、不思議な旋律を伴った波動-----それは抗い難い魔力を持って、トゥルクの心をさざ波のように揺らした。

 周囲の人間は誰もそれに気が付いていない様子だった。どうやらこれは、特定の者以外には感じられない種類のものらしい。

 国王との謁見が叶い、ガゼの現状と自らの計画について述べている間も、それはトゥルクの心を妖しく揺らし続けた。

 -----この波動はいったい、何なのか。

 密約を結びガゼの村へ戻ってからも、その一件はトゥルクの心を捉えて離さなかった。

 自らの半身たる水晶球で占ってみると、うねるようなひどく不鮮明な映像が映し出された。間に何か大きな力が働いているらしく、映し出すことが出来ない。こんなことは初めてだった。

 王都から離れた今となっては、あの波動をこの身に感じることも出来ない。だがそれ故に、恋慕にも似た思いがトゥルクの中では募っていった。

 そして-----ふた月ほど経って、トゥルクが再びドヴァーフ城の門をくぐった時。

 占術師としての天賦の才能と、募る思いが導火線となり、それを呼び寄せたのか。トゥルクは前回とは比べものにならないほど、強烈なあの波動を全身に感じた。

 身体中を駆け抜ける、雷に穿たれたような衝撃。恍惚感にも似た、魂の戦慄。

 肌が粟立つほどに“それ”を身近に感じた。

 危険だと本能がどこかで告げたが、抗い難い魅力を持つそれを前に、そんなものは吹き飛んでしまっていた。

 この波動とこれほど深く共鳴した今ならば、この波動をこんなにも深く感じられるこの場でなら、自身の力をもってその正体を映し出すことが出来るに違いない-----そう、彼は確信した。

 そして、自らの半身たる水晶球の中にその姿を映し出すことが出来た時-----開かれたガゼの未来を、とあれほど望んでいた男の目的は、別のものにすり替わった。



 魂が震えるほど美しい、美しい、漆黒の宝玉。



 水晶球の中に映し出されたその姿に、トゥルクは心を奪われた。

 いや、真実の伝道者を自負する彼の誇りが、自らの使命に目覚めた。

 水晶球を媒介して、トゥルクにはこの宝玉の“真実”が伝わっていたのだ。

 彼と同じように鋭い感覚を持つ彼の娘は、この宝玉が放つ波動を“声”と表現した。


「“声”……あぁそうだね、これは……確かに我々を呼ぶ“声”だ」


 その表現に深く頷きながら、トゥルクは自らの天命を悟った。

 全ては神のお導き-----この世のありとあらゆる真実を映し出すと伝えられる魔法王国ドヴァーフの秘宝『真実の眼』は、それを扱う力量を持った者を得られず、長年に渡って不当にこの城の地下に封印され続けてきた。その嘆きの声に誘われて、自分はここにたどり着いたのだ。

 己らの力量不足を補おうともせず、全てを知る力を持つ神器を不当に眠らせておくことはそれを授けた神に対する冒涜であり、“真実”を扱う者である自分にはそれを解放する義務がある。自分こそが神に選ばれし唯一絶対の使い手であり、真実の眼はその私を選んだのだ。

 その証に、神は真実の眼を解放する為のシナリオを用意してくれていた。


 それは、人の心を深く切り裂く、最も残酷な種類の“真実”。


「トゥルク……私はいったい、この激情をどこにもって行けばいいのだ……。誰を信じ、何を受け止め、どこへ向かえばいい……」

 彼の目の前で嘆き、絶望に駆られているのは、この国の王だ。

 いかに一国の主とはいえ、権威という名の衣を剥ぎ取ってみれば、所詮は一人の人間にすぎない。

 打ちひしがれる魔法王国の国王を前に、トゥルクは優しいとさえ思える口調で、こう告げる。

「何も思い悩むことはないのです。全ては、陛下の御心の赴くがままに……」


 真実の伝道師たる占術師の掌の上で、今、魔法王国を舞台にした悲劇の幕が上がろうとしていた-----。
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