ドヴァーフ編

夢幻抱擁


 あの後、アキレウスが早速パトロクロスにあたしの外出許可を取り付けに行ってくれたおかげで、あたし達はその日の夕刻前、幻影ホタルを見に行く為にドヴァーフ城を出ることが出来た。

 アキレウスは黒っぽい平服に剣帯を帯びただけの軽装で、いつもの青い外套を羽織っている。あたしは以前アキレウスに買ってもらった茶色のワンピースの下に黒いレギンスを履き、ホワイトウルフの毛皮で作られたおなじみの白い外套を羽織っていた。

 何だかこうして外に出るの、久し振りだな。

 アキレウスと二人っきりっていうのと、前から楽しみにしていたところにやっと連れて行ってもらえるっていう嬉しさもあって、あたしのテンションは今、最高潮に高まっている。

 秘密の場所は王城の裏手側にそびえ立つ断崖絶壁、この頂上に続く道から大きく逸れた森の中にあるらしい。

 この断崖絶壁、お城の裏山って言ったらいいのかなぁ? 王城側は岩が剥き出しの切り立った崖となっていて、反対側は鬱蒼(うっそう)としたかなり傾斜のきつそうな森が広がりをみせている。

「子供の時に、よくこんなところに登ってみようって思ったね」

 アキレウスの隣を歩きながら、こんもりと木の生い茂るそれを眺め吐息混じりにそう言うと、彼は軽く肩をすくめてみせた。

「子供だから思ったんだよ。頂上まで行って上から城を見下ろしてみようって、単純に」

 ははぁ、なるほど。確かに、ここに積極的に登ろうっていう大人は少ないだろうなぁ。

 幻影ホタルっていう目的がなければ、あたしだって登ってみようとは思わないもん。

「それにしても、あんなトコまで登れたの?」

 遥か彼方の頂上を見上げてそう尋ねると、アキレウスは首を横に振った。

「いや、無理だった。半分も登れなかったな。途中でみんな根を上げて引き返したんだ。その時道に迷ってさ。彷徨ってるうちに偶然、幻影ホタルの溜まり場を発見したんだ」
「へぇ……」
「あの時はスゲー感動したな。みんな、それまでの疲れも忘れて黙りこくっちゃってさ……口を開けて、ただ幻想的なその光景に見入っていたっけ」

 アキレウスは少しだけ瞳を細めて、懐かしそうに笑った。

「何がどう転ぶか分からないもんだねー。でも、その後は無事に街まで帰れたの?」
「ぼろっぼろになりながら何とか。園にたどり着いた時には夜が明けていてさ、心配して門の前で待っていた園長(マザー)に、みんなで滅っ茶苦茶に怒られた」

 あはは、それはそうだろうなー。

「今にして思うとホント無謀だったなぁ……この険しい山があるからこそ、王城はあそこに建っているのにな。当時はそんなコト、思いもよらなくてさ。道らしい道もないし、背後から急襲しようにも、あの傾斜じゃ重装備の大部隊なんて送れない……天然の要塞だ」

 アキレウスに言われて、初めて気が付いた。

 ああ、そうか。自然の理をうまく利用してドヴァーフのお城は建てられているんだ……。

「よしオーロラ、ここから入るぞ。けっこうキツイからな、覚悟しろよ」

 そう言ってアキレウスが立ち止まったところには鬱蒼とした森があるだけで、道らしきものはどこにも見当たらなかった。

「えぇ、ここ? 一応道っぽいのがあるんじゃなかったの?」

 驚いてそう聞くと、アキレウスは苦笑気味に答えた。

「実はこの裏山、一般人は立ち入りが制限されているんだ。道らしきものがあるところには、城の兵士達が見張りに立ってるんだよ。だからいつもここからこっそり入っていたんだ」
「そ、そうなの? 聞いてないよー」
「どうする? 戻るか?」

 悪戯っぽくアキレウスが尋ねてくる。

 ここで帰っちゃったら、何の為にパトロクロスに許可までもらって出てきたのか分からない。

「ううん、行く! 絶対に幻影ホタルを見るんだから」

 息巻いて即答すると、アキレウスは口元をほころばせた。

「そう言うと思った。-----行こう」

 生い茂る草をかき分けるようにして、あたし達は険しい裏山へと足を踏み入れた。

 これまでの苛酷な旅で険しい山道には慣れているつもりだったけど、アキレウスの言っていた通り、傾斜がキツくて足場もかなり悪い。

 懸命に歩くうちに、最初は茜色に染まっていた空がどんどんその色を失くしていき、辺りが宵闇に包まれて魔法の明りを灯すことになる頃には、あたしはすっかり息が上がってしまっていた。

「大丈夫か?」
「大、大丈、夫……」
「大丈夫じゃないな、この辺で少し休憩しよう」

 アキレウスはそう言うと、張り出した木の根元に腰を落ち着けた。その向かいの木に背を預けるようにして座りながら、あたしはへとへとの自分とは対照的に余裕綽々(しゃくしゃく)の彼に肩で息をしながら尋ねた。

「アキレウス、最後には頂上まで登ったんでしょ……?」
「まぁ……オレ、負けず嫌いだからな」
「やっぱり」

 道らしき道もなく、これと言って目印になるようなものもないこの急斜面を、何の迷いもなく登っていけるんだもん。一回や二回登ったくらいじゃこうはいかないと思った。

「絶対登り切りたくてさ……さすがにみんなを道連れにするわけにはいかなかったから、一人で何度もチャレンジしたんだ。何度も失敗して、その度に幻影ホタルを見に立ち寄った。何年かして、やっと頂上を制覇した時には感動したなー。眼下に広がる王都を見下ろしたあの時の光景は、今も忘れられない……」

 そう語るアキレウスの声には、深い感慨がこもっていた。両親を失い、周囲の動乱に翻弄された少年時代の彼は、様々な想いを胸に、生まれ故郷である王都の風景を見下ろしていたに違いない。

 少しだけ、あたしの知らないアキレウスの過去に触れられる時間。ほんのりと苦くて切ない、けれどとても貴重で、大切だって感じられる時間。

「オレも負けず嫌いだと思うけど、オーロラもそうじゃないか?」

 アキレウスに突然そう振られて、あたしは瞳を瞬かせた。

「え、あたし? そうかな?」
「自分のチカラ、だいぶ使いこなせてきてるじゃん。陰でずいぶん努力したんじゃないのか?」

 周囲の宵闇を照らし出す、あたしが作り出した空中に浮かぶ球状の魔法の光を見やりながら、アキレウスはあらかじめ用意してきていた軽食と水筒を道具袋の中から取り出し始めた。

 時間が許す限りの毎日の一人特訓の賜物で、この頃のあたしはだいぶ魔法力の制御が出来るようになっていた。以前は苦手だった細く、小さく、狭くといった範囲の応用もかなり利くようになっている。

 でもそんなふうに言われると、何だか照れちゃうな。

「負けず嫌いっていうか、ただ必死で……自分のチカラを使いこなせないのって、何か悔しいし」
「そういうのを負けず嫌いって言うんだと思うけど」

 アキレウスが小さく笑いながら軽食と水筒とを手渡してくれる。あたしはちょっと赤くなりながら彼からそれを受け取った。

 そうなのかな? 確かに自分には負けたくないって思っているけど。

「……オレさ」

 わずかな沈黙の後、取り出したパンをかじりながら、少しだけ改まった口調でアキレウスが切り出した。

 淡い魔法の光に映し出された宵闇の山中で、地面に視線を落とした彼の表情は何だかいつもよりずっと大人びて見えて、水筒の水を口に含んでいたあたしはこくん、とそれを飲み下しながら、彼の言葉の続きを待った。

「国王との約束、思い出したんだ」

 もたらされたその言葉を聞いて、あたしは藍玉色(アクアマリン)の瞳を大きく瞠(みは)った。

「ええ!? ホント!?」
「ああ」

 神妙な顔をして頷くアキレウス。あたしは驚きと安堵とがないまぜになった感情の中で、ほうっ、と息を吐き出した。

「そっか……良かった」

 アキレウスに対するレイドリック王達の雰囲気から、彼が思い出せないと言っていたその約束には、多分、とても大切な意味があるんじゃないかって、あたしは陰ながら気にかけていたんだ。

 その約束をアキレウスが思い出せたんなら、本当に良かった。

「どんな約束だったの?」
「十年前の、父さんの事件に関する約束だった。オレが大人になった時に、変わらない揺るぎない信念をオレの中に見い出せたら、真実を伝えようっていう……そんな感じの内容だった」

 十年前の……『紅焔(こうえん)の動乱』の真実……。

 でもそれは、先日の戦乱の最中にレイドリック王の口から語られたはずじゃ……?

「お父さんの件は……レイドリック王があの占い師に語ったっていうあれが全てじゃ、ないの?」

 戸惑いながらそう尋ねると、アキレウスは再び視線を落とし何かを考え込むような顔になった。

「いや……国王が彼女に語った内容に嘘はなかったんだろうけど、あの件に関する話は、それが全てじゃない。まだ語られていない、真実があるはずなんだ……」

 あたしはかみしめるように呟いた彼の言葉に違和感を覚えた。

「アキレウス……?」

 もしかしたら、約束の他にも何か思い出したことがあるのかな……?

 アキレウスはそんなあたしを見て、ふっと微笑んだ。

「約束を思い出したこと、国王に伝えたんだ。国王はそうか、ってただそれだけ言っていた……多分、近いうちに向こうが時間を作ってくれると思う。その時……オーロラ達にも一緒に話を聞いてもらおうと思っているんだ」

 そう言ったアキレウスの翠緑玉色(エメラルドグリーン)の瞳は落ち着いた輝きを放っていて、あたしは彼の中で既にそれを待つ準備が出来ているのだということを悟った。

「うん……分かった」

 頷きながら、あたしはこんなにも落ち着いたアキレウスの瞳を見るのがずいぶんと久し振りだと思った。彼のこんな瞳を見るのは、本当に久し振りだ。ドヴァーフに入ってからずっと不安定な光を放っていた翠緑玉色(エメラルドグリーン)の瞳が、嘘のように以前の落ち着きを取り戻している。

 もしかしたらレイドリック王との約束を思い出したことがきっかけで、アキレウスの中にあった何らかのわだかまりが溶けて、彼はいつもの自分を取り戻したのかな……。


 休憩を挟んで、再びあたし達は歩き始めた。


 足場はますます悪く、傾斜は更にきつくなっていく。

「わッ」

 小石を踏んで足を滑らせかけたあたしの手をアキレウスが掴んで、支えてくれた。

「あ、ありがとう」
「もうちょっとだ。頑張れ」

 そう言って励ましてくれる彼に温かな気持ちでいっぱいになって、あたしの顔から自然と笑みがこぼれる。

「……うん!」

 いつも思う。アキレウスの手は、何て心強いんだろう。この手に掴まるだけで、あたしは不思議なくらいの安心感と、心の底から頑張ろうっていう力を与えてもらうことが出来る。



 ……大好き。



 その想いが、たまらなく溢れてくる。



 アキレウスのことが、自分でもどうしたらいいか分からないくらい-----本当に、大好き。



 死の淵から生還したあの時、重なっていた彼の唇の感触を思い出すたび、あたしの胸は切ない音を立てる。きゅっとしなって、記憶に残る甘い余韻に胸の奥が震えるのを感じる。

 あたしの想いを知ったら、アキレウスは戸惑うだろうか。

 困って、その翠緑玉色(エメラルドグリーン)の瞳を彷徨わせるだろうか-----。

 彼に自分の気持ちを伝えるのは、正直とても怖かった。

 それを伝えるのはとても勇気のいることだけど、けれど、その一歩を踏み出さなければ、アキレウスは永遠にあたしの想いを知らないままだ。

 取り返しのつかない後悔だけは、絶対にしたくないと思った。

 ドヴァーフ城の地下の石室で、死を意識したあの刹那にあたしの脳裏を埋め尽くした想い-----あの時、あの瞬間、全身で感じた壮絶な後悔と、悲痛なまでの彼への想い。あれが、あたしの裸の心だ。ありのままの、偽りのないあたしの全てだ。



 いつか、あたしがいなくなった時-----アキレウス、あなたには本当のあたしを思い出してほしい。あなたのことが大好きだった、あたしという女の子がこの時確かにあなたの側にいたんだということを、覚えていてほしい。



 急な山道をどれくらい歩いただろう。

 あたしはふと、足元の傾斜が緩くなってきていることに気が付いた。

 アキレウスの後についていくのに必死で今まで気付かなかったんだけど、あたし達はだいぶ前に登ることをやめ、今は目的地に向かって山の中腹を縫うようにして進んでいるところだった。目的地が近いのか、急だった足場は段々平らに近づいてきていて、やがて、鬱蒼とした木々が途切れ、森の裂け目のようになっている場所へとあたし達はたどり着いた。

 森の裂け目から漆黒の空が見える。目の前には樹木の代わりに背の高い草が生い茂り、その先の視界を遮っていた。気のせいか、その辺りの闇がぼんやりと淡くなっているように感じられて、あたしは目を細めた。

「この茂みの向こうだ。オーロラ、明りを消して」

 振り返ったアキレウスにそう告げられ、あたしは魔法の光を消した。すると、淡いと感じていた目の前の闇が仄(ほの)かな青い色に彩られていることが分かった。

「わぁ……」

 あたしは小さく歓声を上げ、高鳴る期待に瞳を輝かせた。

 ついに、たどり着いたんだ。

 何だかドキドキしてきた。

 それまでの疲れも忘れて興奮に胸を躍らせるあたしを見やり、アキレウスは背丈ほどの高さもある目の前の茂みの中に片手を差し入れると、それを横に払うようにしてあたしの通れる道を作り、もう一方の手をうやうやしく自分の胸元に当てて、冗談っぽく一礼した。

「ようこそ-----秘密の場所へ」

 彼の作ってくれた茂みの隙間を通り抜けると、突然目の前が開け、そこに幻想的な空間が出現した。

 天空に浮かぶ蒼白い月。その下には、夜の闇と降り注ぐ月光とを映し出す静謐(せいひつ)な泉があった。

 その周辺に溢れているのは、幾千もの淡く儚げな、夢幻の光。青から白、白から赤味を帯びた紫へ、そしてまた青へとその色を移り変えながら、たくさんの幻影ホタルが音もなく飛び交い、揺れる幻想的な光を月明りの下に惜しげもなく晒している。

 鬱蒼とした森に覆われた険しい山の一角に突如として現われた、現実離れした、まるで夢のような空間。

 スゴい……。

 想像以上のその美しさに、あたしはしばらく息をするのも忘れて、闇夜を彩る神秘的なその光景に見入っていた。

「綺麗だろ?」

 言葉を失くして佇むあたしの後ろから、ゆっくりとアキレウスが歩み寄ってきた。幻想的な光の競演に心を奪われていたあたしは、我に返って後ろの彼を振り返った。

「う……うん! スゴい……本当に綺麗!」

 あまりの感動に、自分の声が震えているのが分かった。

「こんなに綺麗な光景、初めて見た……何だか、現実の世界じゃないみたい……」

 アキレウスは陶然とその世界に引き込まれているあたしを見て、小さく笑った。

「近くまで行ってみるか?」

 幻影ホタルの光が氾濫する夢幻の揺らめきの中を歩いて、あたし達は泉の縁までたどり着いた。澄み切った泉は水鏡と化して、ホタル達の溢れる光を自身の中に浮かび上がらせながら、神秘的な煌きを放っている。

「何だか不思議な魔法みたい……」

 そう呟きながら、あたしは泉に向かってそっと手を差し出してみた。するとその掌に一匹の幻影ホタルが舞い降りてきて、羽を休めながら、様々な色合いを織り成す儚く美しい光を点滅させた。

 わぁっ……。

 あたしは何だか無性に嬉しくなって、子供のように頬を紅潮させながら、アキレウスにそれを見せようと、傍らの彼を振り仰いだ。

「見て見て、アキレウス-----」



 その瞬間、翠緑玉色(エメラルドグリーン)の瞳にぶつかって、あたしは息を飲んだ。



 唇に触れる、温かくしっとりとした、覚えのある感触。



 驚くほど間近に見える、閉じられたアキレウスの睫毛。



 いったい何が起こったのか理解出来ず、目を見開いたまま全ての動きを止めたあたしの掌から、音もなく幻影ホタルが飛び立っていった。



 それは多分、ほんの一瞬の出来事。



 気が付いてみればいつの間にか互いの唇は離れ、ひどく近い距離であたしはアキレウスと向かい合っていた。

 瞬きも忘れ、茫然としか言いようのない面持ちでアキレウスを見つめていたあたしは、人形のようにぎこちない動きで微かに震える指を操り、自らの唇に触れた。

「……。え……?」

 真っ白になっていた意識が、ゆっくりと動き出す。

 何……今……アキレウスの、唇が……。

「え……?」

 バカみたいにもう一度呟きながら、あたしは彼を見つめたまま一歩後退(あとずさ)った。

 今……キ、ス……した、よね……?

 そう認識した途端、全身が燃えるように熱くなる。

 無言のままあたしを見つめるアキレウスの表情は、今までに見たことのない、内に秘めた何かを感じさせる男の人のそれで。いつものあたしの知っている彼とは雰囲気が全然違っていて、それがあたしの動悸をひと際大きなものにさせた。

 う、そ……。

 突然の出来事に様々な感情が入り乱れて、どうしたらいいのか分からなくなる。

 あたしは真っ赤な顔で潤んだ瞳をアキレウスに向けたまま、また一歩後退った。

「おいっ……」

 その時、アキレウスが慌てた様子で手を伸ばしてきた。それに驚いたあたしは、反射的にもう一歩退がってしまった。

 途端、視界がひっくり返る。

 真上に月が見えた、と思った次の瞬間、あたしの手首を掴んだアキレウスもろとも、あたし達は盛大な水飛沫を上げて泉の中に落ちていた。

「……!!」

 ひんやりとした水の感触に包まれて、気泡だらけのその中でもがきながら、あたしは大急ぎで水面に顔を出した。

 幸いなことに泉の深さはあたしの胸辺りまでしかなかったんだけど、鼻から口から大量の水を吸い込んでしまって、あたしは激しくむせ返った。

「オーロラ、大丈夫か!?」

 アキレウスが水を掻き分けながら近づいてくる。

「うっ……うっ、ん……」

 むせ返りながらで頷くと、アキレウスはホッと息をつきながら、少し恨めしそうにあたしを見た。

「何も、泉に落ちるコトないだろ……」
「-----だ、だって……」

 涙目でアキレウスを見上げたあたしは、水に濡れた彼の姿を見て、抗議の言葉を飲み込んでしまった。

 だって-----。

 水の滴るアマス色の髪の隙間から覗く、野性的な翠緑玉色(エメラルドグリーン)の双眸。月光を浴びた精悍な顔立ちにはどこか男性的な艶があって、濡れて纏わりついた彼の衣服はその鍛え抜かれた身体の輪郭を露わにしてしまっている。

 頬を上気させたまま動きの止まってしまったあたしを見つめながら、アキレウスがそっと腕を伸ばしてきた。

「おかげでびしょ濡れ、だ……」

 そう呟きながら、あたしの頬に張りついた黄金(きん)色の髪を指で掬(すく)い、耳元へ流してくれる。

 その指が耳元から頬に伝い、そして掌全体で包みこむようにして触れた。

 様々な感情の色に揺れるアキレウスの瞳に真正面から捉えられて、あたしは小さく喉を上下させた。

 幻影ホタルの舞う光が乱舞する中、彼の瞳には彼を見つめるあたしの姿だけが映っていた。

 あたしはいつかのように、アキレウスの瞳から目が離せなくなった。



 縛られる-----翠緑玉色(エメラルドグリーン)の、瞳に。



 頬を心持ち斜めに傾けながら、アキレウスの顔がゆっくりと近づいてきた。

 気が遠くなるような自分の鼓動の音を聞きながら、あたしは吸い寄せられるようにして瞼を閉じた。



 水に濡れた唇に、彼の熱い唇が重なる。



 その感覚に、胸が震えた。

 一度小さく濡れた音を立てて唇を離しながら、アキレウスはたくましい腕であたしの腰を引き寄せ、熱っぽい声であたしの名前を囁いた。

「オーロラ……」

 耳元に彼の熱い吐息がかかって、腰から砕けてしまいそうな気がした。

 そんなあたしをきつく抱きしめながらアキレウスは再び唇を寄せ、ついばむような優しいキスを繰り返した。

 あたしは甘い痺れに胸を震わせながら、彼の口付けをどこか夢現(ゆめうつつ)の思いで甘受していた。

 これは本当に、現実の出来事なんだろうか。

 もしかしたら、あたしの願望が見せた幸せな幻想なんじゃないだろうか-----。

 思わず脳裏をよぎってしまうそんな心配を裏切るように、密着した互いの身体は熱く、濡れた衣服を通して、硬い筋肉に覆われたアキレウスの確かな質感が伝わってくる。その熱が、伝わってくる鼓動が、これが紛れもなく現実の出来事なんだということをあたしに教えてくれる。

「アキレウス……」

 めくるめく幸せに包まれて、息が出来ないくらい胸がいっぱいになる。

 あたしはアキレウスの腰に腕を回し、自分からも彼に抱きついた。

 アキレウスは柔らかく瞳を細めてあたしに微笑みかけると、優しくあたしの髪を梳(す)き、おでこにそっと口付け、それから少しだけ強めに、あたしの唇に唇を押し当てた。

 感情が昂って、あたしは今にも涙が溢れ出てしまいそうだった。

 -----アキレウス……アキレウス……!

 もう、彼のことしか考えられない。

 言葉に言い尽くせないくらい大切で、愛しくて……その想いで胸を埋め尽くされながら、あたしは彼に抱きつく腕に力を込めた。

 ずぶ濡れになったまま固く抱き合い口付けを交わすあたし達の姿を、幻影ホタル達の幻想的な輝きが夜の闇からそっと包み隠していた。



*



「このままじゃ、風邪ひいちまうな……」

 ずぶ濡れになったお互いの格好を見やりながら、アキレウスが呟いた。

 ひとしきり互いの気持ちを確かめ合い、ようやく落ち着いてきたあたし達はそんな現実的な問題に直面せざるを得なくなっていた。

 あぁ、うん、確かに。

 夜の山の空気はひんやりとしていて、時折吹く緩やかな風は鳥肌が立っちゃうくらい冷たい。

 まさかこのまま帰るわけにはいかないよね……絶対に風邪をひく自信がある。

 アキレウスと目を合わせているのがだんだんと恥ずかしくなってきたあたしは、彼から視線を逸らしながら、思いつきでこう言った。

「あ、じゃああたし、魔法で乾かしてみるよ」

 その言葉に、アキレウスが目を丸くする。

「そんなコト、出来るのか?」
「やったことないけど……。チャレンジ、チャレンジ!」
「……まぁ、このままでいるわけにもいかないからな」

 あたし達は幻影ホタルの溜まり場を離れ、森の中の少し開けた場所まで戻った。

「えっと、いきなり服からいくのは怖いから、とりあえず外套からやってみようかな?」

 炎と風を組み合わせて熱風を生み出し、それで服を乾かせれば、と単純に思ったんだけど、何しろ初めてのことだし、上手くいくかどうか分からない。

 あたし達は水を含んで重くなった外套を外し、それを近くの木の枝に引っ掛けて、初めての試みにチャレンジすることにした。

 少し後ろから見守るアキレウスの視線を感じながら、あたしは精神を集中させて炎と風を呼び起こし、その二つを融合させた。ゴオオッ、と唸りを上げて、熱風があたしの髪を勢いよく夜の闇に舞い上げる。

 あわわ、強すぎ、強すぎ。

 慌ててその威力を弱めながら、丁度良さそうな具合にまで持っていくのに四苦八苦。

 うーん、調整が難しい! この、炎と風の微妙な力加減が何とも……!

 -----えーい、これでどうだっ!?

 満を持してあたしが放った熱風が、ゴゥッ、と音を立てて木の枝に引っ掛けられた二つの外套を激しくなびかせる。

 あわわっ、まだ強かった!?

 あせりながら更に威力を弱め、外套を煽ることしばらく。おそるおそる歩み寄りそれに触ってみると、乾いてはいるものの今にも燃え出しそうなくらい熱かった。

 着たままの衣服を乾かすなんて、絶対に無理っっ!

 それが分かり、あたし達は焚き火をおこして地道に服を乾かすことにした。

 木立の陰で濡れた衣服を脱ぎながら、あたしは外套だけでも乾かすことが出来たことにホッとしていた。

 毛布も何もないわけだから、これがなかったらびしょ濡れの服を着たまま乾かすしかなくなるところだった。しょうがないんだけど、気持ち悪いからなるべくそれは避けたかったしね。良かった。

 外套にくるまって木立の陰から出ると、アキレウスは既に自分の外套を羽織って焚き火にあたっていた。

 あたしは外套の合わせ目を片手でしっかりと押さえ、あらかじめ焚き火の周りに立てかけておいた木の枝に濡れた衣服を掛けてから、アキレウスの正面に腰を下ろした。そして何気なく彼に目をやったあたしは、青い外套の合間から覗く首から胸にかけての男の人らしいラインを見て、ドキッとした。

 うわ……さっきあんなことがあったばかりだし、意識しちゃう。

 硬いアキレウスの感触を思い出し、あたしは一人赤くなりながら彼から視線を逸らした。知らず、外套の合わせ目を押さえる手に力がこもる。

 当たり前のことだけど、服を脱いでしまっているから、お互いに外套の下は下着を身に着けているだけなわけで……。

 何だか急にいろんなことが気になってきてしまった。

 外套の合間から下着が見えてしまっていないかとか、思わず自分の身だしなみをチェックしてしまう。

 うう、あたしだけ? こんなにいろいろ意識しちゃっているの。

 アキレウスは……平気、なのかな……。

 そんな動揺がいつものごとく顔に出てしまっていたらしい。

 面白そうに黙ってあたしの様子を見ていたアキレウスがニヤッと笑って、問いかけてきた。

「何か、期待してる?」
「う……ううんっ!」

 真っ赤になって勢いよく首を振ると、アキレウスはたまりかねたように吹き出した。

「なっ……何よぉ!」
「いや、見てて飽きないなーと思って」
「何それ……人を珍獣みたいに」
「ほめてるんだよ、可愛いって」

 くそー。肩を揺らしながらそう言われても、素直にその台詞、受け取れないんですけど。

 頬をふくらませながらアキレウスを軽くにらむと、彼は優しい表情になって、そんなあたしを見つめ返した。

 うわ。そ、そのギャップ、反則だよ……目、合わせられないじゃん……。

 再び赤くなってふい、と顔を背けると、静かな沈黙があたし達の間に舞い降りた。

 闇の中で、炎が爆ぜる。

 流れる沈黙は決して気まずいものじゃなく、静かで穏やかな心地良いものだった。

 炎を映して赤く染まるずぶ濡れの衣服を見つめながら、あたしはゆっくりと口を開いた。

「一人で捕まっていた時、ね……遠い意識の中で……何度か、アキレウスの声を聞いた気がしたんだ……」
「オレの声?」

 アキレウスが問い返す。あたしは頷いて、自分の左手の小指に視線を落とした。

「うん。気のせいか……指輪を嵌めている左の小指が、熱くなった気がして。その時に、あたしを呼ぶアキレウスの声が聞こえたような気がしたんだ……」

 それを聞いたアキレウスは静かに瞳を伏せて言った。

「……呼んだよ」
「え?」
「オーロラの名前……何度も呼んだ。いろんな場面で、いろいろな想いを込めて……それがコイツを通して伝わったんだとしたら、ターニャの言う“プチシリーズ”、意外と効果があるな」

 アキレウスから買ってもらったこの指輪には、クリソプレーズという石が用いられている。

 クリソプレーズの石言葉は『信じる心』。ターニャ曰く、この石には精神力や魔力などの霊的な力を少しだけ高めてくれる効果があるらしい。精神と精神を繋ぐ、超精神力を授けてくれるっていういわれがあるのだとあたし達は彼女から聞いていた。

 そっか……アキレウス、何度もあたしの名前を呼んでくれていたんだ。離れていたけど、この指輪を通してあたしはずっとアキレウスと繋がっていたんだ。

 そう思うと、何だかとても温かな気持ちになった。

「オレも……ずっとコイツに祈っていた」

 アキレウスはそう言って左腕のラピス・ラズリの腕輪(ブレスレット)に触れた。

「間に合ってくれ-----って。オレがたどり着くその時まで、どうか無事でいてくれって。オーロラを無事に助け出すまでは気が気じゃなかった。ずっと、生きた心地がしなかった……」

 眉根を寄せ、息を吐き出すようにして紡がれた彼のその言葉を聞いて、あたしはあの時の彼の心中を初めて知った。

 アキレウス……。

「心配かけてごめんね。でも、アキレウスが助けに来てくれた時、あたしすごくすごく嬉しかったよ。何よりも、生きてもう一度アキレウスに会えたことが言葉に出来ないくらい嬉しくて……奇跡だって、本当に思った」
「……ギリギリ間に合ったのはこの腕輪のおかげさ、きっと」

 アキレウスはそう言ってちょっと笑った。

「持ち主の“運”を上げてくれる効果があるんだろ?」

 あたしも微笑んでアキレウスに答えた。

「そうだよ。ターニャのお墨付き」

 顔を見合わせ、二人同時に笑って、あたし達はちょっぴりおせっかいなアクセサリーショップのお姉さんに心の中で感謝した。

 今回あたし達が無事に再会を果たすことが出来た陰の功労者は、もしかしたらターニャなのかもしれなかった。
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