幕間U〜鋼の騎士〜

暗転


 自身の執務室の奥に備え付けられた仮眠用のベッドで寝ていたペーレウスは、激しいノックの音と共に転がり込むようにして駆け込んできたマルバスの大声で起こされた。

「起きろ、ペーレウス! いや、団長ッ!!!」

 マルバスは息せき切って、何事かと目を瞠(みは)るペーレウスの上に覆いかぶさるようにして告げた。

「大変だ! シェイドが……ランカート卿が先程、陛下に拘束された……!」
「何だって……!?」

 その知らせにペーレウスは耳を疑った。まさか、という思いが胸に込み上げる。

「拘束理由は国家転覆未遂容疑だ。卿は管理の最も厳しい魔法牢に収監され、ランカートの全ての縁者に謀反の疑いが掛けられている。資産は全て差し押さえられ、当面国の監視下に置かれるそうだ」
「バカな……!」

 予想だにしなかった最悪の事態にペーレウスは言葉を失った。

 あれからペーレウスとシェイドはマルバスら何名かの少数精鋭を選出し、彼らと共に城内に泊まりこんで交代で密かにトゥルクの監視と情報の収集に当たっていた。

 ペーレウスはその間再三にわたって主君の心の内を聞き出そうと試みたが、オレインの心は頑なに閉ざされており、それを開くことは叶わなかった。

 そんな最中での突然のシェイドの拘束-----しかも、国家転覆未遂容疑という重罪でだ。

「トゥルクに、何か動きは?」
「今のところ怪しい動きは……昨夜も真っ直ぐに陛下の私室から自分の客室へと戻っている」
「くそっ……陛下に確認をしてくる!」

 ペーレウスはマルバスを押しのけるようにしてベッドから下りると、自身の執務室を飛び出した。

「-----陛下ッ!」

 謁見の間にいたオレインは、現れたペーレウスの姿を予測していたように見やると、平坦な声で告げた。

「ペーレウスか。そんなに声を荒げてどうした」
「-----シェイドを拘束されたという話は、真ですか!?」

 息も荒く問いかけるペーレウスに、オレインは淡々と応じた。

「真だ。この私が命じた」
「いったい、何故……! シェイドが国家転覆をたくらむなど、本気で思っておいでなのですか!」
「そう思ったから命じたのだ」
「……!」

 マルバスからの情報が何かの間違いであってほしい、ペーレウスの祈りにも似た願いは打ち砕かれた。

 ここ数日の間にやつれ、精彩を欠いたオレインの顔は青白く、目は死んだ魚のように淀んでいたが、紡ぐ言葉の端々からはシェイドへの明確な憎悪が感じ取れた。

 オレインは本気でシェイドに裏切られたのだと思い込んでいる。しかもその根は、ペーレウスが予想していた以上に太く、深い。

「陛下! シェイドはそのようなことを目論むような男ではありません! この私の命を懸けて、そう断言出来ます! お願いです、もう一度よく調べ直して下さい!」
「ペーレウス。何の根拠もなく、私がこのような行動に出たと思うのか。紛うことなき事実と見定めたからこそ、あやつを拘束したのだ-----この決定が覆ることはない!」
「陛下!」
「-----ええい、退がれ! この件についてこれ以上話すことはない!」
「陛下、お待ち下さい! その根拠とは、いったい何なのですか!」

 食い下がるペーレウスを、居合わせた保守派の貴族が嫌みに満ちた口調で諫めた。

「見苦しいですぞ、騎士団長殿。退がられよ、と陛下が仰っているのです。あくまでランカート卿が無実だと言われるのであれば、貴方こそその根拠を提示されるべきではないですかな」
「シェイドの無実の根拠だと……!」

 ペーレウスは生え際が後退した中年貴族をキッとにらみつけた。その眼光の鋭さに、それまで悠然と構えていた男はヒッと肩を竦(すく)め、情けないくらい慄(おのの)いた様子を見せる。

「シェイドが今までこの国の為にやってきたことが、その証明にはならないのか! あいつは貴方達のように自らの利権に左右されたことなど、ただの一度もない! あいつは超がつくほど真面目で、頑固で、高潔で……! 誰よりも自分自身に厳しい! 陛下の支えとなり、この国をより良い方向へ導いていこうと、確固たる信念を持って自分の職務を全うしてきたんだ!」
「な、何という暴言を……! 聞き捨てなりませんな、この私を愚弄されるのですか!」

 脂ぎった中年貴族はペーレウスの迫力に居竦みながらも、裏返った声で怒りを露わにした。

「勘違いされては困る、貴方が先にシェイドを侮辱したのだ!」

 鋭くペーレウスに一喝された保守派の貴族は、蝋(ろう)のような顔色でキリキリと薄い唇をかみしめた。反論したいのは山々だろうが、本能的な危険を察知し、ぐうの音も出せないらしい。

 改めてオレインに向き直り、ペーレウスは重ねて問いかけた。

「陛下。ご無礼は重々承知の上、再度お尋ね致します。シェイドを拘束した根拠とは、いったい何なのですか! お聞かせ下さい!」

 強い意志の輝きを放つ真っ直ぐな黒茶色(セピアブラウン)の眼差しを受けて、オレインはしばらく沈黙したのち、重い口を開いた。

「……其方(そなた)とシェイドの仲は知っている。友を信じたいという思いは、願いにも似た強いものだろう。だが、其方はシェイドの全てを知っていると言えるのか。其方が知っているシェイドは、果たして真実のシェイドなのか? 巧妙に作られた仮面のシェイドではないと言い切れるのか?」
「……断言出来ます。彼は、私の真の友人です」

 一縷(いちる)の迷いなく言い切ったペーレウスを見つめるオレインの表情はどこか憐れみを湛(たた)えていて、虚ろな瞳は理性と狂気の狭間を危うく漂っているように見えた。

「お前もあやつに騙されているのだ、ペーレウス。ランカートの一族はしたたかで狡猾だ……。この私も、いいように手玉に取られていることにこれまでまるで気が付いていなかった……ランカートの長きに渡る壮大な計画に、まんまと乗せられてしまっていたのだ」

 主君の言葉にペーレウスは片眉を跳ね上げた。

「それは、どういう-----?」

「今の其方に話せるのはここまでだ、ペーレウス。私の言った意味を良く考えてみるのだな……。今回の無礼は友を思う其方の気持ちを慮(おもんばか)って沙汰なしとしよう。-----だが、二度目はないものと思え!」

 強い口調でそう命じ、オレインは足音も荒く謁見の間を後にした。その背を見送りながら、取り残されたペーレウスはオレインの残した言葉の意味を無力にかみしめるしかなかった。



*



 謁見の間を後にしたペーレウスは魔法牢に収監されたシェイドに面会する為、そのまま監獄塔へと足を向けた。

 監獄塔はその名の通り罪人達を拘留する為の施設で、二十四時間国の厳重な監視下に置かれている。城の地下にも牢獄はあるが、そこは罪人を一時的に収監する為のものであって、長期収容する為のものではない。

 魔法王国という国柄、罪人には魔導士も多く、彼らに対応する為の魔法牢が監獄塔にはあった。魔法を吸収し、無力化する特別な造りの牢獄である。

 王城の広大な敷地の片隅に隔離され佇む監獄塔を見上げ、ペーレウスは瞳を細めた。薄暗い物々しい雰囲気を醸し出すあの建物の中にシェイドがいるのかと思うと、何ともやりきれない気分になった。

「ペーレウスー!」

 その時、聞き覚えのある声が背後からペーレウスを呼び止めた。

 振り返ったそこには二人の若者がいた。第一王子のレイドリックと、彼の乳兄弟で今は第一王子付きの騎士となったオルティスである。

「これは……レイドリック殿下」

 ペーレウスの姿を見かけて走ってきたらしいレイドリックは、かしこまって一礼する彼の前で肩を大きく上下させながら尋ねてきた。

「ペーレウスッ……シェイドが……シェイドが父上に拘束されたというのは、本当なのかッ!?」
「……ええ、本当です」

 それを聞いたレイドリックは沈痛な面持ちになり、うつむいて両の拳を握りしめた。

「父上はっ……いったい、どうしてしまったというのだ……!」

 ぶつけようのないやるせなさに身体を震わせるレイドリックを、背後からオルティスがいたわしげに見守っている。

「分かりません……。ですが、このままにしておくことは出来ません。シェイドのことは私が何とかします。それと……これまでとは少し別の方向から陛下の乱心の理由を探ってみようと思います」
「……私に……何か、手伝えることはあるだろうか……?」
「いずれはお願いすることもあるやもしれません。しかし、今はまだ」

 ペーレウスにやんわりと助力を断られたレイドリックは少し肩を落としながらも、頷いて聡明な瞳を鋼の騎士へと向けた。

「分かった……何かあれば、遠慮なく言ってくれ。……これから、シェイドに会いに行くのか?」
「はい」
「そうか……」

 レイドリックはゆっくりと隔離区域に視線を向けた。まるで現在の不穏な情勢を映し出すかのように暗澹(あんたん)と垂れ込み始めた鉛色の雲の下にそびえ立つ、寂寥感(せきりょうかん)漂う塔-----ペーレウスとオルティスも自然とそちらに目を向けて、厳しい表情になる。

「私は、シェイドを信じている……シェイドが国家転覆を目論むなど、私には考えられない……! ペーレウス、どうかシェイドを助けてやってくれ。最近の父上は、まるで人が変わってしまったかのようだ……!」
「はッ……」

 第一王子の命を謹んで承り頭(こうべ)を垂れるペーレウスに、頼んだぞ、と言い置いて、もう一度監獄塔を見上げ、レイドリックは踵(きびす)を返した。

 一礼をして、オルティスがレイドリックの後を追う。その姿を見送り、ペーレウスは再び監獄塔へ向かい歩き出した。



*



 いくつもの厳重な検問をくぐり、ペーレウスは監獄塔の最上部に位置する独房にたどり着いた。

 最上階にある牢獄はただひとつ。特別な罪人を収監する、この国で最も管理の厳しい魔法牢-----その中に、シェイドはいた。

 魔法王国ドヴァーフの魔導士団長たる証である淡い緑色(グリーン)の長衣(ローヴ)を身に纏ったまま、無意味に広い獄中で片足を長い鎖に繋がれ、魔力の行使を抑制する特殊な首輪を嵌(は)められている。

 親友の痛々しい姿にペーレウスは胸が詰まる思いがした。

「シェイド……!」
「来てくれたか、ペーレウス。お前まで捕まったわけではなくて良かった」

 いつも通りの落ち着いた口調で、シェイドは鉄格子の向こうからペーレウスに語りかけた。

 この階の一箇所しかない出入り口には二名の衛兵が立ち、途切れることのない鋭い視線をこちらに注いでいる。その扉のすぐ向こうには衛兵の詰め所があり、緊急時には即座に対応が取れるようになっていた。

 今のシェイドは最重要監視下に置かれている虜囚で、簡単に会うことは出来ない。ペーレウスは自らの権限を使って半ば無理矢理にシェイドとの面会を果たしたのだが、許可された面会時間は極めて短かった。

 それを悟っているのか、シェイドは自らが捕まった時の状況を小声で簡潔に述べ始めた。

「夜明けと共に突然兵が執務室に押し入ってきて、有無を言わせず拘束された。国家転覆未遂容疑だそうだ。抵抗すればそれを認めたものと見なし、国王命により同罪で一族郎党を断罪すると言われた。抵抗することはおろか、抗弁することも出来なかったよ。何より、一族を人質に取られては為す術がなかった。まさか陛下がこれほど強引な手段に出るとは、正直思っていなかった」

 予想はしていたが、改めて本人から聞いた拘束時のひどい状況にペーレウスは眉をひそめた。

「滅茶苦茶だな……」
「あぁ、滅茶苦茶だ。なりふり構っていられないほどに陛下は追い詰められているということだろう。そして、それほどに私を憎んでいる」

 シェイドは苦しそうにそう言って、ペーレウスを見た。

「今の陛下の精神状態は危機的だ。もしかしたら、レイドリック殿下の身にも危険が及ぶ事態になるかもしれない。私はこんな立場だ……ペーレウス、今となってはお前に全てを頼らざるを得ない。すまないが……後を頼む」

 鉄格子を掴み、断腸の思いでそう口にしただろうシェイドの手に自らの手を重ね、ペーレウスは深く頷いた。

「あぁ……分かった。何とかする、任せてくれ」
「分かっているだろうが、お前も今、危険な立場にいる。お前は私の長年の友人で、レイドリック殿下の信頼も厚い。それを知る陛下の心中は穏やかではなく、いつ理性の糸が切れてもおかしくはないだろう。お前が今日ここへ来たことを知れば、なおさらだ」

 重ねられたペーレウスの手を握り返し、シェイドは真摯な表情で言を紡いだ。

「それに、トゥルクにとってもお前は邪魔な存在であるはずだ……充分に気を付けてくれ。そして……決して死ぬな。お前には、お前の帰りを待っている家族がいるんだ」
「……もちろんだよ。オレは死なない。そしてシェイド、お前もな。必ずここから出してやるから、今のうちにゆっくり休んでおけ。出てからは忙しくなるぞ」

 親友に全てを託され、その責任の重さをかみしめながらも、ペーレウスはいつものように力強く朗らかに笑ってみせた。

 それを見て少しだけ、シェイドの表情も和らいだものになる。

「-----騎士団長、そろそろ時間です。これ以上は……」

 衛兵からタイムリミットが告げられた。

「分かった。今、行く」

 短くそう返したペーレウスに、シェイドが早口で囁いた。

「ペーレウス、聞け。捕まる前に得た情報だ。昨夜、トゥルクの部屋の前で様子を窺っている怪しい男がいたらしい。詳しい素性は掴めなかったが、ガゼ族ではなかったようだ。もしかしたらウィルハッタの間者が城内に紛れ込んでいるのかもしれん。警戒してくれ」

 ペーレウスは目を見開いた。それがもしウィルハッタの間者であるなら、最悪のタイミングである。

「私がこういう状況になって、対立していた連中は浮かれているはずだ。私もろとも、お前まで失脚させるまたとない好機だからな、陛下の気を引く為の権力争いに早くも躍起になっていることだろう。こんな時に、今まで以上に城内に隙が生まれてしまうことになる……厳しい状況だが、頼む……この国を守ってくれ」
「安心しろ。どんなことになろうとも、必ずこの国を守り抜いてみせる。だが、それはオレだけの力でじゃない。お前も含めたこの国のみんなの力でだ。オレはこの国の騎士団長で、シェイド、お前はこの国の魔導士団長なんだからな」
「……ペーレウス」
「必ずここから助け出す。一緒にこの国を守り抜こう……また来るよ」

 誓いを交わし、思いを伝えるようにもう一度シェイドの手を強く握って、ペーレウスは魔法牢を後にした。

 シェイドは全てを託した友人の背を見送り、その姿が視界から消えてからもなお、しばらくその場に佇んでいた。



 そしてこれが、ペーレウスが『シェイド』を見た最後の光景となった。



*



 ペーレウスが自身の執務室へ戻ると、そこにはマルバスを始めとする少数精鋭の面々が顔をそろえていた。

 今しがたペーレウスがシェイドから聞いた怪しい男についての情報を交換していたらしい。

 それによると、昨夜トゥルクの監視をしていたメンバーの魔導士二人が部屋の前で中の様子を窺っている不審な男の存在に気付き、隙をついて取り押さえたのだという。

 しかし尋問する間もなく、男は奥歯に仕込んでいた毒を含んで自殺してしまった。

 調べてみると、男は最近兵士として民間から採用された者だったが、履歴書に記載されていた経歴は全てがでたらめだった。所持品からも素性がたどれるようなものは一切出てこず、親しくしていた者もいなかった為、男の身元も目的も全てが謎のままだった。

 彼らからその一報を受けた直後にシェイドは拘束され、その後の混乱もあって、今朝の時点ではペーレウスの元まで情報が届いていなかったのだ。

「見事なくらい身元をたどる痕跡が残っていません。証拠隠滅の手法、まるでためらいのない死に様から見て、訓練された人間です。大掛かりな組織が背後にあると考えて間違いないでしょう」
「……そうか。分かった。そうするとヤツの仲間が他にもいて、引き続き城内に潜伏している可能性が高いな。他に怪しい者がいないか、早急に調べてくれ」
「-----はッ!」
「その後のトゥルクの動きは?」

 ペーレウスの問いにマルバスが答えた。

「今日は昼前から陛下の私室に召され、その後はずっと行動を共にしているようです」

 一対一の場以外では、マルバスはペーレウスを上長として扱い敬語を用いている。同僚であった時期を経て、マルバスは今は万騎隊長の職にあり、ペーレウスの麾下(きか)にあった。

「あの占い師はいったい、何を目論んでいるのでしょうか。皆不審がっています。何故、陛下はあのような者を……! 今回の件は、無茶苦茶です! 団長は……シェイド様は、どうなってしまうのでしょうか……!?」

 魔導士の一人が唇をかみしめ、やりきれない様子でそうこぼした。

 ペーレウスはそんな彼を見やり、落ち着いた口調でなだめた。

「陛下は今、精神的に追い詰められ混乱されている。冷静に物事が判断出来ない状況に陥っているんだ。我々は何としてもその原因を突き止め、陛下の誤解を解き、シェイドを救出する。それがトゥルクの呪縛から陛下を解放することになり、ひいてはこの騒動を落ち着かせることに繋がるんだ。その為にはみんなに頑張ってもらわなければならない。しばらく不眠不休が続くかもしれないが……頼んだぞ」
「はい……!」
「-----よし、行こう!」

 それぞれの任務を遂行する為、メンバー達が散っていく。そんな中ペーレウスはマルバスを呼び止め、これからランカート家に赴いてくる旨を伝えた。


『ランカートの一族はしたたかで狡猾だ……。この私も、いいように手玉に取られていることにこれまでまるで気が付いていなかった……ランカートの長きに渡る壮大な計画に、まんまと乗せられてしまっていたのだ』


 今朝オレインが言ったこの言葉が、ペーレウスの胸に重しのように引っかかり、ずっと残っていた。

 シェイド自身にはオレインの不況を買う理由が見当たらなかった。

 ならばこの言葉が示す通り、原因はシェイドではなく、ランカート家にあるのではないか?

 ランカート家にまつわる“何か”と、レイドリックを繋ぐ“何か”-----それが重なり、その“真実”がトゥルクによって明らかにされ、オレインを苦しめているのでは-----?

 そう考えたペーレウスは、それを究明する為、独り友人の屋敷へと足を向けたのだった。



*



 翌日、ペーレウスはオルティスの生家にいた。

 通された客間で侍女が淹(い)れてくれた紅茶を味わいながら、待ち人が現れるのを待つ。薬湯のような独特の苦味のある、豊かな香りを纏ったその味には覚えがあった。

 シェイドの執務室でも出されたことがある。確か、バビロンという名の高級茶葉だ。

 優美な細工の施されたカップを口に運びながら、ペーレウスは室内に目を向けた。品の良い調度品に囲まれた広い客間には、お抱えの絵師によって描かれた家族の思い出がそこここに飾られている。

 庭で楽しそうに食事を取る団欒の風景、はしゃぎながら水遊びをする子供達-----幼い頃からオルティスと共に過ごすことの多かったレイドリックも、彼らに混じって時折顔を覗かせている。

 その中の一枚にペーレウスは目を留めた。

 二人の母親が共に幼い子供を胸に抱き、微笑んでいる一枚-----母親達の雰囲気はどことなく似ていて、二人共赤味の強い金髪を頭上で美しく結い上げていた。

 母親の片方をペーレウスは以前肖像画で見たことがあった。レイドリックの生母、レティシアだ。

 オルティスの母はレティシアと従姉妹(いとこ)の関係に当たり、産後母乳があまり出なかった王妃に代わって彼女が乳母を務めたことは、あまりにも有名な話だった。

 国王オレインも彼女達とは従兄妹(いとこ)の関係に当たるが、男女の違いもあり、併せ持つ雰囲気はあまり似ていない。だが髪や瞳など色合いからは彼らの血縁を窺い知ることが出来る。幼い頃は共に遊ぶこともあったといい、オレインはその頃からレティシアに想いを寄せていたと言われている。

「-----お待たせして、申し訳ありません」

 詫びの言葉を口にながらオルティスの母が客間に現れた。描かれた頃より幾分老けてはいるが、美しい年の重ね方をしている。

「こちらこそ、急なお願いを致しまして申し訳ありません」

 立ち上がって一礼をしたペーレウスにオルティスの母は品の良い微笑を浮かべ、静かに首を振った。

「いいえ。息子から連絡をもらった時は驚きましたけど、光栄ですわ。私(わたくし)も鋼の騎士と呼ばれる方に一度、お会いしてみたいと思っていましたから」

 ペーレウスにソファーを勧め、自らも向かいのソファーに腰を下ろしながら、彼女は話の先を促した。

「それで-----今日は、どのようなお話をお聞きになりたいのかしら?」



*



 -----胸騒ぎがする。

 深い闇が下り、静寂に包まれた夜更けの城内-----剣を肩にもたれかけさせ、壁に背を預けてレイドリックの寝室前の廊下に座り込みながら、オルティスは独り考えごとをしていた。

 昨夜遅く、前触れもなく突然彼を訪ねてきたペーレウスが、明日にでも母親と会えるように取り計らってもらえないかと申し出てきたのだ。

 こんなふうに騎士団長が自分を訪ねてきたことなど、これまでただの一度もない。ましてや自分の母親に会いたいなどと、これはいったいどういうことなのか-----。

 当然のように疑問を覚え、それを尋ねたオルティスに、ただ話が聞きたいだけだとペーレウスは言った。彼の母親にどうしても聞きたい話があるのだと-----。

 その理由をオルティスは彼から聞き出すことが出来なかったが、今回の一連の件に関連することなのだろうと推測することは出来た。

 納得がいかないながらも翌朝約束を取り付けた旨を伝えると、ペーレウスは短い礼と共に他言無用と言い置いた上で静かな瞳をオルティスに向け、こう告げた。

「殿下を頼む。何があってもあの方を守ってくれ」

 それはどういう意味なのかと問いかけたくなる思いをぐっと堪(こら)え、オルティスはただ頷いた。全ての質問を許さない空気がペーレウスを取り巻いていたからだ。

 それに、告げられた内容は言われるまでもないことだった。

 そんなオルティスを見てペーレウスは張り詰めた表情を少しだけ和らげ、無言のまま立ち去っていった。


 あれはいったい、どういう意味だったのだろうか-----。


 おそらくは、自分が思っている以上に事態は差し迫った状況を迎えているのに違いない。そしてそれは、レイドリックにとって相当に厳しいものなのだろう。

 だが、ペーレウスもまだそれを見極めきれてはいない。だから彼は何も具体的なことを口にしなかったのだ。

 全てが明らかになれば、きっとペーレウスは事情を説明してくれる。ならば今は、今の自分に出来ることをしよう。

 オルティスはそう心に決め、今夜からレイドリック本人には内緒で彼の寝所前での泊まり込みを決行したのだった。

 第一王子の寝室へと続く廊下の入口には常に見張りの兵士が立っているが、それだけでは心許(こころもと)ない。今回の件が落ち着くまでは、常に彼の傍らにいようと思った。

 レイドリック自身にそれを伝えなかったのは、最近心労の重なっている乳兄弟にこれ以上の負担をかけたくないという思いからだった。

 辺りに神経を張り巡らせたまま、オルティスは静かに目を閉じた。そのまま浅い眠りへと入っていく。

 人間であるオルティスは不眠不休で働き続けることは出来ないが、こうしてわずかな休息を取り入れることで体力の回復を図ることが出来た。この状態でも何かを感じれば瞬時に起きれる自信はある。

 体力を温存しながら、オルティスは自分なりにこれからの局面に備えた。



*



 国王オレインは精神を苛まれていた。

 誰が敵で、誰が味方なのかが分からない。

 今、そんな彼の傍らにいるのは、この状況で心許せる特別な唯二人の人物だった。

 妻である王妃イレーネと、ガゼの占術師トゥルクである。

「シェイド・ランカートを捕えたのはご英断でしたわ。今は戸惑う者も多いでしょうが、時が経つにつれそれも徐々に落ち着いてくるはず……。ですが、彼(か)の者の友人であるペーレウスは……放っておいて宜しいのですか? あの者は今朝も貴方に物申してきたのでしょう? 果たしてあの者がこのまま大人しくしているかどうか……何か事を起こされでもしたら面倒です。その前に手を打たれた方が宜しいのでは?」

 そう進言をするイレーネに、オレインはせわしなく室内を歩き回りながらかぶりを振る。

「いや……いや! 『オレインの異才の両翼』……そう称された片翼を、私はこの手でもぐことになったのだ。もう片翼を失うようなことになれば、諸外国からどのような目で見られるか……! 自らの無能ぶりを露呈するようなものだ……臣下の求心力の低下も避けられないだろう。それに、ペーレウスは国民から絶大な支持を得ている。よほどの理由がない限り、ペーレウスの処分には国民は納得しないであろう。政権の基盤が揺らぐような事態は避けねばならん……!」
「しかし……」
「それにあやつは……ペーレウスはこの私が見い出し、騎士団に招き入れたのだ……。その恩にあやつは騎士としての働きで応え、それに報いて私はあやつを騎士団長にまで抜擢した……! それだけ目をかけてやったのだ……! 私は信じたい……あやつを、ペーレウスの忠誠を信じたいのだ……!」
「陛下……」

 きつく拳を握りしめ、打ち震えるオレインを見つめていたイレーネは、そんな夫に背後からそっと寄り添った。

「分かりましたわ……ペーレウスのことはひとまず置いておきましょう。では、ランカートの処遇はどうなさるおつもりなのです? 罪状から考えれば死罪が相当ですけれど、ランカートはドヴァーフ屈指の大貴族……古くからの繋がりがある貴族も大勢います。こちらが資産を差し押さえている状況とはいえ、それを実行すれば結束した反乱分子達が反旗を翻し、内乱が起こるやもしれません。処する時期や方法は重要ですわよ」
「うむ……」
「レイドリックの18歳の誕生日-----あれが成人を迎える日も近づいているのです」
「分かっている……!」

 声を絞り出すようにして、オレインは脂汗の滲む額を押さえた。その耳元に紅い唇を寄せ、イレーネが蠱惑(こわく)的に囁く。

「宜しければ私(わたくし)にひとつ案があるのですが……聞いていただけますか?」
「……何だ」
「差し出がましいようですが、そこにいるトゥルクと相談していたのです。どのような方法を用いることが陛下の受けるダメージを最小限に留め、かつ一番効果的に問題を解決出来るのか……」

 部屋の隅に無言で佇むトゥルクと視線を交わし、イレーネはオレインにそれを伝えた。

「…………!」

 目を剥き、妻を振り返る夫に、彼女は優しく諭すような声音で言い聞かせる。

「今からでも遅くはありません、歪んだ道を正しましょう……この国の王として、貴方にはその責務があるのです。傀儡(かいらい)などに、このドヴァーフを奪われてはなりません……」

 その光景を傍から見つめながら、えんじ色の長衣(ローヴ)を身に纏った占術師は、熟す時機が間近に迫っているのを感じていた。

 -----間もなく神器を救い出し、在るべき場所へと戻すことが出来る。

 彼の胸は迫る予感に打ち震えていた。

 そう-----間もなく、神に選ばれし唯一絶対の者であるこの自分の腕の中に、神器『真実の眼』は戻ることになるのだ。

 その時は、もうすぐそこに来ている-----。
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