代わりに、微かに聞こえてくる規則正しい包丁の音と焼きたての香ばしいパンの匂いが、再びまどろみかけるペーレウスの意識を優しく覚醒させる。
あくびをかみ殺しながらベッドから下りダイニングルームへと向かうと、台所に立っていたテティスがこちらを振り返り、いつものようにふわりと微笑んだ。
「おはよう、あなた。悪いけどアキレウスを起こしてきてくれる? その間に朝ご飯を用意しておくわね」
一緒になってもう十年になるが、彼女の美しさは出会った頃のまま変わらない。『月光花』と称されたあの頃のまま、その時を止めているかのようだ。
子供部屋のドアを開けると、今年九歳になる一人息子がベッドの上でまだ心地良い寝息を立てていた。額にかかる母親譲りのアマス色の髪が、朝日に柔らかく透けている。
「起きろ、アキレウス。朝だぞ」
声をかけながら軽く肩を揺すると、うっすらと開いた翠緑玉色(エメラルドグリーン)の瞳がぼんやりとペーレウスを見上げた。
「んん……? まだ眠いよ……」
「昨日あんなに遅くまで起きているからだ。ほら、起きろ」
問答無用で上掛けを引き剥がすとアキレウスは渋々と起き上がって、ペーレウスに朝の挨拶をした。寝癖のついた息子の頭を軽くなでてやりながらダイニングルームへ戻ると、食卓の上には出来立ての朝食が並べられ、食欲をそそる香りを立てていた。
「おはよう、お母さん」
「おはよう、アキレウス。さぁ座って」
「朝はしっかり食べないとな」
家族三人でテーブルに着いて摂る朝食、何気ない会話-----ふとした瞬間、こぼれる笑顔。いつも通りの、穏やかな朝の光景。
ペーレウスの出勤後には通いのお手伝いさんが来て、夕方まで掃除など細々とした雑務をこなしてくれる。それなりの広さのある家は、テティス一人では手入れが行き届かないのだ。他に通いの庭師もいるが、こちらは半月に一回程度来てもらうだけである。
王城へ向かう為、身支度を整えたペーレウスに玄関先で剣を手渡すのはアキレウスの役目だ。父親の愛剣ヴァースとウラノスは共に大剣で、子供の彼の身長よりも大きい。ペーレウスはその二本を任務によって使い分けていたが、通常持って行くのはヴァースの方だった。
「はい、お父さん」
ヴァースを両腕で抱えるようにしてペーレウスに渡すアキレウスの眼差しには、尊敬の念がこもっている。
ペーレウス自身は多くを語らないが、母親であるテティスや近所の人々、それに時々遊びに来るシェイドらからの話を聞いて、アキレウスは子供ながらに、自分の父親が普通とはちょっと違う-----どこか特別な人物であるらしいと、肌で感じていた。
何よりも子供心には王宮の騎士団長を務めているという肩書きが格好良かったし、その正装であるメタリックホワイトの全身鎧(バトルスーツ)と深緑の外套を纏った雄々しい姿も、あんなに大きなヴァースとウラノスを自在に操れる剣の腕前も、アキレウスにとっては何もかもが誇らしく、眩しかった。
「ねぇお父さん、今度の休みにはまた剣の稽古をしてよ」
アキレウスの最近の楽しみは、休日に父親から剣の稽古をつけてもらうことだった。父親譲りの才能か、近頃はめきめきと剣の腕が上達していくのが自分でも分かって、楽しくてたまらない。
「あぁ、いいとも」
剣の才能の片鱗を見せ始めた息子の髪をくしゃっとなで、それを温かく見守る美しい妻に軽く口付けて、ペーレウスは玄関のドアを開け放ち、眩い朝の光の中に消えていく。
今日もまた、この穏やかで幸せな日常を守る為に-----。
*
「へぇ、15歳?」
息抜きに立ち寄ったシェイドの執務室で出された紅茶を味わっていたペーレウスは、彼から聞いた情報に目を丸くした。
「あぁ、三ヶ月ほど前に魔導士団に配属された賢者でな、エレーン・カリオーペという少女だ」
「入団間もなくお前のトコに名前が挙がってくるなんて、よほどの実力者だな」
「魔導士としての資質には正直、目を瞠るものがあるよ。才色兼備、という言葉が当てはまる存在は久し振りだ。お前の配偶者以来かな」
親友の口から女性を称える言葉を聞くのは珍しい。エレーンはどうやらシェイドの眼鏡に適うほどの逸材のようだ。軽く笑ってそれに応じながら、ペーレウスは思い出した妻からの伝言をシェイドに伝えた。
「そういえば、テティスがまた遊びに来てほしいって言ってたぞ。アキレウスもお前が来るのを楽しみにしている」
それを聞いたシェイドは瞳を和らげ、小さく微笑んだ。
「そうか……ずいぶんとご無沙汰しているからな。だが、お前の家はいつ行っても温かくてホッとする。身体が空いたら、お邪魔しに行くよ。テティスには宜しく伝えておいてくれ。アキレウスは大きくなっただろうな」
「大きくなったよ、今年で九歳になる。最近は剣の稽古が楽しいらしくってさ。今度の休みにまた稽古をつける約束になっているんだ」
「はは、そうか。それはお前としても嬉しいだろう」
「あぁ、まぁな」
照れくさそうにそう答えながら、ペーレウスは36になっても浮いた話の流れてこない親友に尋ねた。
「なぁシェイド、お前は結婚しないのか? 誰か気になる相手とかいないのか」
ペーレウスにはそれが気になっていた。傍(はた)から見てもシェイドは整った容貌をしており、魔導士団長としての実力もさることながら、身分も家柄も申し分のない、言わば文句のつけようのない男である。だが、長い付き合いの中で彼の浮いた噂を聞いたことがなかった。
いや、一方的に女性側からの熱い好意を寄せられている話ならば、限りなく耳にしている。
シェイド自身が女性に好意を持った、という話を聞いたことがないのだ。
「ランカート家の当主としていずれは伴侶を持たなければ、という責務に似た思いはあるんだが、今はまだ、慣れない当主の役目と魔導士団長の業務を兼ねるのとでいっぱいでな。正直、女性に目を向けられる余裕がない。まぁそのうち、ランカート家にふさわしい経歴と資質の持ち主の中から然るべき人物を選ぶさ」
シェイドはどこか他人事のようにそう言った。
彼の父ランカート卿は六年前に病で倒れ、宰相の座を退いていた。その後五年間病と闘い続け、そして昨年この世を去った。
ランカート卿はシェイドが魔導士団長の職に就いたことを心から喜び、王家の為に尽力することを病床から何度も説いていたという。
息を引き取る間際、次期国王となる第一王子レイドリックの後見にまで触れ、シェイドに全てを託して、ランカート卿は永久(とこしえ)の眠りについた。
亡くなった父に代わりランカート家の新当主として立ったシェイドは多忙を極め、最近になってようやく落ち着きを取り戻してきたところだった。
「そっか。……でも、いくらランカート家にふさわしい人物であったとしても、15歳はやめとけよ。犯罪だぞ」
「はん、当主として家の名をおとしめるような真似をするか。それ以前に、そういう趣味はない」
ペーレウスの軽口を適当にあしらって、シェイドは飲みかけの紅茶を口に運びながら手元の資料に目を落とし始めた。
親友の結婚報告を聞けるのはまだだいぶ先の話になりそうだと思いながら、ペーレウスは空になったカップを手近なところに置き、ごちそうさん、とひと声かけて、シェイドの執務室を後にした。
*
強くならなければ、と思う。
その為には、こんなところで涙など流していられない-----。
眉間にしわを寄せ、早足で広大な中庭を横切りながら、エレーンは最近見つけたとある場所を目指していた。
それは、滅多に人の立ち寄らない、広大な中庭の死角と言うべき一角。
そこを見つけてからというもの、エレーンは心の平穏を取り戻す為に、しばしばそこに足を運ぶようになっていた。
人並外れた美しい容姿を持ち、類稀なる魔法の才能にも恵まれたエレーンは、魔導士団に入ると同時に嫉妬と羨望の眼差しを一身に集めることとなった。
目立つ者には、それ相応の洗礼が待っている。
さほど良い家柄の出身ではないエレーンは、家柄が良く自己至上主義的な者達から様々な嫌がらせを受けた。けれど、どんな嫌がらせを受けても彼女は決して涙を見せることなく、その前に屈しはしなかった。弱い自分を晒すことは、負けることだと考えていた。
負けず嫌いな彼女は気力を奮い立たせ、自らの才能に磨きをかけることに全霊を傾けた。『鋼の騎士』の前例然り、実力をつけて実績を積んでいきさえすれば、周りの方が自ずと変わってくるだろうと考えたからだ。
だが、平静な仮面をかぶり、心に鎧を纏って完全防備をしているように見せていたとしても、彼女はやはりまだ、15歳の少女だった。
平気なように見せているだけなのであって、決して平気なわけではない。辛く当たられれば悲しいし、誹謗中傷を受ければ傷付くのだ。それでなくとも、慣れない王城での生活は彼女を不安で孤独にさせていた。
エレーンは唇をきつく結んだ。
目的地はもうすぐそこ、目の前に見える植え込みの向こうだ。
勢いよく植え込みを回りこんだエレーンは、涙を堪(こら)える作業に集中していたこともあって、足元への注意がおろそかになっていた。
次の瞬間、あると思っていなかった何かに足を取られ、エレーンは大きく前につんのめった。
「あっ……!」
しまった、倒れる-----そう思った刹那、予想だにしなかった事態が起きた。エレーンの下から二本の腕が伸びてきて、転びかけていた彼女の身体を支えたのだ。
受け止められた衝撃で、大きく見開かれた紫水晶(アメジスト)の瞳から涙が一滴、こぼれ落ちる。その雫は彼女の身体を支えた人物の頬に当たり、驚いたようにこちらを見つめる灰色(グレイ)の瞳と目が合った。
エレーンは息を飲んだ。
先客がいたのだ。自分はそれに気付かず、寝転んでいた相手の身体につまづいて大きくバランスを崩し、転倒しかけたところを支えられた。
エレーンを受け止めてくれた人物は、彼女より少し年上の、青年になりかけといった年頃の少年だった。身分の高そうな、上等な仕立ての衣服に身を包んでいる。その傍らには彼よりずいぶん年下の、やはり高貴そうな身なりをしたぽっちゃり気味の少年がいて、芝生の上で軽い寝息を立てていた。
-----まずった。色々な意味で、まずった。
瞬間的にそんな思いが脳裏をよぎる。
だが、持ち前の処世術ですぐに動揺を押し隠すと、平静な表情を取り繕って、エレーンは居住まいを正し、自らの非礼を相手に詫びた。
「申し訳ありません、大変な失礼を……お怪我はありませんでしたか?」
「大丈夫だ。ぶつかったのが弟でなくて良かった」
上半身だけを起こしてそう答えた知的な顔立ちの少年は、傍らで無邪気に眠る年少の少年に涼やかな灰色(グレイ)の瞳を向けた。
寝ている少年はどうやらこの少年の弟らしい。ずいぶんと見目の似ていない兄弟だった。
「そうですか……お怪我がなくて何よりです。本当に申し訳ありませんでした。では、失礼します」
深々と頭を下げ、足早にその場を立ち去ろうとしたエレーンに少年が声をかけてきた。
「あぁ、少し待って。……我々が場所を取ってしまって悪かったな」
その言葉はエレーンの心にズキリと響いた。この場所に泣きに来たのだと見透かされた思いがした。
見透かされるも何も、実際に涙をこぼしたところを見られてしまったのだからそう思われても仕方がないのだが、自尊心が強い思春期の少女には、そう年の離れていない相手にそう思われてしまうことが我慢ならなかった。
「いえ、別に。お気になさらないで下さい」
丁寧ながらことさら淡々とした口調でそう返し、相手の瞳を真っ直ぐに見据えて、涙で歪んでなどいない、整った表情を見せつける。
そんな彼女を静かに見つめていた少年は、ふと微笑んだ。自らの眉間を指し示し、そこにとん、と指を当ててみせる。
「……?」
怪訝そうな顔をするエレーンに向かって、彼は穏やかにこう告げた。
「ここ。しわが寄っている」
「!」
どうやら平静さを装おうとするあまり、眉間に妙な力が入ってしまったらしい。彼女がその動揺を処理しきれないうちに、相手はもうひとつ爆弾を投げてよこしてきた。
「ここにこうしてしわを寄せるのは、クセになりやすいんだそうだ。気を付けた方がいい……せっかくの整った容貌が台無しだ」
自らの容姿を褒められることがエレーンは苦手だった。謙遜すれば嫌味だと言われ、素直に礼を言えば鼻につくと言われる。そんな経験がこれまでに幾度もあったからだ。どう返したらよいのかが、分からない。特に相手が女性の場合にそういった思いをすることが多く、エレーンの中では軽いトラウマになっていた。
「……ご忠告を、どうも」
どうにか声を返したものの、今度は表情を繕いきれなかった。
その時、寝ていた少年が小さく呻(うめ)いて、寝ぼけ眼をこすりながら傍らの兄を呼んだ。
「う……ん、兄上……?」
「あぁ、すまない。起こしてしまったか」
ぼんやりと起き上がったぽっちゃり気味の弟は、見慣れない顔のエレーンが近くにいることに驚いて、大声を上げた。
「うわっ、何だお前はっ!? 教育係に命じられて私を探しに来たのかっ!?」
「いえ、私は……」
「違うよ、アルベルト。彼女は全く関係ない」
アルベルトという名を聞いて、エレーンは内心青ざめた。この国の第二王子の名が確か、アルベルトだったはずだ。年は今年で11歳、兄の第一王子レイドリックは弟と少し年齢が離れており、今年18を迎える年だったと記憶している。
目の前の兄弟の外見と合致する年齢だ。
身分が高そうな兄弟だとは思ったが、まさか-----。
「何だ、私を連れ戻しに来た輩ではないのか……」
アルベルトは絶句しているエレーンを見やり、ばつが悪そうに呟いた。
「そんな顔をするな。その……大声を出して、悪かった」
そう言われたことにエレーンは驚いた。兄弟の正体を知り衝撃を受けはしたが、別段彼の声に慄(おのの)いたわけではない。年下の少年にこんなふうに誤解をさせ、謝罪させてしまうほど、自分はひどい顔をしていたのだろうか。
「そうだ、これをやるから……」
きょろりと辺りを見渡したアルベルトは、手近に野生していた黄色い花を一本手折ると、エレーンへと差し出した。
「女をなぐさめるには花を贈るのがいいと、この間大人達が言っていた。これで機嫌が直るんだろう? ほら、受け取れ」
弟の言葉を聞いた兄が、軽く吹き出す。
エレーンは一瞬ためらった後、腕を伸ばしてアルベルトからその花を受け取った。
近くの花壇で咲き誇っていた花の種が飛んで、野生化したものだろうか。淡い黄色をした可憐な花びらが愛らしい、可愛らしい花だった。
その温かな色合いを見つめていると、何故だか急に涙が溢れそうになってきて、エレーンは口元を引き結んだ。
「ここを知っているのは我々と、後は私の幼なじみくらいのものだ。その我々もここに来ることは滅多にないから、今日のように鉢合わせることはまずないだろう」
暗にまたここへ来ても構わないのだと告げて、レイドリックは弟を促した。
「アルベルト、目も覚めたことだしそろそろ行こうか。教育係の胃に穴が開きかねない頃合だ」
「ええ〜……」
「大丈夫、抜け出したことを怒られないよう、私が上手く口裏を合わせてやるよ」
「本当ですか? 兄上、ありがとうございます!」
渋る様子を見せていた弟は、兄の言葉を聞いた途端、現金なくらいの笑顔になった。
連れ立って遠ざかっていく兄弟の後ろ姿が、次第に涙でかすんでいく。エレーンは無言のまま、腰を折って深々と二人の背に一礼した。
口を開くと嗚咽がこぼれてしまいそうで、お礼も謝罪も言うことが出来なかった。
だが、何故だろう。重苦しかった心が少しだけ、軽くなったような気がした。
溢れた涙がひと筋頬を伝って、音もなく地面へと吸い込まれ消えていった。
*
ドヴァーフは南側をアストレア、北側をウィルハッタに挟まれた位置にあり、東西を海に囲まれている。
南のアストレアとは長い間比較的穏やかな関係が続いており、安定した国交を保っているが、北のウィルハッタとは昔から仲が悪く、これまでに幾度も武力衝突を繰り返してきた間柄だ。
片や魔法王国の名を冠し、片や剣技の国の名を戴く両国は、その相反する特色の為かぶつかり合うことが多く、歴史を遡(さかのぼ)ると幾多もの凄惨な史実が浮かび上がってくる。
その為両国の国境の境界線は時によってしばしば移り変わり、付近に住まう者達はその度に属する国が変わるという事態を余儀なくされてきたのだが、ここ十数年は小競り合いこそあるものの、境界線が変わるような大きな争いもなく、表面上は落ち着いた関係となっていた。
しかし、ひと月ほど前。
その状態を悪化させかねない、ある出来事が起こった。
先の大戦以来、年に一度執り行われている両国王の会談が今年はウィルハッタで開催され、国王オレインはペーレウスとシェイドを伴ってその席に臨んだのだが、そこで些細なことから、両国の騎士団長の技倆(ぎりょう)を披露し合うような運びとなってしまったのだ。
ウィルハッタの国王ジェファーソンがドヴァーフの騎士団を軽視したとも捉えられかねない発言をしたことがきっかけだったのだが、因縁の相手からの挑発的とも取れる言動をオレインは受け流すことが出来なかった。
ペーレウスとシェイドはどういう結果になろうとも両国の関係に不協和音が生じることになると進言し、オレインを説得にかかったのだが、余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)といった風情でこちらの様子を窺っているウィルハッタ側の態度を見たオレインは冷静さを失くし、ペーレウスにこの挑戦を受けるよう勅命を出した。
かくて、ペーレウスは『両国の騎士団長の技倆を披露し合う』という名目の下、実質はウィルハッタの騎士団長レイルとの一対一の手合わせに臨むことになってしまったのだ。
ペーレウスは182cmと長身だが、相手は彼より更に頭ひとつ分大きく、がっしりとした体格をしていた。腕や足の筋肉は膨れ上がって発達し、丸太のように太い。典型的な重量戦士タイプだ。武器はペーレウスと同じく大剣-----ウィルハッタ側は対戦相手を所詮魔法王国のお飾り騎士団、その毛色の変わった騎士団長という穿った見方をしていたのだが、試合が始まってすぐにその顔色が変わることとなった。
レイルは剣技の国の騎士団長を務めるだけあって、その腕は超一流だった。一撃で敵を屠(ほふ)り去る破壊力と、その外見からは想像もつかない俊敏さを持ち合わせ、ウィルハッタで英雄視される“竜殺し(ドラゴンスレイヤー)”の称号を持っている。国王ジェファーソン以下、ウィルハッタの者達の彼に対する信頼は厚かった。
そのレイルの攻撃を、目下と見ていたドヴァーフの騎士団長が剣で受け流し、次々とかわしていく。想像だにしていなかった光景に、その場に居合わせたウィルハッタの者達は自身の目を疑った。
レイルと比べてひと回り小さく、ほっそりとしてさえ見えるあの身体のどこに、竜殺しの剛剣と渡り合う力があるというのか。
何合目かを打ち合った時、レイルが唇の端を上げ、ペーレウスに声をかけてきた。
「まさか、魔法王国ドヴァーフにこれほどの剣の使い手がいるとはな……」
「お褒めにあずかり光栄……と、言えばいいのかな……?」
重なり合い、軋み合う剣越しにそう返すと、レイルは薄く笑った。
「素直に受け取ってくれていい……」
互いの剣を押し合い、一度距離を取って再び打ち合いながら、今度はペーレウスがレイルに話しかけた。
「もういいだろう……この試合に勝敗をつけて、無益な火種を生むことはない……!」
「……同感だ」
紳士協定を結び、二人は同時に剣を引いた。
「レイル……!?」
「ペーレウス……!?」
双方の主君が立ち上がり、訝しげにそれぞれの騎士団長の名を呼ぶ。
「勝敗がつくまでに、膨大な時間がかかると踏みましたので……」
「もともと我々の技倆をご覧になりたいとのご要望でしたので、そちらには応えられたかと」
暗に臣下に諫められていると気が付いた両国王は、公式の場でもあることから、これ以上の体面の悪化は避けた方が良いと考え、表面上は互いの臣下を褒め称え合い、奥歯にものの挟まったような雰囲気を残しながらも、この場はこれで収まった。
「-----良い機会だったよ。ドヴァーフの騎士団が昔とは違うということが、良く分かった」
去り際に低い声でレイルが放ったこの台詞が、ペーレウスには引っかかった。言葉の裏に潜む不吉な気配のようなものを感じたのだ。
無事に騎士団長としての責務を果たして戻ってきたペーレウスを迎えたシェイドは、親友の働きを称えた。
「よくやってくれた……相手もどうやら分別のある人物だったらしいな。両国の関係にひびが入るような事態だけは避けられて、とりあえず安堵した」
「分別がある……ってのとは、ちょっと違うかもしれないぞ。この場で勝負をつける気はなかったみたいだけどな」
ペーレウスはチラリとレイルの方を見やりながら歯切れ悪く答えた。その様子を見取ったシェイドが微かに眉宇を曇らせる。
「……詳しい話は後で聞こう」
後にペーレウスから話を聞いたシェイドは難しい顔で考え込んだ。
「ふむ……単純に言葉通りと捉えられないこともないが、お前の野生じみた勘を無視することは出来ないからな……。裏を返せば、お前の剣技を肌に感じたレイルは危機感を覚えたとも取れる。ドヴァーフがウィルハッタに迫る剣の力をつけてきているとなれば、両国のパワーバランスが崩れる恐れがあるからな。それを安穏と見ていられるほど、生易しい歴史を築いてきた間柄の両国ではない……」
言いながら、シェイドはペーレウスに尋ねた。
「傍から見て、両騎士団長の実力は拮抗しているように見えたが、どうだった? あのまま勝負を続けていたとしたら……」
「さぁ……向こうもオレも本気じゃなかったから何とも言えないが、アイツ、強かったよ。互いに隠している引き出しがどれくらいあったのか……」
ペーレウスがこれまで対戦してきた人物の中で、レイルは間違いなく一番の手練れだった。強い相手と戦うのは、純粋に楽しい。国同士のしがらみがなければ、全力で手合わせをしてみたい相手だと思う。
「……例えばあの場で何らかの決着がついていたとして、実はウィルハッタ側には国王の自尊心を満たす以外、何の得もなかった。むしろ、マイナスの素因が強かったと言える。剣技の国の看板を戴く彼(か)の国の騎士団長が魔法王国の騎士団長に勝ったところで、得意分野なのだから勝って当たり前、としか見られないし、そんなことを自慢すれば失笑を被るだけだ。だが、負けたとなれば国の威信は失墜し、内外に国辱ものの恥を晒すことになる。どちらの結果になっても、ウィルハッタにとっては得策ではなかった」
状況を冷静に分析しながら、シェイドはレイルの武人らしい風貌を思い浮かべた。ややつり上がり気味の切れ長の瞳に湛えられていた鋭い眼光-----油断のならなそうな人物だ、という印象を抱いた覚えがある。
「レイルにはそれが分かっていたのだろうな。だからお前の提案に同意し、勝敗をつけることなく剣を引いた。関係が微妙な国に、腕が良く頭も切れる重臣が居るというのはやっかいだ。……もしかすると、レイルは何かしらの行動を起こそうとするかもしれないな。もし私が奴の立場でお前を自分と互角のレベルと認めたなら、現在のパワーバランスを保つ為に何らかの対策を講じることを主君に進言する」
ペーレウスの表情が硬さを帯びた。
「……例えば?」
「自国の騎兵力の底上げ、より威力のある武具や兵器の開発……あるいは何らかの手段を用いて、秘密裏に相手国の国力の衰退を狙うというのも考えられるな。……考えすぎならいいが、念の為、用心をしておこう」
「……分かった」
去り際の、薄い笑みを湛えたレイルの横顔が脳裏に思い浮かぶ。ペーレウスは口元を引き結んで頷いた。
*
ここ十数年、ロイド公爵は心の底から笑ったことがない。
原因は分かっている。全ては、あの『愚民』のせいだ。
十六年前、あの愚民が入城してきてからというもの、ロイド公爵の人生は狂い始めてしまった。
いずれは騎士団長になるはずだった可愛い三男坊は、あの愚民めの卑劣な策謀にはまり、精神を患って有望な将来を絶たれてしまった。これを皮切りに、あの愚民めは分不相応にも、ロイド公爵の前に立ちはだかり続けている。
魔法王国の歴史を踏みにじる害虫を駆除しようと、愛国者を自負するロイド公爵は裏で様々な手を回してきたのだが、野生の勘が鋭いのか悪運が強いのか、愚民はそれをことごとく回避してまわった。
当時の宰相ランカートと彼の嫡男シェイドもまた邪魔な存在だった。
そうこうしているうちに『鋼の騎士』などという通り名が一人歩きし始め、物好きな国王は自分の目が確かだったとご満悦になり、国民の人気取りに走った。
ロイド公爵は同志達に根回しをして伝統重視派を結成し、暴走する国王を制止しようとしたのだが、苦労の甲斐なく、愚民は千騎隊長に昇進してしまった。
それでもロイド公爵は愛する国の為、あらゆる手段を講じて害虫駆除の努力を続けてきたのだが、あろうことか、愚民はついに騎士団の最高位である騎士団長にまで昇り詰めてしまった。
ここにくると伝統重視派の見解も分かれ始め、愚民の擁護に回る者、様子見に回る者、あくまでも伝統を守ろうとする者と、まとまりがなくなり、事実上空中分解の様相を呈してしまった。
幾多もの労苦の末、ロイド公爵に残ったものといえば、愚民批判で国王の不興を買ってしまったという負の遺産だけである。
国王オレインは伝統重視派の貴族達の不満を承知しており、それを煽ることは避けようとしている姿勢が見受けられた。それ故、ロイド公爵は現在もこれまで通りの地位に就いていると言える。
しかし、国王の心証を悪くしてしまったことは間違いがなく、いつ閑職へ追いやられるやもしれないと、内心は戦々恐々だった。
-----まったくもって、腹立たしい。
どうやってあの愚民めを葬り去ってくれようかと、ロイド公爵は今日も汚れた金をすすりながら考える。
国王は古くからの因習に関しては寛大で、それを知るロイド公爵は自らの地位を最大限利用して、流れ込んでくる金品という金品を貪欲にかき集めていた。
何かと小うるさいシェイドが最近また、入城者に対するチェックの強化やら出入り業者の制限やらを提言しているようだが、要職者のほとんどはそれに賛同すまい。王城に出入りする者が減れば減るほど、彼らに流れ込む甘い汁は減ってしまうからだ。
それに下手に賛同したが為に、それが高じて金銭授受に関する規制など導入された日にはたまらない。
シェイドの提言に冷ややかな視線を送りながら、その動きが実を結ぶことはないだろうと考えて、一矢報いた気分になり、ロイド公爵は少しだけ気が晴れた思いがした。
そんな自分達の考えが、この国にやがて大きな動乱を呼び込んでしまうことになるのだとは、露ほどにも思わずに-----。