私見・・神鏡(御鏡)を考える
長い期間、夫婦でこの様な仕事を此処までやって来ましたが、世間で言われる神鏡(御鏡)の意味など考えた事はありませんでした。
只、鏡に映る側が此方を向いていますので、この様な仕事上、神様の前では嘘はつかれない、嘘をつくと即自分に跳ね返って来る、神様と向き合う時の自分を戒め律する為の道具としか理解していませんでした。
そして地神様に手を合わせる時においても、鳴釜神事を行っている最中においても、殆どその存在を意識せずに此処までやって来ました。
しかしそれが、去年(令和4年)の年末頃から、いつもの様に地神様の御社に向かって手を合わせると、妻の言う、「綺麗な透き通った光と白の間の色?・・・言葉では言い表せない色で場面全体が光っているわ・・・」という場面が出て来る様になりました。(「某月、某日、(875)」
思い起こせば、2年程前から、「この領域を極めたい。鳴釜神事を極めたい」と言う事を度々女の地神様にはお伝えして来ていました。
そして、「鳴釜神事・・今一度原点に戻り考えてみよう」にも書かせて頂いていますが、確かに、霊視に重点を置く今までの形でやって来たのも鳴釜神事ですが、もっとこの神事を極める形があるのではないか、と言う事を常に考える様になって来ました。
そうこうする内に、今まで私をいろいろと批判して来た男の地神様の御姿も最後には真っ黒な姿に変わって姿を隠し、女の地神様にしても一時期は顔だけを除き、真っ黒な体を横たえている状態が数か月続きました。
これは、ある祈祷時に、釜を焚いても消えない対象に対して、男の地神様が(私の声で)、「躊躇なく斬れ」と私に言ったので、その対象に向けて二回剣を降ろしたのですが、その後から女の地神様の身体が真っ黒になり、男の地神様も真っ黒な姿になり、チビは右肩を斬られて痛い痛いと出て来たり、妻は右肩から右足に強い痛みが出て、加古川中央市民病院では運動ニューロン病の疑いで半年以上に渡り検査を受けたが、結局は原因不明で終わってしまいました。
何故この様な流れを作ったのか、今から思えばその真意は上記した絵に結び付いていたのかも知れません。
そして後から気がついたのですが、庭で祀る地神様の御姿に二か所、何かで斬られた様な跡を見つけました。御鏡(神鏡)にも錆が出ていましたが、今までにこんな事は一度もありませんでした。(「某月、某日、(836)」)
数か月後、女の地神様の御姿は出る様になったのですが、以前の様な迫力は無く、弱々しい状態で、祈祷時に対峙しなければいけない対象に対しても殆ど動きがなく、その上、妻も体調を崩していましたので、日々の相談や祈祷は休ませて頂いている状態が続いていました。
去年(令和4年)の初め(春)頃?、妻との話で、もうそろそろ相談と祈祷を再開しようかと話していると、地神様が妻に、「何処にでも行きなさい。死んでも行け(祈祷に出かけなさい。死んでも行きなさい)」と一方的に言って来ました。
その時私が、「何処にでも行けと言う事は、今までなら意識的に関わらない様にしていた汚い所にでも行けという意味ですか」と尋ねると、「「行け」と言ってるわ・・・」と妻が言いました。
その数日後、テーブルの上に置いていた妻の数珠の紐が切れていました。
「これはこの先、ややこしい事が起きるな」、とは思いましたが、「地神さんが何処にでも行けと言ってるので動こか・・・死んでもええか・・・もう長い事やって来たからな・・・もうええか」と妻と話をして、その後は、確かに、何故か深く因縁のある祈祷が続きました。
そして去年(令和4年)の10月の末に妻が緊急入院をしましたが、その少し前頃から女の地神様の御姿はいくら呼んでみても出ない状態になっていました。
妻にしても、病院でいくら霊視をしても何も見えない状態が続きました。
私は、「あ・・・良かった。これで良い」と思いました。
只でも霊視は身体に堪える上に、その殆どを含める程度の低いものを病人に霊視をさせたりするのは間違っている、妻の霊視能力が無くなればそれに越した事は無いと思いました。
妻の入院から一か月程経った頃、「白い鳥・・・下半身が大きくて、フワフワ〜とした長い毛(羽根)が沢山生えて・・・顔は見えなかったけど・・・左側から右側に飛んで上がったわ・・・」と妻から電話がありました。(「某月、某日、(870)」)
「え・・・見えるんか・・・見せたのか・・・」と、それを落胆しながら聞いたのを覚えています。
私にしては、「あ・・・地神様は私らの元を去ったな、去ったのならそれで良し」と思い、何年も前から地神様に聞いている、「もう一人でやれ(祈祷をしなさい)」という事を聞いていた事から、待ってもらっている祈祷依頼が数件ありましたので、白い鳥が飛んだと言う事は、地神様の、「もうお前らの前には姿を見せる事は無い。祈祷を始めなさい」という意味と取って、一人で動き始めました。(この時点ではそう思って祈祷を再開したのですが、1か月半ほど後(令和5年1月8日)、また同じ場面出て来る事になります)
そして年末に妻が退院しからは、地神様の御社の方を向いて手を合わせると、決まって同じ様な光の場面が展開される様になりました。(「某月、某日、(875)」)
向かって右側の下に、チビと思われるものも光って出ています。
この時期、右下に出ているものに、「あんたはチビか?。チビなら動いてみ」と伝えると、「動いたわ」と妻が言いました。
「地神様が出なくてもチビが反応してくれるのなら(まだ)心強い」とも思いました。
令和5年1月6日、午前7時50分頃、いつもの様に地神様の御社に手を合わすと、「中心が白?・・・金?の光でぽっかり空いて?・・・中心が眩しい・・・言葉で言うのは難しいわ・・・。・・・で、その周りから光が上に上がって行ってるわ・・・後ろは薄〜い青色(水と観ます)」と妻が言います。
(「某月、某日、(877)」)
形が変わって行くのを観ながら、それが何を意味すのか少し静観してみようと思いました。
令和5年1月7日、午前9時30分頃、いつもの様に地神様の御社に向いて手を合わすと、「真ん中が白く?・・・白ではないわ・・・光やわ。その周りから光が出ているわ・・・。チビらしき形は向かって右下に在るわ・・・」と妻が言います。(「某月、某日、(879)」)
令和5年1月8日、午前10時15分、地神様の御社に向いて手を合わすと、やはり前日と同じ様な色、形が見えて、真ん中の白がはっきりとして来た様に思います。
同日の午後8時35分頃、「今白い鳥が飛んだわ。白い鳥が斜め左下から右上に飛んだわ・・・病院で見たのと同じ場面やったわ」と妻が言います。(某月、某日(879)」)
「どういう意味や?。又出たか」と思いました。
令和5年1月10日、午前10時5分、地神様の御社に向かって手を合わせると、ほぼ前日と同じ形が出るのですが、中心に光があって全体に、独立して上に上がって行ってる様に見えます。(「某月、某日、(880)」
令和5年1月14日、午前4時前、この日は片道約300キロ、高速を降りてから山道を30分程走らないといけない場所の祈祷に出かける為にこの様な時間になりましたが、いつもの様に地神様の御社に向かって手を合わせますと、「形はいつもと同じ様な出方やけど・・・中心の周りの光が勢い良く上に上がって、光(炎ではないが表現が難しい))が上で交差してるわ・・・」と妻が言います。
「今日の祈祷の成果を示しているのかな?」とも思いましたが・・・。
この後もいつもの様に地神様の御社に向かって手を合わせますと同じ様な形が出ますので絵には描いておりません。
令和5年1月21日、午前8時30分頃、いつもの様に地神様の御社に向かって手を合わせると、いつも出る形の真ん中に一本、縦に線が立ちました。
これはこの後行う祈祷に関係するものの形だと言う事は理解しています。
「???しかし、この形の中心を使って教えてくれているのか?・・・この先、この様な教え方をしてくれるのか?」とその時は疑問を感じながら終わりました。
「そんなもんではないやろ・・・それなら以前と同じやないか・・・」と疑問を感じながら終わりました。
この後も、毎日同じ形のものが出現しますので、あえて絵には描いていません。
しかし毎日、同じ形が出続けるというのもそれなりの意味が有ると思う様になって来ました。
令和5年1月26日、午前8時頃、いつもの様に地神様の御社に向かって手を合わせると、「いつもの形が出て、光の中にピンと張った白衣が二着出ているわ・・・中心が丸くなって来たわ・・・」と妻が言います。(この解釈は横に置いて)
令和5年2月1日、午前8時10分、いつもの様に地神様の御社に向かって手を合わせると、「いつもの形が出て、中心の丸(〇)の中にこんな形のものが出てるわ・・・」と妻が言います。(この解釈は横に置いて)
令和5年2月4日(土)、いつもの様に地神様の御社に向かって手を合わせるといつもの形が出るので、また年も変わったので(節分が過ぎたので)、「地神さん・・・これ、御鏡か?。そうならその中心に光を出してください」と長い間姿が出ない地神さんに問いかけてみたら・・・、「中心はずっと光っているので分からないけど・・・その円の・・・円と言っても丸(〇)ではないけど・・・中心から離れた所がフワッフワッと光った?・・・揺れた?わ・・・中心の光りというのはピカッとした光ではなく・・・神々しい?光で・・・この光・・・ず〜っと奥に続いてるわ・・・」と妻が言います。
「御鏡(神鏡)か・・・」と思いました。
「御鏡(神鏡)が出たか・・・」と思いました。
「極めたい極めたい・・・この鳴釜の神事を極めたいと言って来たが・・・ついにこんなものを出して来たか・・・地神さん」と思いました。(何故かこの時の霊視画は描いていませんでした)
「・・・で、この御鏡(神鏡)が何の意味があるんや?。男の神さんも女の神さんも出ない現状でこんなものを見せてくれても・・・」とも思いました。
令和5年2月6日、午前7時30分、いつもの様に地神様の御社に向かって手を合わせると、「いつもの形やけど、ちょっと違うわ・・・中心の丸は在るけど・・・上が割れてるわ・・・」と妻が言います。
2月6日前後の私達に関係したものだったと思いますが、それが何だったのか忘れました。
令和5年2月11日、2月14日、いつもの様に地神様のお社に向かって手を合わせると、いつもの形が出て来ます。
令和5年2月18日、午前8時5分〜50分、いつもの様に地神様の御社に向かって手を合わすと、いつもの形が出るのですが、少し右に流れている様な感じで出ています。
そして妻が地神様に観音経を上げていますと、「白い耳?・・・いや違うわ・・・何やろ?・・・二つが向き合って、それがくる〜っとねじ回って?・・・こんな形になったわA・・・」と妻が言います。(この形は二つの巳ですが、その解釈は横に置いて)
ざっと去年(令和4年)の暮れから今年(令和5年)の2月18日までに見えて来た、高橋家の女の地神様の言う「神鏡(御鏡)」の霊視画を登載させて頂いた訳ですが・・・。
「御鏡(神鏡)」とは・・・インターネット等で見てみると、大半は、それは(その神社の)御神体であり、それと(御神体)と向き合う時の私達の心構えを説いた内容が書いてある様に思います。
間違った解釈ではないと思います。そして殆どの方が同じ内容を御自分なりの解釈で書いてはおられるのですが、それはその情報源が一つだけであると言う事と、またそれを見て体験した方が居られないという事にあるのだろうと思われます。
令和5年3月4日(土)、午前9時20分、いつもの様に地神様の御社に向かって手を合わせると、いつもの形が出るのですが、中心の丸?がはっきりと一定して来た様になり、その周りの炎?の様なものが勢い良く上に上がり、中心の丸?も上に伸びる?様な形になって来ました。
令和5年3月9日(木)、午前4時50分、これは祈祷に行く朝に手を合わすと出て来た形です。
中心の真っ白に光る丸?、円?がす〜っと上に伸びた形になっています。
「某月、某日、(896)」にも書きましたが、殆ど形が決まって一定した様に思います。
令和5年3月11日(土)、午後9時20分、泊りがけの祈祷から帰って来た後で地神様の御社に向かって手を合わせた時に出て来た形です。
その後も、これを書いている今日まで(令和5年3月19日(日))、上記した形が出て来ます。
どうやら、この形に落ち着いた様に思えます。
そして「神鏡(御鏡)」の難しい意味は横に置いて、私自身、此処までこの領域の仕事をやって来て、やっとこの前に立てる様になって来た、と思える様になって来ました。
一応、上記したものに向き合う時は、「地神様」と念じて手を合わせますが、地神様やチビの雰囲気は全く無く、此の中心の丸?、円?の奥深くにある真理?と向き合う為の入り口にたどり着いた(着けた)様に思います。
そしてその真理とは、今から15年前、2009年5月(平成21年5月)に登載させて頂いた「鎮魂(精神統一)について」、平成20年3月25日から約4〜5か月に渡り経験した「天空の神龍・・神龍様から聞いた事」の内容と形に繋がっている様に(繋がっていく様に)思えます。
「鎮魂(精神統一)について」の内容に関しても、今でも目を瞑ると相変わらず雑念は浮かびますが、その私の雑念が形になって出て来る事は殆ど無く、只、この様なものを好む邪が一瞬覗きに来る事はあります。そして「鎮魂(精神統一)について」の平成23年1月21日に追記した内容に近い様な場面が展開されて行きます。ものすごく早いスピードで前方に突き進んで行く動きを繰り返す中心の、その外側?、周り?には円形(境のはっきりとしたものではない)が在り、場合(精神統一する内容)によっては、その中に浮かんで来る((見えて来る)ものも確認出来ます。
(相当前に登載させて頂いた絵です。最近の私が観ている場面とは全景の微妙に混ざりあった色の表情、荒さが違う(もっと立体的で荒さ(粒々)が有り、個々が流動的でゆがみをともなって、それが中心に向かってというか、ある一点に向かって進んで行く動作を繰り返します)のですが、これを登載させて頂いた時のフォトショップの使い方を忘れてしまいましたので、以前の絵を登載させて頂きました)
私の観て来たこの様な展開は、丁度インターネットで見る天の川銀河の光景、動きに似ている様?に思えて仕方がありません。
そして平成20年3月26日から約4〜5か月間に渡り経験した「天空の神龍・・・神龍様から聞いた事」の神龍様から見せて頂いた内容に結びついて行く様に思えて仕方がありません。
@ 高天原(神龍様の頭の(顔の)下には水の様にも取れるもの、上は一面光とも取れる場面が上に広がって(上がって)います。
私は神の誕生をも含め、今世にある全てのものの誕生の根源は水だと思っています。
A 神龍様の大元(高天原)の世界(神龍様の後ろから光が伸び、それが続き続き、限りなく続き、点(針の穴)(高天原)に続いています)。
B神龍様の手が龍玉を掴んでいます。
C D 龍玉の意味
上記したCDの意味(解釈)がEFになります。
E(注:確か、下記のFの玉の中心には黒い点があったはずですが、妻が描き忘れた様です)
F
(図Eの時が流れて(一瞬)図Fの形に変化する、この動作を(永遠に)繰り返す)
(確か、この玉の中心↑に黒い点があったはず)。
上記した、「鎮魂(精神統一について)」の図や、「天空の神龍」の @〜Fの図の説明は、広く解釈すれば、この世の仕組み、人間の生き方や心掛けを説いたものではないかと思っています。
そして人間は一人一人が宇宙であり、光であり、神であり、真理であるということ。(「天空の神龍」を見てください)
仏教で言われる「諸行無常」、この世の全ての事物、現象は絶え間なく変化し止むことは無い。
これは修行中の神(ある一定の神の位まで到達した)の世界でも同じ事が言えると思います。
この様な仕事をしていると、神の生まれ代わり、要するに、神が人間の姿を取って修業に降りて来られた現実を見ることがあります。
その殆どが、辛くきつい現実(修業)に直面して困惑されておられるのを目にする事が有ります。
前置きが長くなりましたが、私が見る神鏡(御鏡)と思われるこの形の中心の丸(〇)の形が、「鎮魂(精神統一について)」の図で示した光の向かう先(高天原)、「天空の神龍」の図、@Aで示した高天原(真理)に続く入り口と思えて仕方がありません。
そして偶々、偶然に私が私の領域を通してその入口にたどり着いたというだけで、この世に生きる誰もがいつか、何らかの形(経験)を通して、この前に立つべき場所ではないかと思っています。
小宇宙(人間)が、自分が神であり、光であり、真理である事や、この世の仕組みを認識して、初めて大宇宙の根源と向き合う事が出来るのではないかと考えています。
霊能力と言われる様なものとは、、全く異次元(別世界)の世界だと思います。
*令和5年4月11日(火)追記。
令和5年3月28日(火)、午前9時20分。
令和5年4月6日(木)、午前8時27分(木)。
相変わらず、毎日、この形が出現する。
この形が見える様になってから何故かどっと疲れる。
前にも増して責任感を感じる。
「余りにも神さんに近づき過ぎたのとちがう?」と妻が言う。
・・・・・・・・・・・・・・・。
*文末に追記あり