鳴釜神事・・・今一度原点に戻り考えてみよう。
京都の伏見稲荷大社、白狐社、命婦専女神様を意識して御呼びすれば、その御姿が出ていろいろと指導をしてくださる。
奈良の大神神社の神前で手を合わせれば、大神神社の御神霊の御姿が出て指導をしてくださる。
巳の神杉の前でも然り。
淡路島の伊弉諾神宮の神前で手を合わせれば、伊弉諾神宮の神霊の御姿が出る。
夫婦の大杉の前でも然り。
これは只、私がその神社の神霊(善神)と通じるだけで、何処の神社の神前に立っても、神霊(善神)の御姿も出るが邪神の姿も出る。
世間に名が通って、人々が沢山お参りされている神社の神前に手を合わせても、邪神としか思われないものが出る時がある。
ある稲荷神社の研究をしている方が属している、ある地方の神社の祭神を観れば、今の言葉で言えば、稲荷神を虐待している場面が出る。
何んとも、どう表現したら良いのか、そんな矛盾だらけの世界を横目で見ながらこの領域に身を置いて此処まで来たが・・・。
そしていつの間にか、何処から、いつ頃からそういう様な流れになってしまったのか、口ではひらめきが一番重要だと言い続けながら、気がつけば霊視に重きを置いて来た自分に矛盾を感じる様になりました。
確かに、霊視はこの領域の物事を解明するには一番の近道だが、一番判断を誤り易い危険性もあります。
霊視というものは、今まで一生懸命に修業しても体得出来なかったものが、一瞬にして出来る様になる事があります。
その一番の近道は、邪神が入ると瞬時に見える様になるのですが、その見える内容の程度はお粗末極まりないものになります。
つい最近、私の親しい方に一瞬この病が入りかけ、途端に人格が変わった様になったが、直ぐに本人が気づき難を逃れた。
この病気にかかってしまうと人生を狂わします。
私の親しい方に関しては言えば、無意識にも霊視に重きを置いて来た私の影響も大い関係し、私の責任でもあります。
霊視はその者にこの領域の基礎が無く、興味だけがある場合、一度この病にかかると一生治らないものです。
確かに、私のホームページを見れば沢山の霊視画を登載しています。
これはホームページを読んでくださる方が、その内容をより深く理解して頂く為に登載して来たつもりだが、私自身もそれに偏り、頼り過ぎたきらいがあります。
相談の内容を頭に入れる前、入れた直後のひらめきが本来の形だと思いますが、霊視の後で、その霊視の場面を観ながら頭で考える様になってしまったのは否めない事実です。
私の鳴釜神事を経験された方ならお解りと思いますが、霊視の場面の解明にこだわり過ぎて、神事の途中で考え込んでしまう場面を、それも5〜6分間ならまだしも、20〜30分間以上、時にはもっと長時間に渡り、祈祷を中断してしまう事があります。
この神事を始めた初期の頃、釜を焚き始めてから数年後、女の地神様が、「あれこれと考えずに、只現地に身を運び、一生懸命にお経を上げて釜を焚いて帰って来たら良い。それで良い」と言われた事が有りましたが、確かに、その時の私の程度は、例え間違った方向で釜を焚いても、女の地神様がその償いをされていた様ですので良かったのですが、「もう釜の修業は終わった」と告げられてから10年近く経った今、男の地様の修行は終わったのかその姿も出ず、女の地神様は只私達の祈祷を見ているだけで何も動きが無く、その上、私が一番気になっているのは、今までなら目を瞑ると鋭い龍の目、目元から鼻にかけての場面が出て来ていたが、今はそれがない。
出て来ない。
これは、以前なら、私が間違った判断や考え方に自分でも気がつかなかった場合(頃)、目を瞑ると、何故いつもこんな鋭い龍の目、鼻が私を睨みつけて出て来るのか、と思っていたのですが、今はもうその龍の目も出ない。
5〜6年前、男の地神様が、「もうええか?」(「もう私の指導がなくてもやれるやろ?。もう大元へ帰るで・・・」という意味)と私に言った事が有りました。
女の地神様にしても、「もう一人で出来るやろ?」(「もう私の助けが無くても出来るでしょう」という意味)と私に言った事が有りました。
時期が前後しますが、10年程前、男の地神様が、「もう連れて帰ろか?」(女の地神様を私達から取って、大元へ連れて帰る」という意味)と言った事が有りました。
その時は、「いや、もっと一緒に居ってください」と返事をした事を覚えています。
こんな怖くて危ない仕事、神さんの助けが有ってこそ出来るわけで、人間の出来る業ではない。
以前、私の声で、私の喋り方で、私の性格そのものの、ぞんざいで勝手な男の地神様の態度やものの言い方に腹が立って、「あんたは私か?。私はあんたか?」とやり返したら、「遠〜い昔、そんな気もする」と言った事があるが、その男の地神様も今は出ない。
鳴釜神事の最中でも、女の地神様は少し距離を置いて私達のしている事を見ているだけです。
大分前から祈祷中に妻が、「もっと私に(念を)送って」と言う事が度々ありました。
以前(十数年前)なら殆どの情報が私の方から送られて来ていた(妻に入って来ていた)が、「今は余りない」と妻が言います。
考えてみれば、以前は霊視をする前に、私の中では大体の目星が付いていて、その後に霊視があったが、今は全くその逆になってしまった様に思います。
その逆になっても霊視をすれば見えて来ますので、ついつい安易な方に偏って行ったのだと思います。
それと遠方の祈祷の場合、其処までの道順、ホテルの予約など、その方の調べ事が有りますので、その方に注意が行ってしまうのは事実として有ります。
又、これも私の責任になるのですが、実際に鳴釜神事の祈祷をする前に、霊視によっての大体の内容や、解明、解決の方法や手段を説明させて頂くのですが、その内容に期待をかけ過ぎられて、問題解明(先を)を急がれる方も居られます。
私の方にしても、其処まで説明させて頂いた結果がその様な流れになっているのが分かりますので、余り詳細な霊視の内容はお伝えしない方が良かったのかと後悔する事が多々有ります。
程度に寄っては、問題解決までにはある程度の時間が絶対必要な場合もあるのですが、霊視の内容をお伝えした結果、先を急がれ中途半端な形で終わってしまったケースも在りました。
勿論、祈祷前には霊視によって得た情報をある程度説明させて頂くのは絶対に必要ですが、今までの様に、祈祷前に沢山の情報をお伝えする事に躊躇する様になってきました。
そして鳴釜神事の祈祷中にしても、今、目の前にはどの様な場面が展開され、、それがどう変化して、どう祈願成就に繋がって行っているのか、という様なテレビやラジオの実況中継に似た祈祷の型(始終)にしても、その様な解説?は必要ないのではないかと思う様になって来ました。
確かに、他にこの様な型の鳴釜神事をされている方は皆無だと思いますので、実際に私達の祈祷を経験された方はそれに驚かれて、祈祷の進行度合いがよく分ったと言われる方が殆どですが、この祈祷の型にしても、私達が初期の頃に行っていた型に戻した(回帰した)方が良いのではないかと思う様になって来ました。
鳴釜神事という祈祷は、祈祷をする方(私達)が、その祈祷の内容をすみずみまで熟知して行えば、それで十分祈願達成に結び付くと思います。
長い年月、鳴釜神事を行って来た私が到達した結論です。
また新たな修行が始まるのか・・・。
「もういい加減にして欲しい」というのが本音だが、私の人生はそうなっているのでしょう。
そう決められていたならしょうがない。
尚、文中の霊視という意味は、「見る(観る)、見える」という意味です。
*文中、登載後、途中で継ぎ足した部分があります。