「釜の修行は終わった」の意味する事とは
「地神さんが、「釜の修行は終わった」と言ったよ」、と妻が私に言ったのを聞いたのが平成26年9月の初め頃と記憶しています。
「何時、それを聞いた?」、と妻に聞くと、「半年ほど前」、という答えが返って来ました。
「聞いてない」、と答えたのですが、「ちゃんと言った」、と妻が言います。
「それが私の仕事のはず」、と言ってしまえばそれだけですが、はっきり言いまして、沢山の相談メールや相談電話に接するにあたり、先ず私の判断でこの領域が絡んでいる様なもの、又、私が判断する前に、強制的にこの領域からのお知らせが入って来る様なもの、全くこの領域とは結びつかない様な内容のものに対して、どの相談事を優先して、どうしたら個々の相談の中に隠れているこの領域が解明されるのか、それらを頭の中でまとめて、初めて家の地神様にお伺いを立てるのですが、そしてその見せられたものの最終判断や、祈祷に際しても、その祈祷の全く初期段階の段取りは全て私が行っていますので、何かのはずみで聞いた事や見た事は忘れてしまう事が有ります。
そして殆ど毎日、複数の方から寄せられる相談内容や、今に至るまでの祈祷をさせて頂いた方の祈祷の内容、メールや電話で相談を受けた方の相談内容は大体覚えていますので、許容量の少ない頭ではどうしても抜けてしまう事があります。
確かに、ここ数年の私達の祈祷に臨む考えや姿勢は以前のそれとは違ってきた事も確かです。
祓いの対象に、又、私達に立ち向かって来る祓いの対象には此方もそれ以上の態度で臨む事が多かったのですが、今ではその正反対の姿勢で祈祷に臨む事が多くなりました。
此方の巳神様も、その様な私達の姿勢を歓迎される様な態度を取られます。
祓いの対象に高飛車な言葉や、意味のある真言や印を結んで対峙する事もなくなりました。
祈祷先では、「もっとすごいのかと思っていましたが、案外静かに終わりましたね・・・」、と言葉をかけられる事も有ります。
以前の私達の祈祷は喧嘩でした、今から思えば・・・。
喧嘩に勝って、祓いの対象を消して、「地神さん、これで宜しいか?」、と聞くと、「良し」、と満足げに答える地神様も何時までかは在りました。
しかし、何時の頃か、祈祷が終わった帰り道、大阪の阪神高速東大阪線で、「地神さん、これで良かったですか?」、と聞くと、「曇った・・・、丸の半分が出てるわ・・・・、何か・・・すっきりしないわ・・・」、と霊視する妻が言った時がありました。
自分の中では、今まで通りの仕事をしたという自負が有りましたが、何か、抜けていたものも有るのかなという気持ちも湧いてきた事は確かでした。
それから後も、沢山のいろんな種類の祈願成就の祈祷の縁をつけて頂きました。
祈祷が終わった帰り道、何時もの様に、「地神さん、今日の祈祷、これで良かったですか?」、と聞くと、「良し」、と返事はされるのですが、何故かその顔が笑っておられません。
私にしてもその頃は、「もう力で押す様な祈祷は考えものだ」、という考えに変わりつつあった時期ですので、以前の様な声を荒げたり、印を結んだりするのは極力抑えていました。
ある祈祷の時、私は失礼の無い様に、言葉は荒げずに丁寧に対処していたつもりですが、突然、「地神さんが頭を叩きに来てるわ。チビも頭を叩きに来てるわ・・・、アホと言ってるわ」、と妻が言います。
私の頭を叩きに来ているのです。
「アホが・・」、と言いながら・・・。
私にしては何が何やら全く解りません。
それ以後の祈祷時でも、地神様が私の頭を叩きに来る事がありました。
はっきり言って、祈祷の祈願は成就するのですが、私自身、祈祷に対する情熱が冷めつつあるのが解りました。
それ以後も、いろんな祈祷と縁をつけさせて頂きました。
「まだ解らんのか、このアホ、ボケが・・・」、の意味の解釈と私達のお役」、「集大成・・?・・、確かに変わって行く祈祷の流れ、そして私達・・・」、にもその一部を書いていますが、勿論、これだけではなく、以後の祈祷の変化の過程はホームペジの随所に書かせて頂いている様に、祓いの対象に対し、相手の立場に立って話を聞かせて頂いて、祓いの対象とされるものの要求も聞かせて頂いて、それではどうしたら問題が解明、解決に至るのかを考え、祈祷をする私達の方も、祈祷を依頼された方も、祈祷の祓いの対象になった方も、全てが良い方向に行く様な祈祷を目指す様になりました。
勿論、現実はそんな理想が通る様なものではない事も承知していますが、それに近づこうと努力して行く様になりました。。
今までなら力で対峙していた祓いの対象も、こちらが丁寧に、親身になって接すると、殆どの祓いの対象とされているものにもそれだけの訳が有り、祓いの対象とされるものも軟化して、大概のものを受け入れてくれる事も学びました。
祓いの対象とされるものも此方の意見をきいてくれるとなると、もう力で対峙する必要も無くなりました。
そして、祓いの対象となっているものも元を正せば神霊という事も学びました。
そうすれば、私達が気がつかなかった長い間、私達が力で対峙していた祓いの対象は、元は神霊という存在と力と力で対峙していた事になります。
もう何年か前、この事が薄っすら解るようになった時、家の地神様に聞いてみた事が有ります。
私、「地神さん、今まで、何百・・、いや・・、千件以上の祈祷に行かせてもらったが、そして私が偉そうに祓いの対象と対峙していたそのものは、あれは元が神霊だった存在が多かったのですか?」、と聞いてみた事がありました。
妻、「うなずいてるわ」、と言います。
私、「そうしたら、何も知らん者が、偉そうに、元は神霊に挑んでいた訳ですか。そうなら失礼な事をしていたという事ですね。知らなかった事とは言い、謝らないといけない気持ちです。ひょうとしたら、私が失礼な事をした後で、地神様がそのものに謝ってくれていたのですか?」、と聞いてみました。
妻、「そうらしいわ・・・・・、うなずいとってやわ」、と言います。
それ以後、私達の祈祷のスタイルが変わっていきました。
その何年か後に、地神様の「釜の修行は終わった」、という言葉を妻が聞いています。
私にしては、私達のこの領域の寿命も聞いていますのでその意味は理解するのですが、知り合いの数名の方から、「もう止められるのですか?。そうなら、今の内に聞いておきたい事やして欲しい事が有りますので・・・・」、という意味の事を聞かれた事が有ります。
「釜の修行は終わった」、の意味は解っているのですが、昨日(H26・11・14)、再度その意味の確認をしました。
私、「地神様、「釜の修行は終わった」、の意味ですが、あれは・・・、何故、何にに、何の為に、どの様にという事はもう考えずに、何も考えず、純粋に釜を焚くという姿勢が第一だという事ですね。そして謙虚に、人の為、又、道を外した神霊様を正道に戻させて頂く為という姿勢で釜を焚けという事ですね」、と尋ねてみました。
妻、「地神さんがうなずいとってやわ」、と言います。
妻、「「どんどん焚け」、という様な顔をしてるわ」、と言います。
最近では、某月、某日、(102)にも書かせて頂きましたし、某月、某日、(113)にも書かせて頂いたその少し後の祈祷でも大変難解な内容でしたが、これは私達夫婦に取っては意味のあるものでした。
又、某月、某日(85)についても、昨日(H26・11・14)、再度聞いてみました。
実は以前、同じ事を聞いたのですが、その時は何も答えてはくれませんでした。
私、「地神様、少し前、地神様の所に以前○○さんの所に居られたY姫様が来られて、地神様と何か話をされていましたが、あれは命婦専女神様の使いで来られていたのですね?」、と尋ねました。
妻、「うなずいてあったわ」、と言います。
「やっぱり」、と思いました。
これは、私達のこの領域の寿命について、命婦専女神様からの伝言を託されてY姫様が来られていたものと観ますが、重くて・・・、内容は尋ねませんでした。
これだけではありませんが、この領域の私達の周りでは、確実に変化が起きている事は確かです。
それが、地神様が言った、「釜の修行は終わった」、という言葉の前後からという事だけは確かです。
「釜の修行が終わった」、というのは、「何も考えずに、釜を焚け」、という意味なのでしょう。