贖(あがない)について
 贖(あがない)の定義については、私の様なパーマ屋半分、拝み屋半分の者が、書物等から仕入れた知識を書くよりも、宗教学者に委ねた方が良い事は疑い有りません。

 贖とは、広辞苑によると、罪などの代わりをすること、その代わりとなるもの、つぐない。

 贖うとは、金品を代償として出し、罪を免れる、償いをする、罪滅ぼしをするとあります。

 仏教を除く神道、又他の世界中の宗教の知識をお持ちの方は良くお分かりでしょうし、私のこれまでの経験だけから得た内容は、一笑に付されると思いますが、これから書く事は、一拝み屋として、私が経験した事からの意見としますので、本来の定義からはかけ離れたものになるかも知れませんが、実際の現場に立っていると、軽視出来ない恐さも感じます。


 自らの罪を、代償を出す(祓う、払う)事によって、それを無くす。

 言い方を変えれば、代償(祓い、払い)を科される。

 その代償は金品であったり、物品であったり、労働であったりします。

 又、不幸であったり、最悪の場合、人の命であったりもします。

 そして代償を受け取るものの、その媒体としての眷属神と、その眷属神の伝達媒介としての私を通して、一連の行為は上に伝わって行きます。

 それは何も祈祷に限ったものだけではなく、日常の相談に対しても働きます。

 しかし、私⇒眷属神⇒神への伝達は、殆んどの場合、私⇒眷属神の段階で止まってしまう事が多い様に思います。

 思うのではなく、眷属神の所で止まります。

 眷属神⇒神に伝達されるのかは分かりませんが、その事に対し、神は動きません。

 一個人の願いに、神は動きません。

 一連の行為をみて、その結果を出すのは眷族神です。

 眷属神は神ではありません。

 どちらかといえば、人間に近い存在で、人間に近い判断をします。

 人間の考えの裏を読み取るくらいは、朝飯前です。

 人間が差し出す贖を受け入れて評価するのは、眷族神です。

 そして頭に入れておいて欲しいのは、神事においては、贖というものが絶対に必要になってくるという事です。

 この領域の仕事をする者は、金銭を貰わずに、奉仕で行うのが本来の姿だという方が居られますが、何の根拠でその様な事を言われるのかは知りませんが、それは大変な間違いです。

 この領域の仕組みを知らない方です。

 その危険性について、例をあげて書いてみたいと思います。

 もう大分年月が経ちましたので書いてみる気になりました。

 
 遠方から電話が有りました。

 この方は弱者を救いたいと言われます。

 その為には○○に受かり、○○○○の身分になりたい。

 結婚もしたい。

 お金も欲しいと言われます。

 そして○○に受かるように祈祷をお願いしたいと言われます。

 しかし、今は全くお金が無いと言われます。

 無料で祈祷をして欲しいと言われます。

 弱者を助けたいという志は立派ですが、此方としては本業を3日休む事になりますし、その上2人分の往復の高速代、ガソリン代、諸々の費用等で約8万円位かかりますので、かなり厳しい条件です。

 私の場合、正規の祈祷料を頂いても、美容の仕事が暇になったとはいえ、やはり本業の方がはるかに上ですし、気楽に出来る仕事です。

 2〜3日本業を休んで祈祷に出れば、その後相当厳しい現実が待っています。

 長年の常連客は離れて行くし、来店しようと電話しても通じないので、「あんた、どっちが本職や」、と後で怒られる始末です。

 此方の巳神様にも、今回の祈祷依頼の是非を聞いてみましたが、反応が有りません。

 私達が祈祷を行えば、○○に受かる事になるのかと尋ねても、反応は有りません。

 しかし、巳神様の顔は厳しくは感じません。

 今なら、この様な話は全く受けないのですが、当時はやはり経験不足だったのでしょう。

 一応はお断りしました。

 その内に、片道の交通費だけは負担しますと言われます。

 何度もお断りしましたが、何回も連絡をされて来られます。

 ついに交通費の四分の三を負担しますと言われます。

 志は立派ですが・・・・・・・・。

 妻に相談すると、「どっちでも良い」、と言います。

 妻も人が良いのでしょう。

 まあ、祈祷をして○○に受かれば、それも人助けになるだろうと思い、此方としては相当な持ち出しになりますが、祈祷をする事にしました。

 祈祷の前日の夕方から車を走らせ、現地に着いたのが朝の9時です。(以前は、この様な強行軍をよく行っていました)

 それから準備をして、本格的に祈祷に入るのが9時30分位の時間になります。

 先ずこの家の御先祖様に挨拶をするのですが、これがどうした事か、此方の巳神様も出て来ないし、この家の御先祖様も出て来ません。

 今ならこの時点で、何が原因か、察しがつくのですが、やはり経験不足は否めません。

 ○○祈願の釜を焚くのですが・・・・・、此方の巳神様のお姿は出ているのですが・・・・、何か空しいものを感じます。

 釜は鳴るのですが・・・・、一応音は出るのですが・・・・、何か違います。

 4時間位かかり、一応頭に描いていた段取りも一通りこなしましたが・・・・・。

 祈祷が終り、直に10時間以上をかけての帰路に着きました。

 途中妻が言います、「あの家、お金が無いというのは嘘やわ」、「何時もの地神さんの感じとは、全く違う」、と言います。

 私、「そうしたら、騙されて祈祷をしたんか」。

 私、「志が立派やったから、力になれたらと思ってこんな遠い所まで来たんやけどなー」、「あんまり地神さんに行きたいと頼んだから、全てを分かっていた上で、行かせてくれたんやろ」、「それにしても、しっくり来ない祈祷やったなー」、と話しながら帰って来ました。

 祈祷をして感じるものは、○○に受かるには程遠いものを感じました。

 1ヵ月近く経ってメールがあり、○○には受からなかったと言われます。

 当然かなと思い、此方から連絡はしませんでした。

 そしてその1ヵ月位後にメールが有り、両親が交通事故で即死されたと連絡がありました。

 此方の落ち度は全く無く、100%、相手に非があると言われます。

 私は瞬時に思いました。

 「やったな」、「これや、これをやるんや」、「だから神と縁を持つ時は、嘘をついたらあかんのや」、と。

 ○○には受からなかったが、これで大金が入ります。

 大金が入ると、それに似合う女が入ります。

 やがてこの家に嫁が来ます。

 お金は入りましたが、最愛の両親を代償として取っていきました。

 どの段階の眷属神の判断かは分かりませんが、神は純粋になる程、その作用が強く働く様に思います。

 打算などありません。(余分ですが、打算があるのは、邪神です)

 この様な事が有ってからは、此方の巳神様が、「何も貰うな、行って釜を焚け」、と言う以外は、無料で祈祷を行う事は殆んどありません。

 自慢でも無く、只の勘違いなのですが、それ以前は私も若かったのでしょう、巳神様が怒りに口を開けて、「行くな」と私を威嚇する様な時でも、行かせてもらって、釜焚いて助ける事が出来たらと思い、私の判断だけで、何も貰わずに祈祷を行っていました。

 今から思えば、巳神様が止めるのも聞かず、私の判断だけで行った祈祷の結果は、余り効果は有りませんでした。

 当たり前です。

 神様は動いていませんので、当然の結果です。

 この場合、贖の法則は動いていません。
 
 祈祷を依頼した方には、何ら代償の法則は動きません。

 尚、私が行っている電話やメールでの相談もこの法則は動きますが、そんなに強く作用はしませんので、無料で行っています。

 まだまだ沢山の例を経験していますが、贖いについて、その必要性が一番顕著に示されたものを書いてみました。






 

 

 
 
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「某月、某日、(651)」
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