
「幸せ」を3つ定義します。
(1)他から必要とされる
(2)理想に近づいていると実感する(自己満足を含む)
(3)汚れを落とす
「幸せ」について考えるのは、実は不幸な時です。特に、家庭で幸せを築くのは難しい…。「幸せの定義なんか考えたことがない」というのが究極の幸せなのでしょう。
私は高校時代にもひねくれていて、不登校寸前の最悪の時間を過ごしました。その時に、ダンボール1箱分の日記をつけた末にたどりついた幸せの定義が、「他から必要とされる」と「理想に近づいていると実感する」でした。
そして、近年、山登りの後の風呂の気持ち良さから「汚れを落とす」が見つかりました。
バナナやハンバーガーは、昔は滅多に食べられないあこがれの食べ物でしたが、今では「安物」扱いです。初代クラウンなどの昔の高級車は、今の軽自動車よりもはるかに素朴です。そもそも、人類が飢餓の心配をしなくて済むようになったのは、ごく最近のことです。それでもみんな満足しない。人の欲望は果てしなく、特に物欲はきりがありません。
高級車、豪華客船、月旅行などが現在人のあこがれとされていますが、1人で独占して乗っていても、一瞬で飽きてしまうでしょう。他人に自慢することによる快楽は、いずれは虚しくなります。
人の存在価値は、他から必要とされるところにあります。相手が人でなくても、ペットでも植物でもかまいません。人間は社会的な生き物なので、辛いのはむしろ、暇や孤独です。
そんな中で、間違いない幸せは「人を育てる」ことでしょう。お金はあるに越したことはありませんが、なくても大丈夫。必要なのは技・術・力です。
一方、各個人で考えると、「理想に近づいていると実感する」のはうれしい。
しかし、理想に近づきつつある過程が良いのであって、理想を達成してしまった瞬間に、その幸せは消え去ります。次の理想が必要になります。向上心を自然に備えることによって、人間は進化してきたのでしょう。
おしろてつおおしろてつお