「政治哲学」という言葉の理解の仕方は多様です。政治に関する自分の好き嫌いや思い込みにすぎないものを「これが自分の政治哲学だ」と主張する場合は、明らかに誤用でしょうが、これを別とすれば、多様な理解のうちのどれが絶対正しいかは断言できないでしょう。しかし、そうであればこそ、自分がどんな意味で使っているのかを、明確に自覚しておく必要はあると思います。
「政治哲学」という言葉は、ふつうは、何か望ましい政治のあり方についての体系的・理論的な探究やその成果という意味で使われているように思われます。これはもちろん誤用ではないでしょうが、しかし、当研究室では「哲学」という言葉にさらにこだわって「政治哲学」の意味を捉えたいと思います。つまり、(かつてソクラテスがしたように)自明に思えることを深く問い直す営みとして「哲学」をとらえ、政治ばかりでなく、政治哲学の一般的な見方までもあえて問い直すことを、政治哲学の課題と考えたいのです。日常的に当たり前に思えていることを異化する視点から、つまり、見慣れないものを見るような視点から(ただし、知的ゲームとしてではなく切迫した必要のあるものとして)の問いかけです。
この作業を説得効果などの政治的思惑で妥協させる(あることを自明の真理ではないと指摘したら、反対勢力が喜ぶからやめておこう、といった配慮をする)ことなく徹底するために、私自身としてどのような政治的な意見や立場を持つにしても、それをこの反省的作業に介入させないよう、極力注意しようと思います。もちろん限度はあります。この営みは、全体主義のように、あるいは、極端な相対主義のように、政治を反省的に考えること自体を(さらには政治そのものを)排除したり無意味にしたりしてしまう立場とは両立不可能です。そういう立場は断固として拒否するという、最低限の政治的思想的コミットメントは避けられません。しかし、実のところ、これは特に大げさなものではなく、今日流に言えば、自由と民主主義と寛容を支持する、ごく常識的な市民の基本姿勢を超えるものではありません。しかし、この枠内にこそ、政治に関する哲学的な反省の可能性と価値があります。この枠内にとどまることと両立する限りで、勇気をもって遠慮なく何でも反省の対象にする、というのが当研究室の基本姿勢です。