権力の腐敗について
権力の腐敗について

 「権力の腐敗」は、言うまでもなく政治的・道徳的に非常に重要なテーマである。実際それは、西洋の伝統的な政治思想(プラトンやアリストテレスの時代から20世紀初めまでのあいだの政治思想)では、国家や政治体制の変質や変動が扱われるときに、しばしば登場するテーマだった。
 「権力の腐敗」にかんする考察のこうした長い伝統がある中で、名言とみなされ今日でも頻繁に引用されている言葉が、19世紀後半のイギリスに登場した。権力には腐敗の傾向があり、絶対的権力はまちがいなく腐敗する、というアクトン卿(1834-1902年)の言葉である。前後を含めて示すことにしよう。(〔 〕内は関口による補足。なお、このエッセイ集では、「腐敗」と「堕落」は同じ意味の言葉として区別せずに用いている。
あなたは、教皇や国王は他の人々とは違った仕方で評価すべきだということを原則にし、彼らは悪いことはしていなかったとひいき目の推定をしていますが、私はそうした原則を受け入れることができません。権力保持者についての何がしかの推定があるとすれば、それは逆方向の〔悪いことをしたという〕推定でしょう。権力が増えればますますそうなっていきます 。法的な責任が負わされなかったことに対しては、歴史〔叙述〕の中で責任を負わせて補なわなければなりません。権力は腐敗しがちであり、絶対的な権力はまちがいなく腐敗します(Power tends to corrupt, and absolute power corrupts absolutely)。高位にある人はいつでも悪しき人です。影響力を行使するだけで権力は使っていない場合でもそうです。権力によって腐敗の傾向がいっそう強くなったり腐敗が確実になったりする場合は、なおさらそうです。公的な地位が権力の保持者を正当化するという邪説にまさるような邪説はありません。
Lord Acton, Published in Historical Essays and Studies, edited by J. N. Figgis and R. V. Laurence (London: Macmillan, 1907), p.504. 
ただし、このフィッギス版は書簡の一部を抜粋して収録したもので、日付が示されていない。他方、以下にURLを示したリバティ・ファンド版の方は、書簡の全体を収録していて、日付が1887年4月5日であることも明記されている。さらに、相手方からの返信も収められている。学術的資料としては、現在ではこちらを利用する方が望ましいように思う。
リバティ・ファンド版 https://oll.libertyfund.org/titles/acton-acton-creighton-correspondence" , generated September, 2011, p.9)

この言葉が世の中に広まったのは、フィッギス版が出てからのことだろう。ちなみに、フィッギス版に収録されている書簡の一部分と編者解題からでも、書簡が誰に宛てて書かれ、どんな文脈でこの言葉が述べられていたのかは確認可能である。しかし、この点は世間一般では注目されず、言葉だけが名言として広まっていったように思われる。
 書簡は、アクトンが、イギリス国教会の聖職者で歴史学者のクレイトン(Mandell Creighton,1843-1901)という人物に宛てたものだった。通常の道徳的判断基準を公職者にそのまま適用すべきでない、という歴史叙述の方針をとっていたクレイトンに対して、アクトンはこの書簡で異議を唱えた。自身カトリック教徒であるとともに歴史学者でもあったアクトンは、歴史的事実の問題として、過去に行なわれた異端審問には教皇にも責任があったと考えていた。その見地から、歴史叙述における人物評価は、事実に即した公平なものでなければならないとして、アクトンはクレイトンを批判したのである。名言となった言葉は、この文脈で書かれたものだった。
 こういう文脈での言葉ではあるが、論点を凝縮し簡潔に示していて、たしかに文脈にこだわることなく引用したくなる名言である。しかし、きちんと吟味しないと見えにくいところもある。吟味しても名言としての価値が下がる心配はない。それどころか、いっそう高まるだろう。また、教訓として実践的な取り組みに活かそうというのであれば、吟味は必須だと思う。この観点から、以下では二つの点を取り上げ、それぞれに補足的な説明を加えることにしたい。

 第一に、「絶対的」という表現である。absolute power と対になる形で corrupts absolutely とくり返されているために、「絶対的権力は絶対的に腐敗する」と訳されることが多いが、「絶対的に腐敗する」というのは、実のところ、わかったようなわからないような表現である。だから、それが何を意味するのかを詰めておく必要がある。absolutely は「とことん、全面的、徹底的」という腐敗の程度を表わす副詞に受け取れそうであるし、そう受け取っている人もいるように思われる。たしかに、意味は通っているし、有意義な教訓としても成り立つだろう。しかし、そうだとしても、アクトン本人の議論に目を向けてみると、むしろ、「まちがいなく、いつでもどこでも例外なく確実に」という意味として捉えた方が文脈に合っている。アクトンは絶大な権力を持っていた教皇には異端審問という悪事への責任があり、教皇だからといって例外扱いはできないと主張する文脈でこの言葉を述べていたから、筋が通るのはこちらの捉え方だろう。また、この言葉の後に論点を念押しするようにして、「権力によって腐敗の傾向がいっそう強くなったり腐敗が確実になったりする場合」と述べられていることにも留意する必要がある。
 第二の点は、アクトンの言葉の全体をまるごと捉える必要性である。アクトンは、腐敗する確率という観点から、100パーセントまでにはならない場合と100パーセントの場合の二つを続けて示している。アクトンの言葉が引用されるときには、多くの場合、後半部分の指摘に焦点が合わされ、絶対化した権力の恐るべき腐敗を強調した警告として扱われているように思われる。そういう扱いが、「絶対的に腐敗する」という訳し方とつながっているのかもしれない。しかし、実のところ、この名言の前半部分も等しく重要なのである。適用範囲の広さを考えると、いっそう重要ですらある。なぜなら、権力が存在するところでは腐敗の傾向は普遍的に存在する、という診断になっているからである。腐敗そのものはつねに生じているわけではないが、腐敗の傾向はつねに存在していて、権力がいっそう強大になり絶対化の方向に進めば進むほど、実際に腐敗する確率が高まり、最後には100パーセントになると考えられているのである。
 実際、自由の尊重を標榜している政治体制の下でも、つまり、権力の抑制や均衡が制度化され、権力者も含めた国民すべてを対象とした法の支配を原則としている先進諸国の政治体制の下でも(したがって、これらの工夫を取り入れている日本国憲法という国制の下でも)、絶えず権力を監視し牽制することが必要になっている。これは、自由を本気で重視しているすべての人間(私も含めて)に共通する信条である。100年以上前のアクトンの言葉は、絶対的権力の普遍的な腐敗とともに、それ以外の権力全般の腐敗傾向も見すえている。どんな権力にも腐敗の傾向があるという見方にも、時代や場所を超えた通用性があることを私たちがしみじみ実感すれば、この名言の価値はいっそう高まることになるはずである。

 最後に、アクトンに即したアクトンの言葉の説明というよりも、私自身の見方にもとづく補足を加えておく。アクトンは権力の腐敗と権力者の悪事を同一視しているが、同一視している理由は述べていない。自明だと考えていたからだろう。私が補足したいのは、この同一視の理由である。その理由は権力の捉え方にある、というのが私の考えである。
 権力の腐敗と権力者の悪事との同一視を可能にしているのは、権力はそれ自体として存在する物体のようなものではない、という権力観である。権力は実体概念ではなく、人間関係の特定のあり方を示す関係概念である。腐敗した権力という表現は、堕落した人間による権力行使のいわば擬人的な表現である。そのことを理解し踏まえた上でなら、「権力は腐敗する」という言い方でもよいだろう。私自身もしばしばそういう言い方をする。必要がない場合にまで、回りくどい表現をしなくてもよいだろう。しかし、必要な場合は別である。権力の腐敗を防ぐためにどうすべきかという実践的課題に取り組むときには、厳密な見方や言い方が必要になる。なぜなら、「権力は腐敗する」という言い方に引きづられて実体的なものとして権力を捉えていると、答が不十分なものになったり的外れになったりするからである。たしかに、実体的な見方をしていても、権力への制限を制度的に強化するといった対応を考えることはできる。しかし、第二の点にかんする説明のところですでに指摘したように、立憲主義的制約を取り入れた政治体制でも権力の濫用は生じる。濫用の主体は、権力制限の仕組みを無視するようになった権力者である。実践的な取り組みには、こういう人間の堕落に照準を合わせることが必要なのである。