自由と権威
自由と権威

 「権威と自由」というタイトルでもよかったのですが、自由を権威よりも前に置いて「自由と権威」としたのは、私自身の傾きを率直に認めた方がよいと思ったためです。私の気持ちは、最初に政治に関心を持ち始めたときも、また、それらからしばらくのちに、政治について理論的な関心を持つようになったときも、権威より自由に傾いていました。今の私は、これから明らかにするように、どちらが上位にあるべきかという見方を理論的には退けていますが、やはり、自分の理論的関心の根底には、当初からの情緒的傾きが残っているように思います。今でもこの傾きがなければ、私の理論的探究の意欲は大きく減退してしまうでしょう。もちろん、公共的(public)な議論として政治や社会について書くときには、大義名分の陰に隠れて個人的な好き嫌いを他者に押しつけるようなことはすべきではない、と私は確信しています。さまざまな読み手(the reading public)を意識した議論をするために、自分の傾きに振り回されないように心がける必要があります。とはいえ、あたかも偏りが皆無の中立的議論であるかのように見せかけるために自分の傾きを隠す、というのもよくないように思うのです。
 しかし、私自身のこういう傾きを認めた上で、ここで明らかにしたいのは、自由と権威のどちらが上位にあるべきかという問題設定の仕方をやめる必要がある、ということです。対立しているように見える二つのもののどちらか一方を上位に置こうとする問題設定の仕方を、二項対立的な発想と呼んでおきましょう。自由と権威に関してこの発想をやめるべきなのは、この発想では自由と権威のそれぞれの特質を見誤るからであり、具体的文脈の中で自由と権威の対立を解決ないし緩和するという実践的問題を考える際にも、有用と言うよりも有害だからです。
 もちろん、複雑で混沌としているものごとを、対照的な二つの極を設定することで整理しすっきり見えるようにすることは、おそらく人間の認知機能に欠かせない働きであり、それ自体として有害なわけではありません。砂の山と砂粒のたとえをあげてみましょう。砂の山からいったいどれだけ砂粒を取り去ると、砂の山でなくなり砂粒の集まりと言えるのか、客観的で数値的な判断基準はありえません。しかし、そういう基準がないからといって、砂の山と砂粒との区別は主観的恣意的で存在意味がないという主張は、非常識な屁理屈でしかありません。ボーダーライン上で判断がむずかしくなったりできなくなったりするとしても、ある程度どちらかの極に近い状態を認知し表現するために、砂の山という言葉も砂粒という言葉も有用で欠かせません。
 とはいえ、二つの極を設定した議論を進めるうちに、混乱の泥沼にはまり込んでしまう場合もあります。つまり、極とみなされているものが、実際にはどちらも必要不可欠であるために、一方の極を肯定し他方の極を否定するということでは済まない場合です。自動車のアクセルとブレーキの操作にたとえてみましょう。運転に必要なのは、状況に応じて速度調整をすることですから、アクセルとブレーキのどちらを一般的に優先させるべきか、というのは意味のない問題設定です。適切な解は、個別の状況次第でどちらかをある程度まで踏み込みなさい、ということになります。アクセルとブレーキのどちらを踏むべきかは、運転技術上の普遍的問題ですけれども、どちらをどの程度踏むべきかについての解答は個別の場合ごとに異なざるをえません。どんな場合にも正解、という普遍的解答はありえないのです。二項対立的なものの見方は、こういう場合に、どちらの項を優先的にすべきかを普遍的な解答として出してしまう危険をはらんでいます。
 さて、本題の自由と権威という問題に戻って、自由と権威との対立は、どのような形で生じているかを考えてみましょう。自由をすべて否定する超権威主義と、権威をすべて否定する超自由主義との対立、というのは現実にはめったにないでしょう。あったとしても、抽象的で非現実的な立場どうしの対立でしかありません。たいていは、自由を認めるべき領域と干渉を認めるべき領域との境界線をめぐる対立です。もちろん、境界線をどこに引くかは、自由を重視するか権威を重視するかで大きく異なってきます。しかし、境界線をどこかに引く必要を認めているということは、対立相手の持ち分となる領域をすべては否定していない、ということに他なりません。
 まず、権威を重視する立場に注目してみましょう。たんに自分の権威や権力を維持したいという私的欲望は、現実にはありがちかもしれませんが、公共的な理由にならないので論外です。人々の行為を権力行使によって規制する最大の公的理由は、人々の反社会的な行動を押さえ公共の秩序を保つ必要性でしょう。つまり、社会に危害や脅威をおよぼす動きに対して、さまざまな対策を講じ最終的には実力行使で対抗する必要性です。しかし、実効性をそなえた権力の基盤を整えるためには、安定や秩序を求めている人々の支持が必要であり、その支持を持続的に強化するためには、力で人々を威嚇するのではなく、人々が政府を自分たちのものだ、自分たちの味方だ、と思えるような配慮が必要になります。たとえば、大規模な対外戦争を遂行するために国民に参政権を付与する、といったことです。これは、20世紀の二度にわたる世界大戦のときに見られた事実でした。人々が実感できる形での公共的必要性という正当化をなおざりにしたまま、政府権力の威信を確保するためだけに、不必要な干渉を個人の生活に向けて行ない人々の反発を買っているようでは、長期的な支持の確保はむずかしいでしょう。たとえ一党独裁の政府でも、国民に経済活動の自由をある程度認めなければ、政権の成果として誇示できるような経済発展も期待できないでしょう。
 自由を重視する立場の場合はどうでしょう。欲望を見境なく満たす自由は、誰でも心のどこか片隅で望んでいるかもしれませんが、それでは社会生活が成り立ちません。どこかに自由を制約するラインを引く、という問題は避けられません。例としてミルの自由原理を取り上げてみましょう。自由と干渉の境界線が恣意的に引かれるのを防止する原理として、これ以上に明確で強力なものを考えることはむずかしいように思われます。この原理は、他者に危害を与えない行為は無条件的に自由であるべきだとしており、その面に注目すれば、たしかに、自由原理と呼ぶことができます。とはいえ、この原理は、あくまでも自由と干渉の境界線を定めるための原理であり、干渉を全面否定するための原理ではありません。他者に危害を加える行為が干渉の対象となることを認めている面もあるわけですから、干渉の正当化原理でもあります。これら二つの面を合わせて全体として見れば、各人の自由や権利は保護されるべきであり、その保護のためには、他者に危害を与える行為の自由は認めない、ということになります。自由を保護するためには、法的強制や社会的非難(世論)による圧力も容認されます。さらに、ミルの自由原理には、自由の個人的価値を強調する議論と自由の社会的価値を強調する議論とが密接に結びつく形で、自由原理を支えています。自由の持つ価値は社会の画一化にともない徐々に見失われてしまいます。画一化に抵抗する少数者は、もちろん、自由を自分の幸福の不可欠の要素と感じています。それと同時に、こういう少数者は、社会的な観点から見ると、自由の持つ価値を人々に気づかせる役割を果たしています。多くの人々は、自分ではそこまで大胆になれないとしても、この役割を果たしている少数者に共鳴したり敬意を持ったりするのであれば、つまり、そのような形で少数者の権威が多数の人々に作用していれば、社会全体の自由や活力を維持し増進することに役立つ、とミルは考えているわけです。
 権威を擁護する議論にしても、自由を擁護する議論にしても、今ここで示した以外にもさまざまなものがあるでしょうし、ありえるでしょう。どの議論が適切なのか、どの議論を社会の大方の人々が実際に支持するかは、それぞれの社会や文化によって異なってきます。私は相対主義を提唱しているわけではありません。むしろ、私がここで強調したいのは、結論は多様であっても、また、自由の程度や範囲を左右するさまざまな社会的条件があるとしても、一定の結論に到達するまでの過程の中に自由と権威に関する何らかの比較考量が一般的要件となる、ということです。つまり、自由と権威は、いずれも何らかの点で、また、何らかの程度で、相補的な性格を持っているのであり、このことは、どういう立場であっても認めざるをえない普遍的な事実だ、ということです。
 二項対立的な見方への固執は、自由と権威のこのような相補性を見落とすことにつながりやすいと思います。言いかえれば、党派的思考に陥る危険がある、ということです。この危険は、完全に取り除くことはできないとしても、少なくとも軽減可能です。自由のためにはどんな権威が必要なのかという点に注意を払う一方で、秩序と安定を維持するために自由に対して権威の側でどんな配慮が必要なのかに目配りをすれば、見解対立は対話可能なレベルにまで穏健化するでしょう。私としては、そういう穏健化を最優先の使命とするような政治哲学のあり方に肩入れしたいと思います。