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『ゼロからの『資本論』』を読んで | |||||
斎藤幸平 著 <NHK出版新書> | |||||
年末に観た映画『ふるさと物語』の日誌に「二ヶ月前の松元ヒロのスタンダップコメディの公演で言及されていて興味を覚えた斎藤幸平の『ゼロからの『資本論』』(NHK出版新書)の用意が出来たという連絡を受けて県立図書館から借りてきたばかりで読み始めた最初のほうに、<コモン>すなわち共有財産を「エンクロージャー(囲い込み)」することによって商品化し、市場を形成して資本家を潤す活動が企業活動であり、資本主義に固有の収奪行為だとマルクスが指摘していると述べているくだり(P30~P33)があって、なるほど、本作は反共映画として制作された作品だったのかと、'50年代に吹き荒れたマッカーシズムを想起して、得心がいった。半世紀近く前の受験生時分に世界史の教科書で産業革命に関連して「エンクロージャー(囲い込み)」という言葉を記憶した覚えがあるが、『資本論』からの用語だとはこの歳に至るまで思ってもいなかった。」と記した新書を読み終えた。 第3章「イノベーションが「クソどうでもいい仕事」を生む」に「私はコロナ禍で、ウーバーイーツのアルバイトを体験してみたことがあります」(P120)と記している三十路半ばの学者が「無益で高給なブルシット・ジョブ【広告業やコンサルタント業を中心に、近年急速に増えていると文化人類学者デヴィッド・グレーバーが指摘している“そもそも社会的にさほど重要とは思われない仕事、やっている本人でさえ意味がないと感じている高給取りの仕事”】(P121)がはびこる一方で、社会にとって大切なエッセンシャル・ワーカーが劣悪な労働条件を強いられている。これが、資本主義が爛熟した現代社会の実態です」(P122)というなかで観て取っている、社会構造に係る分析及び今後への展望が、かねてより自分の観ているところと非常によく重なり、それが未読の『資本論』のなかで述べられていることなのかどうかによらず、大いなる共感を以て読んだ。若かりし頃に読んだ『岩波新書 人間―過去・現在・未来 上(全2冊)』(ルイス・マンフォード 著)や『オリーブの森で語り合う ファンタジー・文化・政治』(ミヒャエル・エンデ、エアハルト・エプラー、ハンネ・テヒル)を読んだとき以来のような気さえする読後感を味わった。 備忘録として抜き書きしておこうと思う箇所が多すぎて収拾がつかなくなった本書の構成は、第1章 「商品」に振り回される私たち、第2章 なぜ過労死はなくならないのか、第3章 前掲、第4章 緑の資本主義というおとぎ話、第5章 グッバイ・レーニン!、第6章 コミュニズムが不可能だなんて誰が言った?となっている。 そもそも「富とは何か」との小見出しで説き始めた第1章において「巷には魅力的な商品があふれています。お金を出せば、いつでも何でも手に入るようになったことで、私たちの暮らしは「豊かになった」ようにも見えます。しかし、まさに商品化によって社会の富の潤沢さが失われ、むしろ「貧しくなっている」ことを、マルクスは一貫して問題視しています」(P28)と述べている個所で想起したのが“金融商品”なる言葉だった。商品化の権化とも言うべきもので、僕が若い時分には一般には流通していなかった言葉だ。悪しき商品化としての象徴がまだ「性の商品化」だった時代の話だ。四半世紀前に観た『PERFECT BLUE』の映画日誌に僕が“経済価値の優先に伴う人間の商品化”と記した次元など疾うに超えて、実体なきものさえ商品として販売するようになっている。 この「富とは何か」については、第6章で著者が引いているウィリアム・モリスの定義「富とは、自然が私たちに与えてくれるものであり、道理をわきまえた人間が、道理にかなった用途のために、自然の恵みのなかから作り出すものだ。日光、新鮮な空気、損なわれていない地面、食糧、必要で見苦しくない衣服と住居、あらゆる種類の知識の蓄積、そしてそれを広める力、人間同士が自由なコミュニケーションを取るための手段、芸術作品、人が最も人間らしく、向上心に漏れ、思慮深いときに創造する美、つまり、自由で人間的で堕落していない人間の楽しみ、そのために役立つすべてのもの。それが富である。(「意味のある労働と無意味な労苦」、『素朴で平等な社会のために』所収、150頁、城下真知子訳)」(P217~P219)が非常に納得感があった。 そして『ふるさと物語』の映画日誌で言及した「エンクロージャー(囲い込み)」について、現代における「<コモン>の囲い込み」こそが民活という名の元の“行政のアウトソーシング”であり、警察権力と国家主義の強化に連動していることなどを想起していたら、まさしく「「民営化」という名の囲い込み」との小見出しの元、言及されていた(P46~P48)。「人工的に「希少性」を生み出し、人々の暮らしを貧しくするシステム」(P31)たる資本主義が、何ゆえそのような不合理なことをするのかについても、「資本主義社会では「人間の欲求を満たす」ということよりも「資本を増やす」こと自体が目的になっているから」(P37)と明快に示していた。資本論を読む際の注意事項として、「「価値」と「使用価値」も、言葉が似ているので混乱しそうです」(P40)と書いていた「価値」は「流通価値」なり「交換価値」とすれば、「使用価値」との混乱を招かずに済むような気がした。ともあれ、使用価値としては必要のないものまで流通価値をでっちあげる商品化によって資本の増大を図るために資源を浪費し、富を損ない偏在させるのが資本主義というものだということなのだろう。確かに今のグローバル資本主義の有様を観れば、そのとおりだと僕も思う。 第2章で特に目を惹いたのは、「相反する2つの動き」という小見出しの元にあった「コロナ禍でテレワークが増え、リモート会議が行われ、リゾート地でのワーケーションも可能になりました。 しかし、こうした働き方のせいで仕事とプライベートな時間の境界が曖昧になり、実質的に労働時間が延長されているという現実もあります。電話がかかってくれば家族と食事中でも仕事の話ができてしまう。夜中に目が覚めれば、枕元のスマホで海外からの業務メールにすぐ返信することもできます。在宅勤務になると、通勤時間がなくなるので電車の始発や終電時間に関係なく、本当に24時間働けてしまうのです。 それだけではありません。私たちがグーグルやフェイスブックを使うと、そのデータは彼らに価値をもたらす「商品」となります。彼らは集めたデータを企業に売ったり、広告を出稿してもらったりして儲けているのです。…IT界の巨人たちはますます資産を蓄積していく。便利な世の中になったと喜んでいたら、実は、私たちの生活全体が資本によって包摂されていた――これが、「デジタル・プロレタリアート」、現代のスマホ中毒者の成れの果てというわけです」(P85~P87)との一節。僕自身はスマホこそ拒んでいるものの、ネット検索やSNSは毎日欠かすことなく利用しているわけで、紛れもないデジタル・プロレタリアートというわけだ。 第3章で特に目に留まったのは、章末の給食センターにまつわる記述だった。「アメリカが自国で余っている小麦や脱脂粉乳の販路として、占領下にあった日本の給食に目をつけ…給食でパンを食べさせ、子どもたちの味覚を変え…戦後米の消費量は減り続け、私たちはパンやパスタを好んで食べるようになって」きたなか、「資本による食の包摂によって、給食の現場で構想と実行の分離が進」み、「数十校分の給食をまとめて作る「給食センター」が設置されました。…効率を優先したセンター方式は、各校の給食室から構想を奪い、料理をするという実行も剥奪して、運ばれた給食を配るという単純作業に閉じ込めました。その結果、味や安全という使用価値も劣化していったのです。 けれども、センター化の流れに抵抗し、自校方式で子どもたちの食と、食を通じた自治を守ってきた事例もあります。自校方式を採った学校では、給食の栄養管理を行う職員を独自に配置。栄養価や味を大切にするだけでなく、郷土料理などを採り入れながらメニューを多様にしたり、地元の有機農家と連携して地産地消の豊かな給食作りを目指すなど、食育や地域振興にも配慮したケースもあります。…機械化され、マニュアル化された資本主義的生産方式のセンター給食によって失われたものの大きさと、自校方式が実現した食の豊かさのコントラストは、私たちが将来社会のために選択すべき道を示しています。…そのためには、資本の専制と労働の疎外を乗り越え、労働の自律性と豊かさを取り戻す「労働の民主制」を広げていく必要があるのです」(P125~P128)と記されていた。 第4章では、「「複雑さ」の破壊」との小見出しの元に記されていた「コスパにうるさい私たちは、ステーキ肉やパソコンの値札は必死に見ていますが、暮らしを彩る様々なモノの“本当のコスト”を見ていません。どうやってその牛肉が作られたか、その過程でどれくらいの温室効果ガスが排出されたか、なんて関心をもたないわけです。 まさにそのような単純化こそが、加速的な資本蓄積の前提にさえなっています。…資本主義のもとでは、地球環境を破壊することなしに、もはや生産力をこれ以上発展させることができません。私的所有と利潤追求のもとで掠奪を繰り返すシステムでは、誰のものでもない地球環境を、持続可能な形で管理できなくなっているのです。これが、資本主義が更なる社会の発展にとっての「桎梏」となっている状態です。 それゆえ、人間と自然の物質代謝のあいだの「修復不可能な亀裂」が文明を破壊してしまう前に、革命的変化を起こして、別の社会システムに移行しなければいけない、と、マルクスは考えたわけです」(P139~P140)という箇所だった。 第5章は、「ソ連とコミュニズムは別物」との項があるように、「マルクスの考えていた「コミュニズム」とソ連は違う」(P158)ということを述べた章だったが、これについては、三十年余り前にソ連邦崩壊について求められて寄稿した記事に「ソヴィエトの解体で共産主義は死んだとか、マルキシズムが否定されたとか、自由主義の勝利だとか宣伝されると、何か胡散臭いものを感じないではいられない。ソ連の解体の過程は「上部構造(政治)を規定するものは下部構造(経済)である。」というマルクスの史観の見事な例証ではあっても、彼の歴史観の本質的誤謬を証明するものではないという気がする。確かに共産主義を目指すという建前でとられた社会主義体制の矛盾と欺瞞は見事に露呈し、否定されたと言えるかもしれない。しかし、それすらも、体制としての社会主義が理念としての社会主義を何ら実現できていなかったことの証明になっているのに過ぎない。」と書き起こしていた我が意を得たりと思えるものだった。そして、「保守化とコスパ思考」との小見出しの元、最早ブームとは言えないほどに浸透した感のある小口投資に関連して述べられていた「投資活動を通じて、自らも資本家としての考えを内面化し、振舞うようになるのです――現実には、自分はただの労働者である、ということを忘れて。経済学者の西部忠は、それを「自由投資主義」と呼び、警鐘を鳴らしています。 自由投資社会では、私たちは、すべての行為や選択を「投資」とみなすようになっています。そのような社会の帰結は、究極のコスパ社会です。結婚のコスパ? 子育てのコスパ? 文化のコスパ? 民主主義のコスパ? 当然、人生におけるほとんどの行為は資産形成にはつながりません。それゆえ、コスパ思考を徹底させていけば、コミュニケーション、文化、政治参加、世の中の多くの活動は無駄なものとみなされるようになり、コミュニティや相互扶助は衰退し、社会の富はどんどん痩せ細っていきます。 人生のコスパを突き詰めれば、「いきなり棺桶にはいるのが一番いい」と養老孟司は皮肉っていますが、究極的には、生きる意味などなくなってしまうのです。資本主義による「魂の包摂」ここに極まれり、というわけです」(P155~P156)との一節が目に留まるとともに、十四年前に地元紙に寄稿した「必要な不便・非効率」のことを想起した。 第6章で最も目を惹いたのは「平等」の定義で、「原古的な共同体における「平等」」の項に記されていた「権力による支配関係が不在の状態、それが、平等だということ」(P191)だった。権力が個々に対して保障する扱いのことではなく、権力関係のない状態を以て平等ということなら、「平等に扱う」などという言葉は、前提からして誤っているというわけだ。そして、「要するに、マルクスが思い描いていた将来社会は、「コモンの再生」にほかなりません。コモン(common)に基づいた社会こそが、コミュニズム(communism)です。わかりやすく言えば、社会の「富」が「商品」として現れないように、みんなでシェアして、自治管理していく、平等で持続可能な定常型経済社会を晩年のマルクスは構想していたのです。…コミュニズムは贈与の世界と言ってもいいでしょう。等価交換を求めない「贈与」、つまり、自分の能力や時間を活かして、コミュニティに貢献し、互いに支え合う社会です。もちろん、「贈与」といっても差し出してばかりではなく、逆に自分が必要なものは、どんどん受け取ればいい。そうやって、生活に必要な食料や土地、道具、さらには知識などの富が持つ豊かさを、分かち合いの実践を通じて、シェアしていこうということです。」(P199~P200)と述べ、「労働者協同組合のポテンシャル」の項で、2022年に日本でも施行された「労働者協同組合法」の理念の説明として「協同組合においては、構成員の労働者たちは、自分たちで出資し、共同経営者となります。そうすることで、労働者は自分たちで能動的に、民主的な仕方で、生産に関する意思決定を目指します。資本家たちに雇われて給料をもらうという賃労働のあり方が終わりを告げ、自分たちで主体的、かつ民主的に会社を経営するようになるわけです」(P209)と記して、「脱商品化を進めて<コモン>を増やし、労働者協同組合や労働組合によって私的労働を制限していく。そして、無限の経済成長を優先する社会から、人々のニーズを満たすための、使用価値を重視する社会へと転換する」(P211)ことによる「「協同的な富」の豊かさを実現するアソシエーション【自発的な結社(P171)】型社会」(P219)を推奨するとともに、「各地で動き始めた「アソシエーション」」との小見出しで、「今、世界的に大きな注目を集めているのが、スペイン第二の都市バルセロナの呼び掛けで始まった「ミュニシパリズム(地域自治主義)」の国際的ネットワーク」(P221)として、アムステルダム市やドイツのベルリン州の取り組みを紹介していた。 | |||||
by ヤマ '24. 1. 9. NHK出版新書 | |||||
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