『PERFECT BLUE』
監督 今 敏


 セル・アニメーションの作品をそう多く観ているわけではないが、それにしても今やこのくらいの水準まできているのかと驚嘆させられた作品である。現代日本の日常に潜む人間疎外と狂気というものをこれほど確かに、スリリングに、強烈な存在感とリアリティでもって描き得た作品は、一般の劇映画を含めてもあまり見当たらないように思う。芸能界を舞台に、主人公の現実生活と女優として演じるドラマの世界、新人女優として過度の緊張とストレスに晒された主人公に訪れる夢や幻想、幻覚。それらが巧みな設定と演出によって渾然一体となっていく緊張感がとにかく凄い。

 アイドル・タレントから女優への脱皮を志す女の子が“大人の女優”を名目に求められるのは、ほとんどの場合、女の子から女へのより露骨な性の商品化である。そのことを肌では感じ取りながらも、それが周囲の期待と評価であり、与えられるのが賞賛であれば、精神的には苦痛を伴っても健気に応えようとするのが若い女の子の哀しい性なのだろう。ヒロイン霧越未麻を観ていると、素直で良い娘であればあるほどに、そのことに傷つき、引き裂かれていくものであることがよく判る。芸能界に限らず、大人の欲望と打算に満ちた期待と評価に晒されると、翻弄され引き裂かれる若者にはそういうタイプが多く、その恐怖と不安というものが実にリアルに伝わってくる。そして、そういう弱者の悲鳴ともいうべきものに全く思いも馳せずに、自らの欲望と打算のために彼らを消費することが不当ともされずに、社会のシステムとして構築されていることが現代日本の日常に潜む人間疎外と狂気の本質であり、その典型として芸能界のアイドルシステムが取り上げられているにすぎない。

 もちろん他のどの分野におけるシステムにおいても、芸能界と同様、強い人間疎外と狂気に晒されようともそれを跳ね返し、傷つくことなくシステムを利用し、いわゆる成功を獲得する者はいる。しかし、適応できる一部の強靭な者の存在でもって、そのシステムが社会のシステムとして正当であることを証明できるものではない。芸能界の華やかさは、確かにある種の名声の獲得と憧れを誘うのだが、極めて現代的な嫌悪感の対象となる部分は、この世界が人間を商品として扱うことにおいて最もドライで欺瞞的で、尚且つそのことに平然としているように見えるからだという気がする。ある意味では、セックス産業のほうが華やかさや名声の獲得とは縁がないぶんだけ欺瞞が少なく、商品化のなかにもむしろ人間臭さが売り手にも買い手にも感じられるような気がする。もっとも、昨今はセックス産業の芸能界化が著しくて、一概にそうとは言えない面もあるけれど。それにしても、売り手が商品を商品としてモノ化するのは、ある意味で仕方がないけれども、買い手としてのファンやモノ化されている当人であるアイドルや女優自身がそのことに鈍感で、ある種の後ろめたさとか哀感を漂わせることなく、平然どころか陶然としている状況に現代という時代の狂気と人間疎外の怖さを典型的な形で感じる。

 近代が“封建制からの解放による人間復興”に時代としての意味があったとすれば、近代から現代への変化がもたらしたものは、“経済価値の優先に伴う人間の商品化”ではなかろうか。学生もサラリーマンも男も女も現代社会のシステムからは、商品化すなわちモノ化の尺度でしか見られていないような気がする。そして、そのことは時代の進行とともに加速度的に顕著になってきている。人々の心が、とりわけ若者の精神が荒廃してくるのが、無理もないことのように思える。
by ヤマ

'98. 6.22. 県民文化ホール・グリーン



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