『怒り』
監督 李相日

 実に観応えのあった悪人許されざる者の李相日監督・脚本作品として楽しみにしていたのだが、演技者のパフォーマンスの充実ぶりは見事なもので、演出力の高さも強く感じたものの、今ひとつ肚に落ちてこなかった。

 沖縄の少年の名をタツヤにするからには、殺人犯の山神一也に対して、リンゼイ・アン・ホーカー殺害事件で整形をして離島に逃亡していた市橋達也を確信的に意識しているのだろうが、そこでの「怒り」をどう捉えていいのか、別件事件の容疑者の語った伝聞だけで何をどこまで受け取るか、自分のなかで何とも収まりが悪かったのだ。

 他方で、沖縄の抱えている“怒り”のほうは、よく描かれていると思ったが、それが本事件なり犯人の書き殴った“怒り”といったものとどう繋がってくるのかもよく判らなかった。そして、千葉はまだしも、東京の物語には何が“怒り”なのか、見えてこないようなところがあった。

 公開捜査というかテレビ放映を通じた情報提供の呼び掛けが犯人逮捕に繋がった例はよくあるように思うが、他方で、ある種の事情を抱えた人々にお門違いの被害をもたらしている面があることを印象づけていたような気もしたが、それがまた“怒り”とどう結びついてくるのか不得要領だった。

 むしろ、いずれのエピソードにも濃密なまでに漂っていたのは深いところで各人を苛んでいたように思える“痛み”だった気がする。千葉に現れた田代哲也(松山ケンイチ)が負っていた親の残した借金にしても、槙父娘(渡辺謙・宮崎あおい)が負っていた娘の障害とそのもたらしたものにしても、東京の藤田優馬(妻夫木聡)や大西直人(綾野剛)が負っていた性的少数者や身寄りの問題、そして、シングルマザーのもとで育ち母子で沖縄に流れてきた小宮山泉(広瀬すず)の見舞われた米兵による強姦事件にしても、すんなり怒りに転じて表出することさえ困難な理不尽さによって負わされているもののように感じられた。

 問われていたのは、予告編でも謳われていた“信じる”ということだったように思う。なぜ『怒り』というタイトルになったのか、いずれ原作小説を読んで改めて考え直してみたいと思った。




参照テクスト:神戸連続児童殺傷事件 元少年A 著『絶歌』読書感想文


推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/16091903/
by ヤマ

'16.10.11. TOHOシネマズ8



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