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『コタンの口笛』['59] 『キクとイサム』['59] | |||||
監督 成瀬巳喜男 監督 今井正 | |||||
今回の課題作には、ハーフに生まれた幼い姉弟の見舞われる差別を描いた同年作品が並んだ。いずれも六十代後半の僕がほんの一歳のときの映画だ。先に観た『コタンの口笛』は、二十三年ぶりの再見。前回観たときは劣化したフィルムの色落ちで、予告篇にて「美しい大自然のなかに」と謳われる北海道の景色の色合いがさっぱりだった部分が補われ、当時よりは随分と成瀬作品も観てきたことも手伝ってか、なかなか興味深く観ることができた。 開始早々に出てくる、アイヌの人々を侮蔑する倭人の中学一年生佐藤が言う「あ、イヌが来た」などという侮言を今だに弄する輩がいるばかりか、本作製作当時よりも一般的には妙にタブー化して、陰湿になってきている感じがあるような気がしている。本質的にはヒューマニズムに属することであるのに、ポリコレなどと言って政治的問題に置き換えて立場的違いに居直るポリティカル・コレクトネスの誤用が目立つようになってきたように思う。 アイヌの言葉でシャモと呼ばれる倭人とのハーフとして生まれた中学生姉弟の苦難が描かれるなか、二十三年前に「大人になると若くしても諦観と忍従に傾くアイヌの人々の姿」と記した中西先生(土屋嘉男)が姉弟に説く“泣き寝入りじゃない我慢”といった欺瞞に対して、決然とした意志を見せる若者たちを映し出していて清々しい。 アイヌの生きる道は三つしかないとして、倭人の悪口を陰で言いながら媚び諂う親父のような生き方、倭人から上手くカネを引き出す利口な生き方、徹底的に倭人への反抗を貫く生き方のうち、三番目の生き方を選ぶと言っていた畑中幸次(大塚国男)の存在が利いている。疑義を唱えていたはずの従弟のユタカ(久保賢)が、佐藤との諍いや小学校の田沢校長(志村喬)への失望などから次第に幸次に沿う考え方に移行しつつあったなか、逆に以前ユタカに言った考え方を改めるようになったと告げていたラストが感慨深い。 幸次、ユタカ、中学三年生のマサ(幸田良子)が揃っていつも学生服姿で登場することが印象深い。未来を担う若者たちに託して、“学問とは本来、道理を弁える思考力を養うもの”であることを表象している作品だったようにも感じる。そして、画業への精進を夢みて上京した谷口先生(宝田明)が、才あるライバルたちが溢れている状況を実感するなかで想像以上の厳しさを味わいつつ、畑中姉弟が苦境と闘う姿を励みに頑張っていると寄越していた葉書がマサの人生に与える力を思って感じ入った。その意味では、本作のタイトルは「コタンの口笛」よりも、谷口先生がマサをモデルに描いて入賞を果たした「湖の岸」のほうが相応しいのかもしれない。 また、今どきの作品だと、佐藤がユタカとの約束を破って卑怯な加勢と闇討ちを仕掛けたことでユタカが亡くなってしまう展開に向かいそうな気がしたのだが、そうはせずにユタカの父イヨン(森雅之)の事故死と叔父キンジ(山茶花究)の顛末を描いたうえで、幸次の雄弁で締めている構成に初見時には覚えなかった好感を抱いた。それだけ世情の荒廃と日本社会の先行き不安を強く感じるようになってきているということなのだろう。そして、記念館ではなくて「アイヌ紀念館」となっている看板文字が目に留まった。ロケ作品ならではの記録性の示唆しているものがあるように感じた。 翌々日に観た『キクとイサム』は、十五年余り前に観て以来の再見作品だ。十年前に県立美術館が上映した際には、所用と重なり見送ったのだった気がする。改めて本作は、高橋恵美子【キク】と奥の山ジョージ【イサム】を得てこその作品だと思った。 小学六年生の女の子が飲酒でバイクに乗って町に向かうことを大人の誰もが止めない時代の話を観ながら、七十年近くの時を経て、変わったこと変わらぬことについて、あれこれと触発されたような気がする。隣家の農家の次男坊夫婦がなかなか好かった。 農家資格の取得に必要な五反にも満たない四反ばかりの畑を継いで、キクは独りで生きていくことができたのだろうか。「かまってやらねぇだよ」と一足先に大人の階段を登り始めたキクを捉えたエンディングを観ながら、その明るくタフな生命力を頼もしく思いつつ、しげ婆(北林谷栄)の言っていた「おめは嫁っ子には行かれねべ」が、その後どうなったのか気になった。川田キクが習字に書いていた「大志をいだけ」が何ともシニカルに映し出されていた中盤場面を想起したりした。 タップダンスも口上も歌も達者な高橋恵美子のほうは、付録の特典映像によれば、高橋エミとしてジャズシンガーになっていたようだ。アメリカに渡っていったイサムを演じた奥の山ジョージのほうは、その後をどのように生きたのだろう。 合評会では、三人のメンバーで支持作に対する意見が分かれたのが面白かった。二作品とも初見の者が、悪くはないけれどインパクトに欠ける『コタンの口笛』よりキクの人物像が圧巻の『キクとイサム』が断然いいと支持し、再見の二人が揃って甲乙つけ難いとしていたことが印象深い。そのなかで主宰者は五分五分としていたが、僕は今回は『コタンの口笛』のほうに軍配を上げることにした。 初見時のインパクトでは、マサとユタカよりも断然キクとイサムのほうに僕も目を奪われたのだが、その記憶もあってか、再見した際の『コタンの口笛』に感じた色合いの美しさと含蓄の深さに驚かされ、『キクとイサム』は確かに圧巻だけれども、画面が雄弁に語っている物語以上の深みには思いのほか乏しく観たまんまで、含蓄という点では『コタンの口笛』のほうが優っているように感じたからだ。 興味深かったのは、『コタンの口笛』のラストは息子の幸次が言う“血も涙もない”キンジに連れられて村を出ていく悲劇的なものだったことに対して、『キクとイサム』には希望の感じられるラストが用意されていたように思うとの意見だった。僕の目には、親世代とは異なる戦後教育のもとに育つ若者による新たな社会に向けた希望が込められているのは、むしろ『コタンの口笛』のほうだと映っていたからだ。強く逞しく生きていく覚悟を決める若い世代で締め括るという点では両作とも同じだったわけだが、学業を続けられることは何とか確保してもらったうえで姉弟が手を携えて道を歩き始める姿を正面から捉えて終えた『コタンの口笛』のラストと、自死は免れたものの姉弟が遠く離れた日米に生き別れ、老いた祖母と二人で僅か四反の畑を頼りに自活の道を模索しようとし始めるキクの後ろ姿を捉えて終える『キクとイサム』との対照は、そのような印象を残しているような気がした。 また、確かに息子からは人非人の如く言われていたキンジだが、実はそんなに酷い人物ではなかったのではないかという意見が主宰者から出されたのが面白かった。断然『キクとイサム』を支持すると応えていたメンバーには、全く思い掛けない意見だったようだが、言われてみれば、そのとおりだと僕も思った。倭人の女と所帯を持ったことで在所に居辛くなって出て行ったのであろう兄が居を構えるうえでカネを用立ててやっていたわけだし、おそらくは自身には叶えられなかったであろう高等教育に息子の幸次をやるばかりか、羽振りが悪くなってしまった現在においても、孤児となった姪甥を放置することなく、その行く末を考えて何とか学業は続けられる道を探してきているのだから、乱暴な物言いとある種の横暴さは見せても酷い人物ではない。昭和三十年代前半の壮年男子としては極普通の姿だと言えそうにも思う。マサが隣家のイカンテ婆(三好栄子)のような見送りをしたいと言ったのを一蹴したことにしても、考えようによっては、孤児となったこれからの過酷な人生に臨んで甘い感傷を断ち切る覚悟を促す試練を課したと言えなくもない。息子の幸次はまさにハイティーンの反抗期にあるから、殊更に父親を否定しがちとしたものだが、冷静に考えれば、四反の畑で自活していくことをキクに促すしげ婆よりも子供たちの行く末に対して思慮深い気がした。 含蓄があるという点では、田沢校長の描き方にしてもそうで、内心の差別意識を偽って徳のある教育者を装っていた人物というような浅薄で類型的な人物造形ではなく、イカンテ婆さんから孫娘フエ(水野久美)と校長の息子との結婚を請われてみて初めて自分の内にある差別意識に気づかされ、忸怩たる想いと葛藤に苛まれている様子が描かれていたように思う。谷口先生や中西先生の人物造形にしても、なかなか深みがあったような気がする。 先生の人物像という点では『キクとイサム』の松田先生(荒木道子)もなかなかの人物だった。教師が聖職とされ、人々から素朴な敬意を払われていた時代の作品だと改めて思った。払われる敬意には応えたくなるのが人情としたもので、実際、むかしは尊敬に値する先生が普通に数多くいたような気がする。そのような好循環が失われ、教職員がモンスターペアレンツに脅えるような状況が生まれるようになった契機は、いつ頃からなのだろう。 | |||||
編集採録 by ヤマ '25. 1.26,28. DVD観賞 | |||||
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