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| 『勝手にしやがれ』(À Bout De Souffle)['60] 『イージー・ライダー』(Easy Rider)['69] | |||||
| 監督 ジャン=リュック・ゴダール 監督 デニス・ホッパー | |||||
| 今回の課題作には、'60年代初頭のフランス・ヌーベルバーグの代表作と'60年代末のアメリカン・ニューシネマの代表作が並んだ。先に観たのは、二十八年ぶりの再見となる『勝手にしやがれ』で、二十八年前に「美術館特別上映会 レトロスペクティヴ ジョルジュ・ド・ボールガール」で観て以来の再見だ。当時の日記には、以下のとおり記されていた。 久しぶりに見る梅本氏は、以前から薄くなっていたからか、坊主頭にしていて驚かされた。でも、いつもニコニコしているから、けっこうイイ感じに見えた。ラウール・クタール氏は、気負ったところが微塵もなく、オペレイターのプロに徹した仕事ぶりを重ねてきたことが窺えて好感を持った。『ちんなねえ』のときの長田勇市氏を思い出した。 ゴダールの監督第一作『勝手にしやがれ』は、今になって初めてというのも少し変な気がするが、今回初めて観た。なかなかスタイリッシュで人物が颯爽としていてカッコイイ。後の作品を嘗て観たことがあるが、それらよりは随分と観やすい映画だった。しかし、ゴダールのイヤな奴ぶりは第一作目にして既にけっこう窺える。やはりあまり好きにはなれない作家だ。ゴダールのイヤな奴ぶりについては、穏健なラウール・クタール氏も断言しており、僕もやっぱりそうだったかぁと納得。映画の後、二人を囲んで“はと時計”で飲み会。他の出席者、通訳の山田さん…略…を含めて、計10名といったところ。 今回再見すると、ジャン=ポール・ベルモンド扮するラズロ・コヴァッカスことミシェル・ポワカールは、確かに恰好を付けてはいるが、自動車泥棒から警官殺し、無銭飲食、馴染みの女の着替えの眼を盗んで財布からカネを抜き取り、一夜を共にして執心したアメリカ人記者パトリシア・フランキーニ(ジーン・セバーグ)の仕事を邪魔しながら付き纏う全くのろくでなしで、最後に彼自身が呟く「本当に最低だ」そのものの男だった。本当に最低なのは、彼に訪れた成行きでも、密告をしたパトリシアでもない。 翌日観た『イージー・ライダー』は、約四十年前に『ファイブ・イージー・ピーセス』との二本立てで観て以来の再見だ。感想的には、当時綴った日誌に書いてあることに何ら変わりなかった。二十六歳の時分に書いたその日誌を2000年に開設した拙サイトにアップしたら、今は亡き大学の大先輩から激賞され、恐縮した覚えがあり、以来、いつか再見したいと思ってきていた作品でもある。いつの間にやら四半世紀のときが経った。 キャプテン・アメリカことワイアットを演じたピーター・フォンダが製作を担い、ビリーを演じたデニス・ホッパーが監督を務め、二人を含む三人で脚本を書いている。今回再見して、ジョージ・ハンセン弁護士(ジャック・ニコルソン)が言っていた「自由を語るのと自由であることとは違う」との言葉が改めて印象深かった。彼らがバイクを走らせた街道沿いは、半世紀以上経過した今、どのような様相になっているのだろう。 合評会では支持が『イージー・ライダー』のほうに集中するだろうとの予想に反して、4対1という結果になった。さすがに両作を公開時に観ているメンバーはいないわけだが、『勝手にしやがれ』を二十代で観てそのかっこよさに痺れたときほどではなかったとしながらも、制度や規律、しがらみ、道徳などから解き放たれていたミシェルは「今、観てもカッコいい」とのことだった。解き放たれたキャラクターのカッコよさなら、両作を並べれば、盗難車の線をパチパチ繋ぐミシェルよりゃ、大胆に改造したバイクに颯爽と跨るワイアット&ビリーのほうだろうと僕などは思うのだが、『イージー・ライダー』と違って「アメリカ的なマッチョ臭がミシェルにはまるでないところが響くんじゃないだろうか」というフォローアップ意見には成程と思った。 ワイアット・アープとビリー・ザ・キッドから取ったと思しき名前からも明らかなように、西部劇がモデルの『イージー・ライダー』には、車であれ女の眼であれ、“盗んで”せこく立ち回るような“いじましさ”が何処にもなかった。ヒッチハイカーに大金を隠したガソリンタンクへの給油をさせることに懸念を囁くビリーに対して、大らかな頓着の無さを見せていたキャプテン・アメリカと、着替えの隙に女の眼を盗むミシェルの違いは、やはり大きい。 また、『イージー・ライダー』は、それまでの映画のように映画音楽としてオリジナル曲を作曲するのではなく、既成楽曲を上手く使って成功した映画の魁なのだという話もあって面白かった。既成のものの引用という点では、絵画や米映画、クラシック曲などのひけらかしを得意気にしていた『勝手にしやがれ』の薄っぺらさと違って、既成楽曲なればこその時代性を取り込んで、そのメッセージ性とともに活用していたステッペンウルフの♪Born to Be Wild♪やザ・バンドの♪The Weight♪のほうが遥かにインパクトがあったように思う。 やはり『勝手にしやがれ』のカッコよさというのは、些か幼稚なカッコよさだという気が改めて湧いてきた。すると、自由とは何か、自由を迫害するものは何かを問うメッセージ性が『イージー・ライダー』にはあって、同じアウトサイダーであってもキャプテン・アメリカとビリーの生き方には、ジョージも含めて“反アメリカ”のポリシーが感じられるのが好いとの声が上がり、それに対して、その“ポリシー”のないところがいいのだとの抗弁も挙がって面白かった。ゴダールに対して、ポリシーの無さを支持する意見というのは、あまり聞いたことがなく意表を突かれたのだが、映画の既成枠を超える“新”映画における「既成のものの引用」という着眼点は、なかなか刺激的だった。 加えて、両作ともに直接的な言及はないものの、時代的に当然の前提としてあったはずの戦争(アルジェリア戦争【1954-62】、ベトナム戦争【1955-75】)の影を指摘する問い掛けもあって、とても面白かった。それぞれ公開時には中学生にさえ至っていない我々の身には、戦場帰還者たる若者の心境など、到底思いが及ばないが、重要な着眼点であることは察しが付く。とても興味深い合評会となった。 | |||||
| by ヤマ '25.12.13. DVD観賞 '25.12.14. BSプレミアムシネマ録画 | |||||
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