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『ちんなねえ』 | |||||
監督 林海象 | |||||
この作品は、高知県立美術館の開館3周年記念である“絵金展 土佐の芝居絵と絵師金蔵”の関連企画のひとつとしてプロデュースされた舞踏公演『トナリは何をする人ぞ』(大駱駝艦)の記録映画として企画されたものである。舞踏公演というのは、少ない動きの生み出すテンションを、場の空気を共有するなかで感じ取る類のライヴ公演だと思うが、それをスクリーンに投影される映像にすることでいかほどのことが記録できるのか、いささか疑問でもあり、あまり期待していなかった。高知県立美術館には、その少し前にダムタイプの『S/N』を世界初公開とふれこむ形でビデオで見せられたのだが、とても作品と呼べる代物ではなく、大いに失望させられていたので、ライヴ公演の映像化ということについての企画者の問題意識に対して疑念を持っていたことが影響していたのかもしれない。 ところが、善きにつけ悪しきにつけ、見せるということを過剰に意識しているような気がする林海象監督が映画化したことによって、かなり面白い、作品と言えるだけの佳作に仕上がった。舞台をべたっとフィルムに記録することによって、結局何も記録できないままに終わる記録映画とは、雲泥の差を見せている。舞踏が題材であるからか、低予算だからか、林監督は、そもそもはじめからライヴの舞踏の持つ緊張感と恐さをフィルムに納めようだとか、それと拮抗する映画にしようだとかいう目論見を持っていない。『トナリは何をする人ぞ』を題材として面白がる自らを表現することで、逆に『トナリは何をする人ぞ』という舞台公演そのものの面白さを伝えることに成功している。 異界から甦る四人の人物が順次フューチャーされていくのだが、そのうち、坂本龍馬とマッカーサーのときには、舞台公演にはなかった由紀さおりの歌う『夜明けのスキャット』が重ねられる。維新の夜明けと戦後民主主義(と言えるものがあるのかどうかは留保して…)の夜明けをもたらした人物ということなのだろう。このいかにも安直な選曲には、舞台公演を観ている者としては、思わず吹き出しながらも妙に納得しただけでなく、おしまいのフレーズ「…時計は止まるの…」を聞かされることで、時間の概念が言語化されて被せられる効果に、ハッとさせられた。また、土方巽の声には、彼の属した時代のざわめきとも言うべき、群衆のノイズ(デモ行進かなんかの音だと思っていたら、後で甲子園の歓声だと教えられた)が重ねられており、舞台公演のときよりもヴィヴィッドな効果をあげていたような気がする。 映像でも、生舞台の空気そのものはフィルムで捉えられない代わりに、能舞台公演では果たせない照明効果を取り入れることで、うまくイメージとして提出している。波だつ海辺に立ち現われる異界の住人たちの映像や風呂屋の浴槽に蹲る彼らの姿には、特に強い印象を受けた。また、舞台公演を観ているときには捉え切れない微細な部分を切り取るズームアップや客席からは観ることのできない角度からの映像が多用されていることも、客席から見える公演の記録などする気がまるでないことを示していて気持ちが良い。 甦る四人の人物のパートごとに、それが明確になる写真などのカットを挿入していたり、製作の高知県を配慮してか桂浜や高知城といった、いかにもの風物を映し出したりして、さらには、あろうことか大胆にもナレーションまで被せたりしているのに、ちっとも安っぽくなったり、嫌味になったりしていないのは見事だ。ある意味では、舞台よりも分かりやすく、愉しめるとも言える。このサーヴィス精神に溢れながらも、アーティスティックな雰囲気を損なわない映画作品は、こういった企画による映画製作のひとつの見本として、少なからず驚きを与える作品となっているように思った。 映画の最後には、絵金を育てた町、赤岡町の市井の人々のさまざまな顔が次々と映し出されるが、それもある種のサーヴィスであろう。しかし、結果的には、甦るべき魂を持つ者が四人の異界の住人だけではなくて、生きとし生ける総ての人々であることを伝えるような効果をあげていたように思う。舞台公演を観ていない人たちの目にどのように映るのか、今から楽しみである。 | |||||
by ヤマ '97. 6.29. 県立美術館ホール | |||||
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