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『イル・ポスティーノ』(Il Postino)['95] | |||||
監督 マイケル・ラドフォード | |||||
公開当時、当地でもオフシアター上映をされながら折り合わず観逃していた作品だ。郵便配達人と言われて僕に思い浮かぶ映画の筆頭である『山の郵便配達』['99]と、どういくのだろうと思いつつ臨んだら、郵便配達人よりも詩人の映画だった。 南米チリの政治家にして詩人のパブロ・ネルーダ(フィリップ・ノワレ)の視点から綴られた、ナポリ沖の小島の住人であるマリオ・ルオッポロ(マッシモ・トロイージ)の人物像と生涯を観ながら、詩作や政治活動の原点となるモチーベーションというものに想いを馳せさせられて感慨深かった。おそらくそれは、遠い日に僕が、文芸サークルに属して詩作に耽る時間を持ったり、生徒会に立候補して活動したりしていたことから離れて、既に長い時間が経っていることが作用しているのだろうが、政治にしても文芸にしても、本作に描かれているような原点的なモチベーションが、すっかり蔑ろにされる時代に現代がなっていることのほうが大きいような気がした。 一年あまり島の人々の世話になっていながら、帰国したらすっかり忘れたかのようにそっけなくなっているパブロを咎める義母に対して、「自分は何もできずにドン・パブロからはもらったものばかりだ」と庇っていたマリオの言葉が印象深い。義母の弁のほうが極めてありがちなものなのだが、実のところ、マリオはパブロが島に来なければ、職も得られず、詩とも出会わず、ベアトリーチェ・ルッソ(マリア・グラツィア・クチノッタ)との結婚も叶わなかったことだろうと見込まれる。だが、同時にコミュニズム運動に傾倒して息子の誕生を見届けることもないままに殺されてしまうこともなかったわけで、そのあたりのことを噛み締めつつ追悼しているパブロ・ネルーダを演じていたフィリップ・ノワレが味わい深かった。 また、自分は詩人の器ではないと零した夫に「貴男は詩人の器よ」と返した妻ベアトリーチェの言葉に押されたかのように、パブロに贈る言葉として、彼の求めた島の美を記録する生音と言葉を録音していたマリオの姿に、大学時分に生録研究会にも属して、波の音などの録音に励んだりしていた僕は、感慨深いものを覚えた。不器用で鈍臭く、漁師などとても務まりそうにないひ弱さのマリオに、メタファーを感受する繊細さと物事の本質を掴む感性が備わっていることを彼との暮らしのなかで看破していたベアトリーチェの、その胸にも負けない豊かさが素敵だった。マリオが残した録音テープをドン・パブロの元には送ることができず、彼に由来する名を息子につけることを嫌がっていたベアトリーチェが、五年後に息子をパブリートと呼んでいる場面が印象深い。いい映画だと思う。 手元にある公開当時のチラシによれば、パブロ・ネルーダは実在したノーベル文学賞詩人のようだ。彼にマリオのような島人との出会いが実際にあったのだろうか。そして、実際に教会で祈りを捧げるカソリックの共産党員だったのだろうか。それはともかく、公開当時のチラシの惹句は「人生を変えたのは、美しい言葉のタペストリー。」で、昨年の4Kデジタル・リマスター版によるリバイバル公開では「“言葉”が、人生に愛を運ぶ」となっていた。オープニングは、アメリカに移住した友人から届いた絵葉書を観ながら豊かそうな暮らし向きを羨むマリオの姿だったように思うが、詩の言葉に目覚め、隠喩を知ったマリオの人生は、たとえ夭折でも決して貧しくなかった気がする。 それにしても、まさか詩作、選挙に加えて、生録までも被って来るとは思い掛けなかった。生録つながりで忘れ難い『春の日は過ぎゆく』を思い出したりもした。ずっと気になっていた映画だったが、きっと公開当時に観る以上に沁みてきていたに違いない。 | |||||
by ヤマ '25.10.13. 喫茶メフィストフェレス2Fシアター | |||||
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