『春の日は過ぎゆく』(One Fine Spring Day)
監督 ホ・ジノ


 学生時分、僕は大学の生録研究会にいたことがある。波の音を録ったり、水の流れを録音したり、路面電車を待ち受けてマイクを向けたりしていた。女子大のマンドリン部の公演の録音を請け負った先輩に連れられ、淡い期待を胸に女の園に足を運んだこともある。ただでさえ今の歳になると、ある種の郷愁と切なさを抜きには観られない物語の道具立てが、この生録だと、とても穏やかな気持ちではいられないようなところがある。録音中、一言も喋れないなかで交わす仕種と視線と表情によるコミュニケーションのもどかしくも豊かな味わいは、相手が異性であると格別のものだった。言葉を交わさずに意思を伝え合うことを繰り返し共にすることで、自ずと寄せる想いが湧いたものだった。前作八月のクリスマスでは写真、第二作の今回は生録と、言葉のない場面を強く印象づけることのできる巧みな道具立てだ。

 その生録音の場面に限らないのだが、台詞のない、表情やちょっとした仕種による繊細な感情表現の豊かさとそれを捉える映像の瑞々しさが堪らない。物静かな雄弁さであるがゆえに、ギターやピアノで奏でられるシンプルな音楽が泌み渡ってくるところも、前作と同じだ。そして、描かれるのが、ひっそりと断念を選択する男の恋情の苦しくつらい胸のうちであることも共通している。

 女性のウンス(イ・ヨンエ) に限らず、意欲的で自己主張に富み、バイタリティのある人は、過剰気味の自身の活力のせいで、心身ともに蓄積疲労に見舞われがちだ。それで、虚ろさに癒しを欲しているときは、サンウ(ユ・ジテ)が備えているような穏やかな優しさが、掛け替えのないものとなり、活力を得て元気を取り戻すと、今度はそれでは飽きたらなくなってきて、刺激と緊張が欲しくなるとしたものだ。そして、その身勝手さに対しては、ある程度、自覚があるがゆえに、イラ立ちという、ある種の抑圧の掛かった形で現れてくるのだろう。その変化の大きさは、若さゆえのものとして、僕の歳にもなれば充分理解できることながら、そういう異なる欲求に対してオールマイティに対応できる者など、そうそういるものではないから、サンウは苦渋を嘗めることになる。

 この二人の接近と充足感、そして訪れるズレにおける関係性の捉えようと描写が絶妙だ。サンウの心にウンスの存在が泌み渡ってくる感じが実に繊細に捉えられている。そして、こころならずも苦しんでいる両者の罪のなさがよく伝わってくる。殊に接近から充足に至る過程におけるイ・ヨンエが何とも魅力的だった。その後も嫌な女に描いてないところが素晴らしく、サンウの善良さが反映されている。

 そんなウンスがサンウに別離を告げた後、おそらくは再び自身の気張りに疲れ、癒しを欲する状態が近づきつつあったときに、思いがけなく紙で指を切って、我知らず自分がサンウに教わった仕種をしていることに気づく。そして、彼を思い出し、思いのほか彼が自分のなかに住み着いていることにようやく気づいたかのようにして、サンウを呼び出す。無意識のうちの手の振りで思い出すというのには、少々あざとさも感じたが、僕にとっては展開上の許容範囲となった。観処が、まさしくそこからの再会の場面にあったからだ。

 ウンスに納得のいかない形で別離を告げられ、受けた傷に、なんとかかさぶたをかぶせることができたばかりのサンウが、彼女の気ままさに閉口しながらも、かさぶたの下に潜む会いたい気持ちに抗えず、再会する。応じたということは、そういうことなのだろう。かさぶたの下の傷に気取られまいとするのは、彼のプライドであるし、それ以上にかさぶたを剥がされることがつらいからだ。例によって穏やかに、過ぎにし春の日々を幾分なぞり懐かしむようにして過ごす。ウンスが用意してきた花鉢の贈り物も、既に祖母が他界していることを告げもせず、厚意として受け取り、拒みはしない。相手の真意を図りかね、懲り懲りさせられたことへの警戒と仄かに湧き立つことを禁じ得ない嬉しさや期待に内心忸怩たる思いを抱きながら、穏やかに再会を終えるつもりだったのだろう。言葉にはしないものの次第に明瞭に感じ取れるようになっていた、ウンスのやり直したいという思いも、一人になって咀嚼し直してみたい気持ちさえあったかもしれない。

 ところが、ウンスは、彼女にとっては照れや気後れが働いた表現だったのかもしれないが、久しぶりに再会したサンウに、懸念した強ばりが余り感じられないことに助けられついでに乗じてしまい、「今日一日、一緒にいよ~か」という言葉を口にしてしまう。

 本当は「やり直したい」と言いたかったのではなかろうか。「あなたが私のなかに住み着いていて、私にはあなたが必要だということがよく解ったから、やり直してみたい」と。でも、ウンスが口にした言葉は、まさしくサンウのかさぶたを剥ぐような言葉だった。一日限定にウンスは強い意味を込めてはいなかったのだろうが、サンウには聞き過ごせない。関係をやり直すのではなく、一日一緒に過ごすという申し出そのものが許しがたい。受け取っていたはずの花鉢をも押し返して、ウンスを拒んだ。拒みたくて拒んだというよりも、拒まざるを得なかったのだろう。その軽い言葉をもってウンスを許容しては、彼女をダメにしてしまうし、自分もダメになるという思いが働いたかもしれない。

 すぐさま、その場を立ち去ろうとしないサンウの姿には、ウンスの謝罪と訂正を待っている風情がなくもなかった。しかし、ウンスは謝罪の言葉も訂正の言葉も口にはしない。謝罪の言葉は、確かに彼女には似合わないけれども、自らの口にした言葉で、思いに行き違いとズレが発生したことは察知したはずなのに、自分の本当の思いを伝え、口にすること自体ができないでいるようにも見えた。双方に心残りがあることは、どちらもが背を向けず、立ち去ろうとしない姿に現れている。けれど、状況を打開する言葉をどちらもが発することができないでいた。

 サンウは、元々そういうタイプの男で、自分の気持ちを率直に言葉にしたり、自己主張したり、主導権を握って状況を引っ張ることが得意ではない。ところが、ウンスは、それをしないではいられないタイプの女ではなかったか。一旦は飲み込んでも、思い直して自分の気持ちを口にしないではいられない女性だったはずだ。サンウを部屋に誘ったのも、泊まっていくことを促したのも、ウンスだった。一旦乗り込んだバスを停め、降りて戻ってでも自分の意思を口にしないではいられなかったのが、ウンスなのだ。譲ったのは、オン・エアに採用する竹林の風の音をどのテイクにするのかということぐらいであったように思う。それさえもが、彼女が自分を抑えるということにおいて、極めて珍しく、いかにサンウにぞっこんなのかを示す形で描かれていた気がする。

 そんなウンスが、最後の場面では言葉を発することができずに、サンウのほうに顔を向けたまま心残りを窺わせつつ、少しづつ後退りする形で離れていくのだから、変わったものだ。紙で指を切ったときに、我知らず教わった仕種をしていることに気づいて、自分のなかにサンウが住み着いていることを知るシーンに少々あざとさを感じた僕にとっては、このときのウンスの姿こそが、確かにサンウと交わり、彼を吸収して、住み着かせていることの痕跡であるような気がした。皮肉にも、それゆえに説明の言葉が継げないで、せっかくの再会の機会を逆に決定的な訣別の機会にしてしまう。人に想いを寄せるということは、実はそういう変化をもたらすことなのかもしれない。けれども、サンウにはそういった形跡は見られない。やはり女と男では、寄せる想いに対して生じる心身の変化の様相というものが異なっているからなのだろう。

 そのサンウがひそやかな断念を本当に果し得たのは、その再度の別れのときからも時を経た、ひとりぼっちで草原での生録をしていたときなのだろう。ようやく断念できたことをふっと自認できる瞬間というものがあるものだ。そんな瞬間の、これからくよくよしなくてすむ自信を得た笑みが、ラストシ-ンの晴れやかな笑顔だったのではなかろうか。男は、傷にかさぶたを被せるにも、断念を定着させるにも、時間が掛かるとしたものだ。別に生録を手掛けたことがなくとも、若い時代を過ごしたことのある男たちにとっては、なかなか平常心ではいられない急所を突いてくる作品だと思う。見事なものだ。




参照テクスト:「 BELLET'S MOVIE TALK ひとこと掲示板」より


推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2002/2002_08_12.html
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2002hacinemaindex.html#anchor000817
推薦 テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/taidan/0306haru.html

by ヤマ

'02. 9.19. 県民文化ホール・グリーン



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