『翼よ! あれが巴里の灯だ』(The Spirit of St. Louis)['57]
『飛べ!フェニックス』(The Flight of the Phoenix)['65]
監督 ビリー・ワイルダー
監督 ロバート・アルドリッチ

 今回の課題作は、同じジェームズ・ステュアートが二十代の命知らずのイケイケ青年と五十代半ばの頑固おやじという二人のヒコーキ野郎を演じた作品のカップリングだった。

 十代の時分にTV視聴したっきりだった『翼よ! あれが巴里の灯だ』のほうから観たのだが、監督はビリー・ワイルダーだったのか、と再認識した。田舎の小さな飛行機製作会社の社長フランクとチャールズ・リンドバーグ(ジェームズ・ステュアート)の関係が好もしく、鏡をあげにきたのよとの女性の台詞が気に入った。

 コンパクトの鏡をチューインガムで貼り付ける細工に端的に表れている大らかな素朴さが飛行機製造、投資家たちや航空機会社の社長の振舞いなどに現れていて、ほとんど時代劇の様相を呈しているのだが、なにせ飛行機の操縦席から地上の人間に声を掛けることができる時代の実話に基づく作品なのだ。僕が生れる前年に製作された時点で三十年遡るのだから、ほぼ百年前の話になる。

 ヒコーキ野郎リンドバーグが航空機乗りを始めた時点から、相当に無鉄砲な命知らずだったことが、その楽天さとともに描かれていたが、その彼にして世紀の大挑戦の前には興奮して眠りにつけず、肝心の“セントルイス魂”を発揮しようにも睡魔との格闘に悩まされていたことが印象深い。

 投資家をうまく集めることができていたのには、弁護士で下院議員の父親を持つことが大いに役立ったのだろうが、本人の強運に負う部分が大きそうなのは、大西洋横断単独飛行の道中そのものに現れていたように思う。強運に自信ありげな彼の脳天気さと果敢さが、製作当時のアメリカのゴールデンエイジたる'50年代とも被さって映ってくるような作品で、ただ飛んでいるだけの長旅を巧みな回想構成で仕上げていたワイルダーの手腕も、なかなか冴えていたように思う。


 翌日に観た八年後の作品『飛べ!フェニックス』は、大西洋横断無着陸飛行をやってのけた二十代のリンドバーグを演じたジェームズ・ステュアートが、五十代も半ばになって、今度は歳相応にあの機長、もう年ですよ。単独飛行はムリだと思いませんかと陰口されるばかりか、砂嵐に見舞われ、自分のミスだと自ら認めるエンジントラブルによる不時着を余儀なくされるベテラン飛行士フランクという役回りで、どんなヒコーキ野郎を見せてくるのかと思っていたら、主軸は地上での人間模様にあるという作品だった。猛烈な寒熱差に見舞われる砂漠で、大きくコースを外れて救援も来ないなか、大型輸送機を改造して帰還機を組み立てようと提案する若き技術者ハインリッヒ・ドーフマン(ハーディ・クリューガー)に対して、飛行機乗りとしての敵愾心に囚われた狭量を覗かせる役処だった。

 だが、本作で最もバランスの取れた見識と冷静さを保っていた相棒の航海士モラン(リチャード・アッテンボロー)が頑なな片意地を諫めた際に、無線の故障の点検漏れをネタに逆襲して項垂れさせたことを反省する良識や素直さも持ち合わせていて、過酷な状況での責任者の苦衷を描き出して、なかなか見事な作品だったように思う。

 さすがアルドリッチ作品だけあって、男たちの群像劇を描いて達者な冴えを見せていたところが気に入った。さまざまなタイプの男たちの人物造形に深みと味があって、誰も彼もが印象深い。十代で父親に送り込まれた軍隊生活を二十年も続けて軍曹止まりのワトソン(ロナルド・フレイザー)の卑怯でも何でも生き延びることに全力を尽くし、マッチョな白人軍人の生活より、除隊とアラブ女との暮らしを夢みている姿を全面的に非とはしない描き方をし、砂漠の徒歩横断という無茶を試みるハリス大尉(ピーター・フィンチ)を決して愚か者にはせず、自らに厳しく他者には寛容な範を弁えた軍人としての誇りに生きた人物として、奇跡の生還と、献身とさえ言えない喘なき犠牲に殉じさせていた。手段を択ばず直情径行に大尉を追って犬死する採油技師のコッブ(アーネスト・ボーグナイン)にも、愚かより哀れを印象づける顛末が施されていたように思う。

 ドーフマンが有人航空機の設計経験はないモデル機デザイナーだったことにフランク(ジェームズ・ステュアート)とともに驚きながら、二人とも「騙された」とは言わず、彼の説得力のある専門知に自分たちが勝手に思い込んだに過ぎないことにモランが直ちに気づいて、彼は何も隠そうとはしなかったと水泥棒の件の自白を思い起こさせる台詞を発していたことが印象深い。それと同時に、航空機設計の経験がないことで見下された観のあることに対して、ドーフマンが原理は同じだと主張するばかりか、フランクからオモチャと言われたことに憤慨して、タウンズ機長、(遠隔操作の)モデル機はパイロットなしで飛ばなければならん、従って あんたの言う本物以上の安定性が要求されると、機体設計の難度をアピールしていた雄弁に感心した。

 そのうえで、全ての論争でドーフマンに屈していたフランクが、机上の理論では導き得ない経験知によって、爆風でシリンダー清掃を図ることでエンジンの始動に成功させるという、一矢報いる見せ場を最後の最後に構えているところがなかなか粋で、物静かでいて大事な局面でフランクを説得したり、命令を拒んだワトソンに替わって身を挺することのできる医師のレノー(クリスチャン・マルカン)を配することにも抜かりのない、見事なエンターテインメント作品だった気がする。そして、コンピューター人間がいずれ地球を支配するということだとフランクが航行記録に書き付けていた言葉の利いてくる時代が訪れていることをドーフマンの造形に改めて感じた。六十年前の実に味わい深く大した作品だった。


 男ばかり四人が集った合評会では、支持投票が二対二に分かれた。それだけ拮抗していたということなのだろうが、僕は断然『飛べ!フェニックス』のほうだった。面白かったのは、同作に登場した男たちの誰に最もコミットしたかとの問い掛けにも見事に四分したことだった。僕は、ある意味、奇跡の生還に最も貢献したキーマンとも言えるモランを挙げたが、質問者は物静かで勇敢なレノー医師、主宰者は最も卑近に感じたワトソン軍曹、そしてもう一人は意表を突く、最も個性的な唯我独尊技師のドーフマンだった。それぞれコミットのポイントが歴然と異なっている幅広さが、そのまま作品の豊かさと人物造形の巧みさを映し出しているように感じた。

 好かった場面は?と問われて、フランクが自分の言い過ぎを反省し、項垂れて退散したモランを発電室に追って働こうぜ のんべえと声を掛けてくれたことに対して、モランが無性に嬉しそうな笑顔を見せた場面だと応え、併せて、フランクがドーフマンに最後に一矢報いた場面も好かったと添えた。本作にはリメイク作品もあるのだそうだ。観てみたい気がしたが、ずいぶん見劣りがすると教えられ、一気に興味が減退した。

 これだけの作品が公開当時のキネ旬ベストテンで選外どころか選者の誰も票を投じていないとデータブックを持参した主宰者から教えられ、公開時期がずれたのではないかと数年探ってみたが、確かになかった。アルドリッチ支持者というのが誰かいそうだとしたものだし、配役も大いに功を奏していたように思うのに、不思議で仕方がない。

 ただ飛んでいるだけの長旅を巧みな回想構成で仕上げていたワイルダーの作劇の巧さが目を惹いた『翼よ! あれが巴里の灯だ』については、コンパクトの鏡を提供した女性の存在とそれをガムで貼り付けたエピソードも実話らしいとの話があったが、本当だろうか。もしそうだったとしても「鏡をあげにきたのよ」との台詞は、映画の作り手による創作に違いないという気がする。

 それはともかく、睡魔に襲われる単独飛行の伽になっていた蝿や、魚の鉄板焼きのフランク社長が差入に忍ばせた神父からの御守りメダルといった小道具の使い方の巧みさも含めて、映画上手のワイルダーの本領発揮作だとの賛辞が寄せられた一方で、どう観たって二十代半ばには見えないジェームズ・ステュアートがリンドバーグを演じている違和感が、終始つきまとったという意見もあった。そして、視聴したDVDのタイトルが『翼よ! あれが巴里の灯だ』ではなく『翼よ! あれがパリの灯だ』になっていたことを指摘すると、リバイバル時のポスターがそうだったからだろうと教えてくれた。巴里では「パリ」と読めない人々が増えてきたからなのだろうという声があったが、それでタイトル表記を変えるのかと唖然とした。せめてルビを振るぐらいにして留める敬意を払うべきだと思った。

by ヤマ

'25.10.14. DVD観賞
'25.10.15. DVD観賞



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