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『グロリア』(Gloria)['80]
『テルマ&ルイーズ』(Thelma & Louise)['91]
監督・脚本 ジョン・カサヴェテス
監督 リドリー・スコット

 今回の課題作は、追われるタフ・ウーマンを描いた二人のジーナの出演作のカップリングだった。先に観たのは『グロリア』で、これがかのカサヴェテス版かとの思いが湧いた。当時、各所で絶賛されていたような記憶があるが、残念ながら観る機会を逸していたものだ。二十五年前にリメイク作のルメット版を観てさっぱりだったのだが、ようやくにしてオリジナル版を観ても、まるで響いてこなかった。

 オープニングの些か気障ったらしい、ペインティングによるタイトルバックからのかなり緩慢な導入によってヤンキースタジアムから自由の女神そして、いかがわしい街並みを映し出すニューヨークからして嫌な予感が走ったが、筋立ても運びも人物造形も、なんじゃこりゃのオンパレードで、グロリア(ジーナ・ローランズ)がたまたま乗り合わせたとしか思えないバスのなかで伯父から説教される場面に至って唖然としてしまった。

 追うほうも追われるほうも途中で絡む人物も含めて、誰も彼もがグロリアと顔見知りで、大都会ニューヨークとは思えない出会い頭の数々や妙な会話やどうでもいいような会話が頻出し、事態をひたすら悪化させようとしているとしか思えないグロリアにカッコいいと思う暇もなく呆れ果てていた。組織の一味が追い詰めているのか、じゃれ合っているのか判らないような脱力逃走劇のなかでのグロリアの「なんでそこで帰る?なんでそこで置いていく?なんでそこで撃つ?」といった頓珍ぶりに興覚めしたわけだ。

 グロリアを追う組織の一味が鈍臭いのは、彼女がボスの元情婦で、いまだに想いを残している部分がある態からは判らなくもないが、これまた些か鈍臭過ぎる会計士(バック・ヘンリー)なんぞに出し抜かれた事の重大さからは、ぬる過ぎるという他ないし、手帳や貸金庫の鍵に執着しても、六歳の息子フィル(ジョン・アダムズ)に拘る理由は何処にもないように思えて、お話のためのお話というか釈然としないこと、この上なかった。

 アメリカのインディペンデント映画の巨匠とされるカサヴェテスの作品は、三十五年前に『オープニング・ナイト』['77]を観ているだけで、息子のニックの監督作ほどにも観ていないのだが、いくつか宿題にしている作品もあるものの、どうもあまり相性がよくなさそうな気がする。

 ニューヨークの近所にニューアークという街があるらしいことは知らなかったので、ほぅ、そうなのかとは思った。それにしても、赤塚漫画の警官のように、やたらと銃をぶっ放すグロリアだった。高校の先輩によれば、その判断と行動のスピードがいいのだそうだ。あの当時には珍しかったそうで、'80年当時に観たのがよかったのかなとのことだったが、それで言えば、さらに十五年遡る『ビバ!マリア』['65]の勢いのほうが僕は好きだ。少年時代にテレビ視聴したっきりで、少々心許ない記憶ながらもジャンヌ・モローとブリジット・バルドーの演じた二人のマリアのほうが魅力的だったように思う。


 翌日観た、『テルマ&ルイーズ』は公開時以来となる三十余年ぶりの再見だが、全く色褪せていなかった。思うところは基本的に当時の日誌に記したことと変わるところはないが、「#MeToo運動」以降となると、同じテルマ(ジーナ・デイヴィス)の台詞でも、警官を泣かせて奥さんを大事にしないとあたしみたいになるわよと言っていた場面の印象が強くなる。そして、こんなに目覚めてる気分って初めてと元の生活には戻れやしないと言っていた彼女の変化とルイーズ(スーザン・サランドン)との関係が対等以上のものへと転じていたことが前回よりも印象深く映って来た。

 ルイーズから困ったことがあるとすぐ取り乱すと呆れられ、転落というか目覚めへの道に二人がハンドルを切らざるを得なくなるアクシデントを招いていた足手纏いという以上に疫病神の如きテルマが、亭主運が悪いというよりも愚かさの目立つ迂闊で軟弱な専業主婦からJD(ブラッド・ピット)に6,600ドルの授業料を払って得たピロートークによって無法者に転じていく。そしてその後は、愚かさどころか天才的なアウトローセンスを抜け目なく発揮し始めるのが可笑しい。目覚めたる女性のパワーには、自他によって縛る雁字搦めの生活のなかで溜めて凝縮させてきた鬱積の起爆力があることをまさに目にもの見せている感じの変貌によって描いていたような気がする。

 どん詰まりの行き場のないなかでの開き直りというか、ある種の解放へとルイーズを導いたのはテルマのほうだった。強盗を働いた後にオープンカーを走らせながら、高歌放吟している場面の開放感がなかなか素敵で、遂にはタンクローリーを爆破させる二人がオープンカーのシートの背に腰掛けている姿がグロリアなんぞより遥かにかっこいい。タンクの爆破自体は、もはや紛れもなく無法者の行状なのだが、下衆な男たちが然したる悪気もなく、酔って暴行を働いたり、卑猥な言葉や仕草を浴びせかけてきたりすることとそう大きな違いはないどころか、逆に爽快感の漂っているところが秀逸だ。レイプ野郎のハーラン(ティモシー・カーハート)を思わず殺してしまった愚を重ねたりはしないのだ。

 するとカップリングテーマを「ジーナは拳銃をぶっぱなして新しい朝(あした)を見る」とした主宰者から未公開シーンや、もうひとつのエンディングなど、おまけも多彩とのコメントが寄せられた。どれも観たのだが、いずれも無くてもいい、むしろ無いほうがいいと思える納得のカットの仕方で、スタッフワークのレベルの高さを思った。今の日本映画の惨状を思うと尚更に、この特典動画を観て学んでほしいものだという気がした。


 女性二名男性四名の総勢六名となった合評会では、案の定、五対一で『テルマ&ルイーズ』に支持が集まった。『グロリア』のほうを支持した一名も両作ともに評価したうえでの選択だったが、『グロリア』を今回初めて観た二名が僕も含めて断然『テルマ&ルイーズ』のほうだとしたことが印象深い。先輩が「'80年当時に観たのがよかったのかな」と言っていたことを想起した。

 とても興味深かったのは、女性メンバーの一人が三十四年前に綴った拙日誌を読んでくれていて男対女の構図で観るよりも目覚めたる者の物語として観たほうが面白いとして二人を追い続ける警察のなかに登場する刑事の存在は、どうにも蛇足でいささか気に入らない。こんな刑事を登場させるから、男対女の構図でしかこの作品が見られなくなるとしていることに疑義を唱え、『テルマ&ルイーズ』はフェミニズム映画の傑作なのだとの強い支持を表明してくれたことだった。

 公開当時、過度に男対女の構図で語られることに疑問が湧いて綴っていたものなのだが、今なおそういう目線で観られるのだなと改めて思った。奇しくも昨年4K版のリバイバル公開があったのだが、公開当時のチラシの表のキャッチコピーが男たちよ ホールド・アップ! すべてが快感。女たちのルネッサンス!だったものが彼女たちの、自由が走り出す。に変わり、全ての女性が愛し、全ての男性必見の傑作!だった裏面の太字見出しが33年の時を経て、より強烈な輝きを放つシスター・フッド映画の金字塔!と変わって、殊更に男対女の構図を煽らないものになっていて、ようやく時代が追い付いてきたのだなと感じていただけに尚更に面白かった。

 また、ファッションの様相から時代設定が'70年頃だと思われるとの指摘を女性メンバーが二人揃ってしていたことに大いに意表を突かれた。'70年頃だとすれば、まさにウーマン・リブ運動のピーク時となるわけで、敢えてそうするよりも'90年当時の同時代性のなかで描くことのほうに意味がある気がするし、66年型フォード・サンダーバードのヴィンテージ感が損なわれ、'90年の6,600ドルが百万円に相当する相場感が倍額の二百万円という中途半端さも生じて、妙にしっくりこないように思うが、ファッション関係には極めて疎いので、何とも言えない。ただ '70年当時流行っていたアメリカンニューシネマを偲ばせるところが多々ある作品だったようには思う。

 ひたすらジーナがかっこよかったとの声が専らだった『グロリア』については、ラストの墓地での再会場面に対する違和感が提起され、支持を得ていた。再会の顛末以上に、グロリアとフィルの再会場面に施されていたセンチメンタリズムが不支持を買っていたような気がするが、僕が興醒めたオープニングに対しては、かっこいいという積極的な支持の声もあった。だが、サックス演奏をバックに映し出される夜のニューヨークなら、四年先立つタクシードライバー['76]のほうが断然いいと思う。
by ヤマ

'25. 7.14,15. DVD観賞



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