『テルマとルイーズ』(Thelma & Louise)
監督 リドリー・スコット


 従来、男たちの物語であった痛快ハードボイルドの女性版だとかセクシャル・ハラスメントへの抗議だとか、いかにも当世風のところが受けているかのように言われているが、この作品は、男対女の構図で観るよりも目覚めたる者の物語として観たほうが面白い気がする。「捕まらなくたって、もう元の生活になんか戻れやしないわ。」というテルマの言葉どおり、彼女たちは自己の解放と人間の誇りに目覚めてしまったのである。それは二人が意図したものでも求めたものでもなく、行き掛かりのなかで獲得したものであるが、彼女たちはそこに目覚めたがゆえに死んで行く。そういうと「一度でいいから人間らしくベッドで眠りたい。」と言って、それが自らの死を意味する行為だと承知のうえで選んだ『エレファントマン』のエリックを思い出すが、エリックの死とテルマとルイーズの死は決定的に違う。前者は誇りと絶望のなかでの厳しい選択としての死であり、後者は死の自覚よりも生の自覚のほうが強い高揚したノリのなかで突っ走った、飛び立つ行為としての死である。エリックの死のような沈痛さはそこにはない。

 しかし、いずれにしても目覚めたる者がそのことを主張し体現すれば、待っているものは死というほどに、この世は自らに無自覚であるほうが生き易く、また事実、多くの人が無自覚に生きているし、同時にそのことを許し合うという自覚もなしに許し合って生きているのだと思う。自身の言動の意味を改めて問い質された時のタンクローリーの運転手の鳩が豆鉄砲を食らったような顔は、決して特に珍しいものではないはずだ。セクハラの問題に限ったことではない。あることで、とある人物にどういうつもりなのか一度問い質してやりたいと思った記憶は男女をとわず、一度や二度ではないはずである。しかし、僕自身も含めてそれを実際に行動に移したことのある人はそう多くはあるまい。幾らかの誇りと矜持を譲り渡す屈辱と引き換えに取り敢えず無難な安穏を得てしまうのである。それが生きるための知恵であり、大人になるというのはそういう情けない知恵をいつの間にか身につけていくことなのである。そういう世過ぎに甘んじている僕たちにとって、だからこそ、テルマとルイーズのかっこよさは一種爽快であり、カタルシスを与えてくれる。しかも、それと同時にこの作品は、二人が死ぬ羽目にならざるを得ないことで、そう簡単に死ぬわけにはいかない僕たちがテルマとルイーズになれないことをも許してくれているのである。だからこそ、二人のもたらしてくれるカタルシスに安心して身を委ねることができるのであろう。そういう意味で非常によくできた娯楽作品なのである。

 二人のキャラクターも変に立派な人物ではなく極めて庶民的で、コンビの定石であるツッコミとボケの役割分担もきちんと踏まえてある。ボケなくしてツッコミはありえず、ツッコマれなけばボケようもない。そういう意味で二人の関係は対等であり、且つ絶妙のユーモアを保っている。ただ無力ながらも善意の理解者として、二人を追い続ける警察のなかに登場する刑事の存在は、どうにも蛇足でいささか気に入らない。こんな刑事を登場させるから、男対女の構図でしかこの作品が見られなくなるのである。この刑事は作り手が感情移入した人物であり、男性である。リドリー・スコット監督も男性である。それゆえに、この刑事の存在がいやがうえにも主人公の二人が女性であることを強調し過ぎてしまう。そのために作品が図式的な構成を形作ってしまうのである。
by ヤマ

'91.11.20. 松竹ピカデリー



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