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『破戒』['22] | |||||
監督 前田和男 | |||||
一昨秋、自由民権記念館で上映したときは観逃したが、思い掛けなく観る機会を得た。映画化は六十年ぶり、三度目になるそうだ。前回の市川監督版は、六年前にウィークエンドキネマM【現キネマM】での「大映創立75年企画“大映女優祭”」で観ているが、「最後の猪子蓮太郎(三國連太郎)の妻(岸田今日子)の場面が印象深い。原作は高校時分に読んだきりだが、瀬川丑松(市川雷蔵)の父(浜村純)のエピソードにまるで覚えがなく、凶暴な牛(差別の象徴?)に刺されて死ぬ場面なんかあったっけとオープニングシーンに驚いた。」と記しているだけで、女優祭に沿った志保(藤村志保)への言及もないままだ。だが、作品的にはかなり観応えがあった覚えがある。 本作も社会ドラマとしても人間ドラマとしても水準以上の作品だったと思うが、市川版で言及している場面が、本作には全く姿を現さないところが目を惹いた。市川版を観た際に仄聞したところでは、第一作の木下惠介監督版は、市川版とはまるで趣が異なる恋愛劇だということだから、その意味では、本作は木下版と市川版の折衷版という感じなのかもしれない。潤色の仕方が異なっても観応えのある作品になるのは原作の持つ力ゆえなのだろうと改めて思う。手元に残っている昭和四七年第二〇刷発行の文庫本には、当時、僕が副会長を務めていた生徒会の判があちこちに押してある。生徒会で小説本を購入するはずがないので、読書がてら遊び半分に押印したと思われるが、読んで強い感銘を受けた覚えがある。 瀬川丑松(間宮祥太朗)の下宿する蓮華寺の住職(竹中直人)が、口減らしに養女に出した娘の志保(石井杏奈)に手を出そうとしたと風間敬之進(高橋和也)が嘆く姿を観て、原作にもそのような場面があったろうかと帰宅後、書棚にある岩波文庫を当たってみたら、敬之進は「…実に人は見かけによらないものさね。…」(P238)と丑松に告げていたし、住職の妻も「…あのお志保に思いをかけるなんてー私はあきれて物も言えない。…気でも違っているに相違ないんです」(P255)と言っていた。島崎藤村が『破戒』を書き始めたのは明治三十七年(1904年)で出版されたのが三十九年、「ちょうど日露戦争のただなかに書かれたのである」(P341)と巻末に野間宏が記しているが、劇中に現れた志保が愛読する『みだれ髪』や『君死にたまふことなかれ』を引用した与謝野晶子への言及は、原作にはない潤色だろうと思ったので、この部分も昨今のトレンドを受けてのものか確認したのだが、きちんと百二十年前の原作でも取り上げられていた。流石の先見性だと改めて感心した。 ハイライトシーンは、丑松が教え子たちに別れを告げる教室の場面だろうが、それ以上に印象深いのが社会運動家の猪子蓮太郎(眞島秀和)による選挙応援演説の場面と、唾棄すべき同僚教師の勝野文平(七瀬公)が猪子を侮蔑したことに対して温厚な丑松が気色ばんだ場面だったように思う。野次に対して一呼吸置いて「我は穢多なり」と明言した猪子が元民権運動弁士と思しき壮士崩れの男たちを喝破していた「恥を知れ!」が鮮烈だった。だが、原作には演説会の場面はなく「ちょうど演説会が終わったところだ。…蓮太郎の演説はあまりじょうずの側ではないが、しかし妙に人をひきつける力があって、言うことは一々聴衆の肺腑を貫いた。高柳派の壮士、六七人、しきりに妨害を試みようとしたが、しまいにはそれも静まって、水を打ったようになった。悲壮な熱情と深刻な思想とは蓮太郎の演説を通しての著しい特色であった。時とするとそれが病的にも聞こえた。最後に蓮太郎は、ふまじめな政事家が社会を誤り人道を侮辱する実例として、はげしく高柳の秘密-六左衛門との関係-すべてその卑しい動機から出た結婚の真相が残るところなく発表された。」(P291)となっていて、映画の作り手たちが存分に力を入れた場面だったことが窺えた。劇中で猪子の発した言葉も「我れは穢多を恥とせず」「我れは穢多なり」(P295)として原作にも記されていたが、丑松が猪子の死を悼んで想いを馳せる言葉として登場していたものだ。 丑松が気色ばんだ場面の弁も「勝野君は今、猪子先生のことを野蛮だ下等だと言われたが、実際お説のとおりだ。こりゃ僕の方が勘違いをしていた。そうだ、あの先生もお説のとおりに獣皮いじりでもして、神妙にして引っこんでいればいいのだ。それさえして黙っていれば、あんな病気【肺病】なぞにかかりはしなかったのだ。そのからだのことも忘れてしまって、一日も休まずに社会と戦っているなんて―なんという気違いの態だろう。あゝ、開花した高尚な人は、あらかじめ金牌を胸に掛けるつもりで、教育事業なぞに従事している。野蛮な、下等な人種の悲しさ、猪子先生なぞはそんな成功を夢にも見られない。はじめからもう野末の露と消える覚悟だ。死を決して人生の戦場に上っているのだ。その慨然とした心意気は―はゝゝゝゝ、悲しいじゃないか、勇ましいじゃないか。」(P271)と皮肉を利かせたものになっていて、「愛国の名のもとに教え子を戦場に送ることを称揚する傍ら自らは昼間から酒肆に入り浸るような輩を上等とするなら、僕は下等のほうがいい。」というような啖呵を切ってはいなかった。 先進女性の魁として『華の乱』にも描かれていた与謝野晶子への言及も含め、作り手が愛国教育の欺瞞と反戦を訴える立ち位置を鮮明にしている点は、昨今の情勢を意識して反映させたものなのだろう。猪子が「恥を知れ!」と痛罵したことが効いてくる政事に執心する面々の有様が強調されて登場していたように思う。本作の三年前に参院本会議で「恥を知りなさい」と発言した三原じゅん子議員を意識して設えられていた気がしてならない。そのなかにあって、丑松の学友たる同僚教師の土屋銀之助を演じた矢本悠馬が美味しいところを持って行っていたように思う。郡視学である伯父の威光を笠に着る勝野文平や野心家の高柳利三郎(大東駿介)、校長(本田博太郎)らの配置が効いていた。そして、丑松が勉学の大切さを教え子に繰り返し訴えていた姿に、近年の誤った反知性主義の蔓延による社会の劣化を憂いている作り手の想いが込められているように感じた。教室で「全く、私は穢多です、調里です、不浄な人間です。」(P312)と破戒を実行した丑松が勉学の大切さと力を切々と教え子たちに訴える言葉は、原作にはなかった。全国水平社創立100周年記念映画として制作されただけのことはある力の入った作品だったように思う。 推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より https://www.facebook.com/katsuji.yagi/posts/pfbid02VmHSFiwrVBGkieq5 fatcjGZVEXcmL1zgFyT9oczXpDS7BjV6ndjDR3dGBgCUyKCDl | |||||
by ヤマ '24. 7. 5. 朝倉総合市民会館 | |||||
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