『道頓堀川』['82]
『螢川』['87]
監督 深作欣二
監督 須川栄三

 以前、忍ぶ川』とのカップリングで合評会課題作に採り上げられた『泥の河の宮本輝による川三部作の残り二作の映画化作品が合評会の課題作となったことで四年ぶりに道頓堀川を再見した。

 前回は観ていなかった特典の対談【織田明プロデューサー、森田郷平美術監督、佐藤忠男】において開陳されていた、原作者と揉めたというラストにまつわる話がなかなか面白かった。深作欣二が共同脚本として名を連ねていることの核心部分なのだろう。書棚にある文庫本<昭和五十八年五月二十五日初版発行 角川文庫>を開くと、ラストは鈴子は、ずっと杉山と一緒にいたかったのに違いない。だが鈴子は、あの飢えの時代にあって、万策尽きて仕方なく自分のところに帰ってきたのだ。杉山も鈴子も、なんと可哀想だったことだろう。…武内は一瞬、烈しい思いで鈴子の弾力に富んだ白い体を心に描いた。ふいに涙が溢れてきた。鈴子をいまほど愛しいと思ったことはなかった。しかも武内は、煮えたぎるような憎しみを、その愛しい今は亡きひとりの女に向けていた。武内は、振り返り、顔を伏せたまま、「さあ、始めよか」」と言った。父親の唐突な涙を見て、政夫はぼんやりキューを握りしめたまま、玉台に凭れかかっていた。吉岡もゲイボーイたちも、ロンドンのマスターも、武内の濡れた目を怪訝そうに見つめた。
 最後のゲームが始まった。だが、武内は、殆ど無意識にキューを突いていた。どこか酩酊した頭の一角に、法善寺の方に消えて行った邦彦の姿があった。武内は、たとえ本人がどんなに拒んでも、邦彦を自分のところに引き留めておこうとも考えていた。赤の他人の邦彦に対しても、いま武内は自分の息子のような愛情を感じるのだった。武内は、玉突き場の蛍光灯に照らされ、前転し、後転し、斜めにひねられ、直線とかすかな弧を描きながら、硬い音をたててぶつかり合っている赤と白の玉を見やった。それはもはや丸い象牙の玩具ではなく、細長い棒から突き出される邪悪なエネルギーにもてあそばれて、目に沁みるばかりに鮮やかな緑色の小宇宙を展転する、小さな切ない生命体であった。
P245~P246)となっていた。政夫との親子対決のゲームの場面で終えるばかりか、涙目でキューを突くのは政夫ではなく鉄男のほうだった。

 この改変に対して異議を唱えた宮本輝に対し、深作欣二は、小説ならいざ知らず映画はこれでは「終」マークが出せないと断固として譲らず、原作者が、何も邦彦を殺さずとも彼が道頓堀を去って行くところでエンドマークを出せばいいではないかと食い下がっても拒んだということだった。これについては僕も、この展開で来て最後に彼を死なせなければ、十九歳の邦彦(真田広之)には十歳年上のまち子(松坂慶子)との期限付きの美味しい甘々ヒモ生活が待っているというエンディングになるわけで、それはないだろうと思った。原作の末尾にあるような、人生は前転し、後転し、斜めにひねられ、直線とかすかな弧を描きながら、硬い音をたててぶつかり合って…、邪悪なエネルギーにもてあそばれて、目に沁みるばかりに鮮やかな緑色の小宇宙を展転する、小さな切ない生命体、ではなくなってしまうからだ。

 そして、原作小説では犬の小太郎が三本足だったことで暗示されていた道頓堀川の住人たる、どこか“半端者”と見られがちな、囲われ者やゲイボーイ、博奕打ち、キャバレーの踊子といった人々が、それぞれ恋に勝負に対して懸命に一途に生きている命の煌めきを鮮やかに掬い取っている、なかなかの秀作だとの思いを新たにした。


 同日に観賞した螢川も、合評会の課題作になったことでの一年ぶりの再見だ。そう時間も経過していないし、基本的に前回とほぼ変わらぬ印象だったが、さすがに『道頓堀川』と続けて観ると、中学生の竜夫(坂詰貴之)と英子(沢田玉恵)の淡い恋よりも、まち子と邦彦の熱っぽい恋のほうが、遥かに目を惹く気がした。

 そして本作において、血の繋がりもないどころか夫(三國連太郎)を奪った千代(十朱幸代)との間の子ども竜夫を慈しんでいた春枝(奈良岡朋子)が、小説『道頓堀川』の武内について綴られた赤の他人の邦彦に対しても、いま武内は自分の息子のような愛情を感じるのだった。P246)と重なっていることに気づいた。おそらく宮本輝のなかにある原体験なのだろう。


 合評会では、松坂慶子ファンではないというメンバー二人が『道頓堀川』を全く評価していなかったことが面白かった。僕を含む残る二人が支持するであろうことは予想できるが、それは専ら松坂慶子によるものであって、その心情は分かるけれども作品的には安っぽいメロドラマに過ぎないというような指摘もされ、もう一方からは、だから僕の支持理由を聴いてみたいとまで促される始末だった。

 そこで、確かに我が“女優銘撰”にも挙げてある松坂慶子の魅力もあるけれども、『道頓堀川』の前回の再見日誌にも綴ってあるように、僕の愛好するハスラー麻雀放浪記といった勝負師映画の系譜にある作品であるとともに、鉄男(山﨑努)が息子の政夫(佐藤浩市)の甘さを質すゲーム場面に説得力があって、本当は政夫が負けていた勝負を玉台に顔を伏せて政夫が項垂れている隙に、鉄男が手で玉を落とし勝ちを譲る姿に納得感があって良かったのだと伝えた。鉄男が譲った勝ちは甘やかして与えた勝ちではなく、その前段で言わば卑怯な手を使って政夫を動揺させて追い込んだにもかかわらず、鉄男の想定を超えて政夫がそれに耐え、自分に負けを覚悟させたが故のものだった気がする。本当に最後のナインボールが落ちていても何ら不思議のないところまで持ってきていた。そこで玉が落ちるか落ちないかは、ほんの運次第だったわけだが、それが勝負を分けてしまうのが博奕というものだ。その厳しさは充分に学んだと観たに違いない。

 そのうえで息子の運を潰してしまうのは心苦しかったのだろう。鉄男が勝負の場で政夫に告げた話が事実であったか否かは一概には言えない気もするが、妻を不本意な死に追いやったことは間違いないのだろう。妻の鈴子(岡本麗)にしてしまったようなことを繰り返すまいとしたのだと思う。『螢川』にも子どもの竜夫に大金を用立て、無利子で無期限、貸方が死亡した時は貸借関係は消滅するという但し書きを添えた借用書に署名と拇印を押させた大森(大滝秀治)が運というもんを考えると、ぞっとするちゃ。あんたにはまだよう判るまいが、この運というもんこそが、人間を馬鹿にも賢こうにもするがやちゃと言う場面があったことを想起させる、なかなか含蓄のある場面だったような気がする。

 僕の支持が単に松坂慶子ゆえではないことは理解されたように思うが、その後、深作が邦彦を死なせるラストに変えたことについての是非が、作品自体の支持と異なる組み合わせによって賛否の分かれたことがまた面白かった。作品を否とした女性メンバーが深作による原作改変については、深作らしいと賛を表明し、映画としての出来は『螢川』のほうが優れていると思うけれども繰り返し観たくなる支持という点では『道頓堀川』だと言っていたメンバーが、「ハッピーエンドが好きな僕には、見るたび今回は違うラストであってよ、と祈るものの通じずに乱闘に巻き込まれる死」に深作が変えたのは賛同できないと否に回っての二対二となった。幾人もで意見交換することの醍醐味を味わえるような愉しく刺激的な合評会だった。
by ヤマ

'24. 1.23. DVD観賞
'24. 1.23. BS松竹東急よる8銀座シネマ録画



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