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『裏窓』(Rear Window)['54] 『北北西に進路を取れ』(North By Northwest)['59] | |||||
監督 アルフレッド・ヒッチコック
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先に観たのは、'50年代前半作品の『裏窓』。薄いブラインドが上がって窓から覗く光景から始まり、裏窓にブラインドが下りて終わる作品の四十年ぶりの再見だ。 いくら暑く、今と違って開けっ広げだった七十年前とはいえ、あれほど窓を開け放っていただろうかと思ったが、'58年生まれの僕の幼時を思い返すと、そんなものだったような気がするから、覗くほうにしても覗かれるほうにしても人の頓着の様変わりを再認識する感じだった。本作でも、新居への入室を新婦を抱きかかえてのものにやり直していたカップルは、その後、きちんとブラインドを降ろしていたわけで、何もかもを開けっ広げにしていたわけではないことを示していたところが効いていて、それだけに隠す隠さないの境目の変化の差の大きさが実に新鮮だった。 被写体を見詰めることがその職務とも言える写真家のジェフことジェフリーズ(ジェームズ・スチュアート)にしても、ギプスで足を固めた療養生活を余儀なくされてなければ、覗きに現を抜かすことはなかったのだろうが、退屈紛れに観察していたら思いのほか面白く、また気になる出来事に遭遇したという設えが、なかなか巧みな作劇だったように思う。 本線の筋立てだけならば、二時間近くも要しないのであろうが、様々な住人の暮らしのなかの出来事や変化を見せて、観客に“覗きの妙味”を見せることこそが本題とも言うべき映画だから、そちらを追うカメラが入念且つ技巧的な動きを見せる。 それはともかく、宝石が商売のネタだったりしていれば、家に宝石があるのは当然で、大事な宝石を残して女性が家を空けるはずがないという思い込みでリサことリザ・キャロル・フリーモント(グレース・ケリー)が、不審を抱いた出来事からのジェフの妄想に同調していく姿が印象深かった。結果的にたまたま的中していたにせよ、そうでなくても、あれだけ執拗な嫌がらせを受ければ、ラーズ・ソーワルド(レイモンド・バー)ならずとも乗り込んできて怒りをぶつけてきておかしくはないと思えるジェフたちの暴走だったような気がする。ジェフと旧知のトムことトーマス・ドイル刑事(ウェンデル・コーリイ)がジェフと同じような感覚で強引な捜査を行なうことの引き起こす人権侵害を思えば、結果的に冤罪ではなかったとしても、不法侵入による証拠探しや手紙で脅して揺さぶる捜査方法を警察が公然と行うようになれば、先ごろ起こった大川原化工機事件を想起するまでもなく大問題なのだから、ジェフたちの行為を単純にお手柄とする気にはなれない蟠りの残る話ではあると改めて思った。 と同時に、捜査権力を賦与された職業人なら当然ながら備えるべきモラルを排して素人が手を染めれば、備えるべき倫理観を欠いた“目的のためには手段を選ばず”が横行し、世の中が乱れてしまうのは何も犯罪捜査に限ったことではなく、報道というものについても同じであることをSNSやユーチューバーの出現によって日々思い知らされているような気のする昨今だとつくづく思った。 そして、そういう意味では、恋するジェフの思い込みに次第に同調していくことになるリサの邪気のない引き摺られ方の危うさの描出にこそ、今日的意義のある作品でもあるような気がしてきた。そこには、昨今の選挙動静というものが影響を及ぼしているのかもしれない。 すると「無関心の怖さと関心を持ちすぎる事の怖さと。エアコン完備の現代では成立しないサスペンスでもありました。👀」とのコメントが寄せられた。エアコンの件については、まさにそのとおりだ。もっとも我が家では、空調設備によって窓は閉めたにしても、矢鱈とカーテンを閉めたがる妻と採光のほうを求めがちな僕とで大きな乖離がある。関心無関心の怖さについては、社会を構成する市民としてのコミットの仕方というのは、元来とても難しく知性の求められるものだと思うのだが、もう随分と前から「許せない!訴えてやる」といった、情緒に訴えるベクトルでの煽りのほうが、商業メディアからして主流になっている“誤った反知性主義”の時代と言える現代と七十年前との違いがあってもなお相通じる点が重要だと思った。 また、旧知の映友が「今日日ならではの鑑賞文でナイスです👍」とのコメントを寄せてくれた。昔の映画を観ると、そこに写し取られている風俗から今が照射されて面白いとつくづく思う。コロナ禍以降、家で映画を観る機会がめっぽう増えて、思わぬ果報を得たような気分だ。 さらに「窓について。外国映画、米は、窓、夜でもカーテンなしが印象にあります。田舎でなくても。それが映画の展開につながることもあります。 昔は都心もそれほど気にしなかったような。とっくに壊した実家、幼児期は障子がありました。結婚後この30年くらいは、しっかりカーテンをしめてます。もちろん鍵も。」とのコメントも貰った。我々の世代だと都会でも田舎でもそうだったのだと改めて思った。障子については、幼い時分には張替え作業を年末にやらされていた覚えがある。下から順に少し重なりをつけて貼っていくと重なり部分に埃が溜まらないと教えられたものだ。今ではするのが当たり前になった施錠も、幼い時分はそうではなかった。その点からもまさに日本がアメリカナイズされているというか、二十年前に観た『ボウリング・フォー・コロンバイン』のなかで、カナダでは家に鍵を掛けないというので、マイケル・ムーアが本当か確認する場面が出て来ていたことを思い出した。 翌日に観た、タクシーへの割込み乗車から始まり、トンネルへの列車の進入ショットで終える『北北西に進路を取れ』は、十四年ぶりの再見になる'50年代後半作品だ。前回の初見の際にも「最も興味深く感じたのは、…風俗映画としての側面だった」と日誌に記しているが、本作のような作品を観ると、日本人のメンタリティは戦後八十年を経て、本当にアメリカナイズされてきているなと改めて感じる。映画の感想的には、ほぼ変わりがなかった。 ただ今回は、タクシー、飲酒運転、列車、バス、複葉機、航空機(看板だけで乗らなかったけれども)と矢鱈と乗り物が出て来ていて、性懲りもなく三度目の結婚をすることにしたロジャー・ソーンヒル(ケーリー・グラント)と、工作員はもう辞めるのであろうイブ・ケンドール(エヴァ・マリー・セイント)が、新婚旅行の途に就いた乗り物で終える最後になっていたことが目に留まった。 そして、前回疑問に思った作品タイトルについては、もしかすると看板が強調されて出てきながらロジャーが乗り損ねていた“ノースウェスト航空による北行き”のごとく、尽く思惑違いというか予定外の出来事に見舞われる有様を象徴していたのかもしれないという気がした。 ジェフが一歩も自室から出て行かないままの『裏窓』とロジャーがあちこち矢鱈と動き回る『北北西に進路を取れ』と対照的な両作のいずれが支持されるか興味深かった合評会だが、思い掛けなく細君連れで参加したメンバーの細君が『裏窓』について、明示はされていなかったソーワルドの妻殺しをどう観るかとの問い掛けをしてくれた際に、肝心のそこにきちんとけりが付けられていないがゆえに『裏窓』は駄作であるという若者の意見をけっこうネットで見掛けたとの話を披露してくれたのが面白かった。いまどきの若者はそのような愚にもつかぬ観方をしているのかと驚いた。 結果的にたまたま的中していて殺人犯だったからいいようなものの、それでも単純にお手柄にする気になれない蟠りを残すとさえ観ていた僕には、このうえソーワルドが冤罪であったなら、ジェームズ・スチュアートとグレース・ケリーが演ずる役柄の作品として成立しなくなるわけで、「謎はなお残る」という観方は極めて表層的で浅はかな捉え方だという気がした。「たまたま的中していたからよかったものの」という部分にこそ妙味のある映画なのに、そこから「的中」が取り外されると作品にならなくなってしまうではないかとすっかり呆れた。そして、何もかも画面に映し出し台詞にしてしまうテレビドラマの悪影響で、見せられ聞かされたことしか受け取れない観客が多くなっていることを嘆くメンバーの声に皆が賛同した。 思うに「想像でものを言うな」といった言説が過度に幅を利かせる世の中になってきていることが影響しているのではなかろうか。僕が育ってきた時代のなかでは「想像力が豊か」というのは褒め言葉だったのだが、今や同じ言葉が嘲笑的ニュアンスで使われることのほうが多くなってきている気がしてならない。創造力は相変わらず持て囃されるけれども、想像力のほうは「想像でしかない」ものとして扱われ、ひどく貶められている気がする。理想という言葉に対する扱いの変化とも通じている気がするが、まったく貧しい感性だと嘆かずにはいられない。裁判でもないのに、物証のない証言だけでは恰も事実は存在していないものとして居直る輩が跋扈し、証拠を突き付けられてさえ、記憶にない、自分は知らない、自分の本意とは異なる誤解だといけしゃあしゃあと白を切ることを皮肉ではなく「メンタルが強い」と称賛する向きさえ現れる始末だ。 そのような話題を引き出し得たことが奏功したのか、今回の支持は三対一で『裏窓』に軍配が挙がった。僕自身の思いは、拮抗しているけれども強いて挙げれば『裏窓』かというところだったが、予想では二対二に割れるか、筋立てだけならば二時間近くも要しなかったはずの緩やかな展開の『裏窓』よりも、テンポよく飽きさせない展開で惹きつけていく運びの巧さのある『北北西に進路を取れ』のほうが支持を集める気がしていたので、意外だった。 カップリングテーマは「ヒッチコックの映画術 -ピュアシネマに酔いしれて-」とのことで誰からも異論なし。『北北西に進路を取れ』の十四年前の拙日誌にも「紙マッチでの伝言がR.O.T.という印刷によって意味をなすことを映し出すショットなど、セリフに頼らないヒッチコックらしい達者な視覚話法が堪能できる」と記している、映画術の達人に相応しいフレーズだと賛意を示した。ヒッチコックが見せたいのは映画術であって『裏窓』のソーワルドの殺人事件や『北北西に進路を取れ』のバンダムの陰謀などは、素材であって主題ではないのだから動機や狙いすら示されないといった趣旨のことを主宰メンバーが言っていたが、そのとおりだと思う。 そして『裏窓』の主役はジェフではなくて、惚れた弱みで彼の妄想に引き摺られていくリサだと思うと言った僕の意見に添えて、『北北西に進路を取れ』にしてもロジャーは巻き込まれてバタバタしているだけで、主役はロジャーとバンダムの間で揺れるイブ・ケンドールを演じたエヴァ・マリー・セイントであって、ヒッチコックは専ら、ブロンド美女に御執心なのだと主宰メンバーが言っていたことに笑った。 それに対して、カップルとして観ると、当時二十代半ばのグレース・ケリーと四十代半ばのジェームズ・スチュアートにしても、同じく二十代半ばのエヴァ・マリー・セイントと五十代半ばのケーリー・グラントにしても、揃って女性のほうから惚れ込んでいるのが気が知れないという声があった。これには、1950年代くらいだと若い男は小僧扱いで一人前ではなかった一方で、女性の若さが最強の武器とされていたと思しき状況が作用しているのではないだろうか。また、当時の客層が今とは違って中年男性が中心だったように思われることも反映されていそうな気がする。ともあれ、メンバー夫人の参加も得て思わぬ提起もあり、今回はいつも以上に愉しい合評会だった。 | |||||
by ヤマ '24.11.12,13. BSプレミアム録画 | |||||
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