『マンハッタン無宿』(Coogan's Bluff)['68]
『三つ数えろ』(The Big Sleep)['46]
監督 ドナルド・シーゲル
監督 ハワード・ホークス

 奇しくも二日続けて、腕利きというよりは色利きという他ないような捜査官と探偵の物語を観た。製作年次に二十二年の開きのある両作なのだが、配されたヒロイン二人の人物造形の対照に相通じるものがあって興味深く感じた。

 先に観たのが『マンハッタン無宿』で、これがかのイーストウッドとシーゲルの初コンビ作か、と思いながら観た。ヒロインは一応、スーザン・クラークの演じたジュリーなのだろうが、目を惹いたのは、リニー・レイブンを演じたティシャ・スターリングのほうだった。ジュリーの職務が職務だっただけに只の色惚けに映るのと、口説きに対する躱しの焦らし方に妙な芝居掛かったくどさがあったのが難だった気がする。しかし、この作品がそれほど好いとは、どうも思えなかった。

 原題からすれば、場違いな都会に出て来てのハッタリ捜査みたいなタイトルだが、ハッタリもなにも思いつくままの無思慮に過ぎない気がしてならず、手当たり次第に撃ちまくった色利き銃が命中してリンガーマン(ドン・ストラウド)の再逮捕を果たしたものの、捕まり方が余りにドジなリンガーマンだったように思う。

 それにしても、母親も恋人もNYにいるリンガーマンをアリゾナで八日掛かりで逮捕したというときの犯罪が何で、アリゾナで逮捕された彼がなぜNYで拘置されていて、手続きも終えていないまま身柄引き取りの出張用務が発生するのか、全く釈然としない物語だった。


 翌々日に観たボガートの『三つ数えろ』は、四ヶ月ほど前にケイン号の叛乱['54]を観た際だったと思うが、ボガートならフィリップ・マーロウを観なくてはと言われて映友から借りたものだ。『マンハッタン無宿』のクーガン(クリント・イーストウッド)同様に、腕利きというよりも、色利き探偵のフィリップ・マーロウ(ハンフリー・ボガート)三十八歳だったように思う。スターンウッド姉妹のみならず、タクシードライバーの女性(実際に米国では既に四十年代から存在していたのだろうか)からガイガー書店の向かいの本屋の店員まで、誰も彼もが一目惚れの態で些か呆れた。高飛車な姉ヴィヴィアンを演じていたローレン・バコールよりも、だらしない妹カルメンを演じていたマーサ・ヴィッカーズのほうが魅力的に映ったのは、百万長者と結婚する方法['53]同様だった。

 女性たちに限らず、マーロウに対しては、駆け引きも含めて誰も彼もが饒舌で、問いにはほぼ全て答えが返って来るし、これがいるだろとマーロウが投げ落とした銃を拾おうとして腹を蹴り上げられ悶絶していたラングレンの場面には、その御粗末な馬鹿さ加減に唖然とした。また、A.G.ガイガーに次ぐ脅迫犯ブローディ殺しの顛末も、余りに雑で驚いた。

 ただ、'46年作品とされる本作に対して3分長い'45年版が付いていて、チャプター構成の対比表もあって比較対照できる形になっていたのが面白かった。両者の違いは、全32章のうち17章22章が「きわどい会話」「嚙みついたカルメン」になっている'46年版と、17章18章が「地方検事の部屋で」「一件落着?」になっている'45年版というものだったわけだが、'45年版では、地方検事の部屋で事件のあらましがここで整理される形になっていて、込み入った話が非常に判りやすくなっていた。そのうえで、そこからマーロウがどう出るのかという展開になるわけだが、'46年版では込み入ったまま最後まで進むなか「一件落着?」ではなく「きわどい会話」の章で、マーロウに500ドルの報酬が支払済みになりながら、報酬とは別のところで捜査を続ける意思が明確に示されていた点が大きく違っていたように思う。ローレン・バコールやマーサ・ヴィッカーズの出番が増えている'46年版だが、作品的な調い方は、'45年版のほうが優っているように感じた。

 少々混乱したままになってしまう観客が少なからずいそうに思ったからなのだが、そのもやもや感にこそ味わいがあると思い直して「地方検事の部屋で」「一件落着?」の章を外しながらも、500ドルの報酬支払済み場面は必要として「きわどい会話」の章を入れたのだろうか。もっとも、もしかすると興収状況をみて、地方検事らのおっさん場面は要らないから、ローレンとマーサの出番を増やせという製作サイドからの要請があっただけなのかもしれない。
by ヤマ

'24.11.10. NHKBS録画
'24.11.12. DVD観賞



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